砂々は人形に「さな」と名付けて、その日から片時も離さなかった。
 寝台にいる時も、庭を歩く時も、食事をするときも……常に胸に抱きしめていた。小さな子をあやすように揺らし、時折、耳元で語りかける。
「さな、いい子。こわくない、ね……? ささがいるよ……」
 布人形に向ける声音だけは、不思議と落ち着いていた。
 そこには大人になったときと変わらない名残があった。柔らかな、優しい、砂々本来の気質が透けて見えた。
 その声を聞くと、侍女たちは目頭を押さえて涙ぐんだ。
 砂々が唯一、穏やかに呼吸できる瞬間なのだと誰の目にもわかった。
 だが砂々はあまりに人形を手放さず、人形は見る間に汚れ、糸もほつれるようになってしまった。見かねた侍女たちが洗い、繕い直そうと人形に手を伸ばすと、砂々は別人のように怯えた。
「……ごめんなさい……さなを、おこらないで……」
 侍女がそっと袖に触れただけで身を跳ねさせて、それは人形から手を離させても同じだった。
 医官が脈をとろうとすれば涙をにじませ、時に黒耀の足音だけで布団の中に隠れようとした。
 それでも黒耀は、決して怒らなかった。
 砂々が震えるたび、真綿で包むように腕を差し伸べた。
「怒らないよ、砂々。怖いことは何もしない。私が、砂々の全部を守るよ」
 砂々の肩を抱き、髪を撫で、怯える彼女の側でそっとその身に寄り添った。
「さな……いっしょで、いい?」
「いいよ。砂々の大事な子なのだものね」
 砂々の小さな手がぼろぼろになっていく人形をぎゅっと抱え込んでいても、黒耀はその壊れた心を愛おしんでやまなかった。



 黒耀は砂々の心を解くため、彼女の過去を知る侍女たちを召し集めた。
「砂々の幼い日々のことを話してほしい。覚えている限り、何でもいい」
 侍女たちはひざまずき、次々と口を開いた。
「砂々さまは……生まれつき体が弱く、仕事の分担でいつも叱責を受けていました……」
「親のいない子ゆえ、同じ年頃の娘たちに疎まれて……衣を隠されたり、食を減らされたり……」
「泣く声を聞いたことがありません。叩かれても、じっと耐えて……」
 傷を負った過去を聞けば聞くほど、黒耀の胸が音を立てて軋んだ。
 砂々が怯える理由が、形を持って迫ってくる。
(砂々の中で世界は、まだいじめられていた頃のままなのだ)
 だが、過去を変えてやることはできない。出来る限り、砂々の未来を安らかにしてやりたい。
 その一心で耳を傾けるのをやめなかった黒耀のところに、一つの声が届いた。
「砂々さまは……小さな子どもの世話を焼くのが好きでして」
 一人の壮年の侍女が、ふと思い出したように言った。
「確か六つの頃でしょうか。『大きくなったら、おかあさまになりたい』……と幸せそうに話されたことがございます」
 黒耀の呼吸がぴたりと止まった。
(……母親、か)
 それは砂々にとって、与えられることのなかった温もりそのものだ。
 もう失われたそれを砂々に取り戻してやることはできない。自分が砂々の全部に、砂々の母親にでもなってみせると思っているが、砂々の願いはおそらくそうではない。
(本当に、与えてやれないか?)
 ふと黒耀の中に、少年のように純粋な思いがこみあげる。
 それは倫理を踏みにじることになるかもしれない。一人の人間を、まるで道具のように扱うことになる。
(……だが、砂々のためならば)
 黒耀は顔を上げて、傾き始めた陽の向こうを目を細めてみつめた。



 夕刻、黒耀は砂々の部屋へ向かった。
 砂々は寝台に座り、人形を膝に乗せて、まるで子をあやすように優しく語りかけていた。
「さな……ねむいの? よしよし……」
 黒耀は静かに砂々の隣に座り、そっとその小さな肩に触れた。
 人形を抱いている今ならば、砂々は黒耀を怖がらない。砂々は触れた肩をそのままに、人形に柔らかく言葉をかけ続けた。
 それに力を得て、黒耀はその禁断の問いを投げかけた。
「砂々。……さなとお話しできるようになったら、嬉しいか?」
 砂々の指が止まり、ゆっくりと黒耀を見上げた。
 とろりと空虚な瞳が、ほんのわずかに明るさを宿す。
「……うん。さな、が……うごいて……おしゃべり、してくれたら」
「砂々は大事にできるか?」
「とても……大事……する。だって、おかあさまに、なりたいの……」
 黒耀の胸が熱に焼かれたように疼いた。
 砂々は母の影をおそらく覚えていない。愛されて育ったこともない。
(砂々に母を与えてやれたら……それはどれほど、心を救うだろう)
 その瞬間、黒耀は倫理も理性も、いとも簡単に手放した。
 黒耀は少し目がにじんだ。砂々を腕に引き寄せ、耳元で低くささやく。
「砂々。君はそれがずっと欲しかったのだね」
「うん……」
「なら——あげようね」
 砂々の瞳が、ゆっくりと揺れる。
 黒耀は砂々の細い肩を抱き寄せ、人形を包むその手に自分の手を重ねた。
「砂々と私の……生きた「さな」を」
 今の幼い精神の砂々では、その言葉のすべてを理解できなかったに違いない。
 けれど砂々の瞳から怯えは消えて——ふわりと柔らかく、微笑んだ。
「……ささ……おかあさま……?」
「ああ。君に、なってほしい」
 黒耀の声音は穏やかで、甘く、しかし底の見えない狂気を持っていた。
 砂々は再び人形を抱きしめて、安心したように黒耀に身を寄せた。
 黒耀は砂々の髪に口づけ、抱えきれぬほどの渇望を、胸の奥に深く沈める。
——砂々の心を満たせる唯一の存在になるために。
——砂々の世界を、いずれすべて自分のものにするために。
 けれどそんな暗い誓いが、確かに芽吹いていた。