砂々が毒に倒れてから、二度目の夜明けが近づいていた。
寝所には薄絹越しの灯りが静かに揺れ、衝立の向こうで医官たちと侍女たちが慌ただしく動いていた。
「……これが、解毒のための薬湯にございます」
正妃の侍女たちが震える手で持ち込んだ薬草の包みを、医官が鋭い目で確認する。
黒耀は寝台の傍らで一言も発さず、その様子を見下ろしていた。その沈黙だけで、侍女たちに息をすることさえ許さないほどの力を放っていた。
「正妃様に同じ薬湯をお出しして、夜半過ぎにお目覚めになりました。すぐに……砂々さまにも」
黒耀の得た残酷な先例のおかげで、医官は決断することができた。
解毒の薬湯が砂々の唇に運ばれると、黒耀はその小さな喉が動くのを息を詰めて見守った。
夜が明けるまで、黒耀は眠らずに砂々のそばで過ごした。砂々の絶えそうな呼吸を確かめるように時折頬に触れて、意識の戻るときを乞うように待っていた。
黒耀の祈りが天に届いたのか、朝陽が寝所に差し込む頃、砂々の肩が小さく震えた。
「……ぁ」
砂々の胸が上下し、かすかな息が漏れる。
「砂々!」
黒耀は砂々の手を取り、身を乗り出した。
砂々のまぶたが、ゆっくりと迷うように開かれた。
けれどその瞳に黒耀の姿が映ったとき、砂々は息が詰まるような悲鳴を上げた。
「あ……、あぅ……!」
砂々は怯えた子犬のように目を見開き、黒耀の手を振り払って寝台の端まで後ずさった。
「……ごめ……ごめんなさい……お、おこらないで……っ!」
砂々はぽろぽろと涙を落として、震える声で懇願する。
黒耀は一瞬息を呑み、次いで眉を寄せる。
「砂々……? どういう、ことだ」
黒耀が医官に目を向けると、医官は青ざめた顔で頭を垂れた。
「陛下、毒は致死性ではございませんが……心をひどく弱くいたします。砂々さまは幼い日におそらく……つらいご経験を――」
黒耀はそれを聞いて、苦い声で言葉をこぼした。
「報告を受けたことがある。まだ私と出会う前……身分の低さゆえ、いじめられていたと」
砂々はついに寝台から落ちて、這うように寝所の隅に向かうと、そこでうずくまって両腕で頭を抱えた。
「……たたないで……おねがい、おねがいします……」
黒耀は胸を突かれるような痛みに襲われた。
砂々が幼い日、頬や手足に青あざばかり作っていた姿が蘇る。
どうしたのだと黒耀が問うと、自分で転んだのだと意気消沈したように話した。……自分からは、決して訴えられない子どもだった。
砂々に現れているのは、誰にも言えずに抱え込んでいた幼い日の痛み、そのものだった。
黒耀は怯えさせないように距離を取りながら、そっと砂々に話しかける。
「砂々……私だ。黒耀だよ。怖くない。こちらにおいで……」
黒耀が屈みこんで手を差し伸べると、砂々はさらに身を縮めた。
「いたい……いたい……」
黒耀はその場で膝をつき、深く長く息を吐く。
(……今、砂々はひとりなのだ)
黒耀が身分を明かし、これからは何者からも君を守るよと告げる前に、砂々は戻ってしまっている。
「砂々……そこは寒いだろう」
黒耀は膝で寄って、砂々をそっと抱きしめた。砂々はぶるぶると震えて、決して黒耀を見ようとしなかった。
「ひとりで、つらかったな。これからはずっと、私が一緒だからな……」
黒耀には砂々がたまらなく哀れで、一刻もその虚無の中に置いておきたくなかった。
ただそれでも、その弱ささえ……黒耀にはどうしようもないほど、愛おしく思えた。
一方で、正妃の房室でも薬湯の毒は現れていた。
正妃は侍女たちに取り押さえられながら、顔を真っ赤にして怒る。
「いや! 私は正妃になる娘なのよ! 無礼な!」
かんしゃくを起こし、物を投げ、叫び散らす。
そこでは正妃の幼い日の姿そのままの、残酷で理不尽な幼児還りが起こっていた。
その有様の報告を受けた黒耀は、視線をそらしてつぶやいた。
「砂々の回復に、役立つ情報がないかと思ったが……見当違いだったようだ」
黒耀は侍従を早々に部屋から出すと、まるで砂々以外の世界すべてに興味を失ったように静かに告げる。
「……良い。後宮が壊れても、私は構わない。砂々さえ、心安らかにいられるならば」
そう断じて、足は何度でも繰り返し砂々の元に向かう。
砂々は毒の後遺症で、すぐに熱を出すようになった。
黒耀は政務の合間を縫って翠静宮へ赴き、砂々の体温を確かめ、彼女の汗を拭き、泣きじゃくる砂々を何度も寝台へ抱き戻した。
「こわい……こわいよぅ……」
「いい子だ、いい子だな、砂々。私はここにいる。砂々のともだちだ。砂々を守るために生きているのだよ」
黒耀の声はとろけるほど優しく、砂々の細い肩を自分の胸に抱え込むようにして支えた。
食事もほとんど喉を通らない砂々に、黒耀は匙を手ずから運ぶ。
「ほら。食べないと、また熱を出してしまう」
「……ごめ……なさい……」
「もう一口……そう、いい子だ。砂々はそのままでとてもいい子だ」
まるで壊れ物の人形を扱うように、黒耀は砂々の頬や肩をそっと撫でて、慈しみに満ちた仕草であやした。
侍女たちはその光景を見て、胸を痛めていた。
「お妃さまは……まるで人形になってしまわれた……」
「童女のようになられて……」
しかし黒耀は、侍女たちの悲しみを一切顧みなかった。
ただ砂々だけを見て、砂々の呼吸と言葉に耳を傾けていた。砂々が泣けば抱きしめ、砂々が震えれば布団を掛け、砂々が眠れば隣に横たわり、手をつないだ。
翌日には、黒耀は侍女たちを呼び、砂々の子どもの頃を知る者を探した。
そして一人の壮年の侍女が深く頭を下げて語った。
「砂々さまは、子どもの頃……人形を、とても欲しそうに見ておいででした」
「人形?」
「はい。親のある娘たちだけが持つ、布の優しい顔立ちの人形です。砂々さまはそっと触れようとして、叱られて……」
黒耀の胸にある感情が弾かれて、痛んだ。
(……そんなものが欲しかったのか、砂々は)
何でも与えると何度もささやいたが、砂々が欲しがったものなどなかった。けれど幼い日に憧れたそれならば、もしかしたら……そう思いを馳せた。
その日の夕刻、黒耀はいつものように翠静宮を訪れて言った。
「砂々。見てごらん」
黒耀が寝台に座り、砂々の膝の上にそっと置いたのは――白布で作られた、小さな優しい顔の人形だった。
丸い目も、柔らかな髪も、淡い微笑も、すべて砂々が怖がらぬよう丁寧に縫い上げられていた。
砂々の怯えた瞳が、その人形を見て大きく揺れた。
「あ……」
「君に似合うと思って選んだ。子どもの頃、欲しかったのだろう?」
砂々は両手で恐る恐る人形を受け取り、抱きしめるように胸に押しあてた。
「……あ、ありが……とう」
「砂々?」
「わたしの……たからものにする、ね……」
その声音は、毒に侵されて以来初めての、柔らかな砂々の声だった。
黒耀は胸が熱くなるのを堪えきれず、砂々を人形ごと、腕に抱き寄せた。
「そんなものなら……何十でも、何百でも……毎日だって、君に贈るよ」
黒耀は砂々の髪に唇を落とし、頬へとそっと口づけた。
砂々は怯えながらも黒耀の胸に小さく身を預け、その腕の中で自分の子どものように人形をあやした。
そんな砂々をみつめる黒耀の瞳は、炎のように熱く、溶けない氷のようにも見えた。
「砂々。君は病にあっても、ただ可愛いのだな……」
その夜、人形を抱きしめて眠った砂々の頬に手を触れながら、黒耀は抱えきれない愛おしさを胸に、小さくつぶやいた。
寝所には薄絹越しの灯りが静かに揺れ、衝立の向こうで医官たちと侍女たちが慌ただしく動いていた。
「……これが、解毒のための薬湯にございます」
正妃の侍女たちが震える手で持ち込んだ薬草の包みを、医官が鋭い目で確認する。
黒耀は寝台の傍らで一言も発さず、その様子を見下ろしていた。その沈黙だけで、侍女たちに息をすることさえ許さないほどの力を放っていた。
「正妃様に同じ薬湯をお出しして、夜半過ぎにお目覚めになりました。すぐに……砂々さまにも」
黒耀の得た残酷な先例のおかげで、医官は決断することができた。
解毒の薬湯が砂々の唇に運ばれると、黒耀はその小さな喉が動くのを息を詰めて見守った。
夜が明けるまで、黒耀は眠らずに砂々のそばで過ごした。砂々の絶えそうな呼吸を確かめるように時折頬に触れて、意識の戻るときを乞うように待っていた。
黒耀の祈りが天に届いたのか、朝陽が寝所に差し込む頃、砂々の肩が小さく震えた。
「……ぁ」
砂々の胸が上下し、かすかな息が漏れる。
「砂々!」
黒耀は砂々の手を取り、身を乗り出した。
砂々のまぶたが、ゆっくりと迷うように開かれた。
けれどその瞳に黒耀の姿が映ったとき、砂々は息が詰まるような悲鳴を上げた。
「あ……、あぅ……!」
砂々は怯えた子犬のように目を見開き、黒耀の手を振り払って寝台の端まで後ずさった。
「……ごめ……ごめんなさい……お、おこらないで……っ!」
砂々はぽろぽろと涙を落として、震える声で懇願する。
黒耀は一瞬息を呑み、次いで眉を寄せる。
「砂々……? どういう、ことだ」
黒耀が医官に目を向けると、医官は青ざめた顔で頭を垂れた。
「陛下、毒は致死性ではございませんが……心をひどく弱くいたします。砂々さまは幼い日におそらく……つらいご経験を――」
黒耀はそれを聞いて、苦い声で言葉をこぼした。
「報告を受けたことがある。まだ私と出会う前……身分の低さゆえ、いじめられていたと」
砂々はついに寝台から落ちて、這うように寝所の隅に向かうと、そこでうずくまって両腕で頭を抱えた。
「……たたないで……おねがい、おねがいします……」
黒耀は胸を突かれるような痛みに襲われた。
砂々が幼い日、頬や手足に青あざばかり作っていた姿が蘇る。
どうしたのだと黒耀が問うと、自分で転んだのだと意気消沈したように話した。……自分からは、決して訴えられない子どもだった。
砂々に現れているのは、誰にも言えずに抱え込んでいた幼い日の痛み、そのものだった。
黒耀は怯えさせないように距離を取りながら、そっと砂々に話しかける。
「砂々……私だ。黒耀だよ。怖くない。こちらにおいで……」
黒耀が屈みこんで手を差し伸べると、砂々はさらに身を縮めた。
「いたい……いたい……」
黒耀はその場で膝をつき、深く長く息を吐く。
(……今、砂々はひとりなのだ)
黒耀が身分を明かし、これからは何者からも君を守るよと告げる前に、砂々は戻ってしまっている。
「砂々……そこは寒いだろう」
黒耀は膝で寄って、砂々をそっと抱きしめた。砂々はぶるぶると震えて、決して黒耀を見ようとしなかった。
「ひとりで、つらかったな。これからはずっと、私が一緒だからな……」
黒耀には砂々がたまらなく哀れで、一刻もその虚無の中に置いておきたくなかった。
ただそれでも、その弱ささえ……黒耀にはどうしようもないほど、愛おしく思えた。
一方で、正妃の房室でも薬湯の毒は現れていた。
正妃は侍女たちに取り押さえられながら、顔を真っ赤にして怒る。
「いや! 私は正妃になる娘なのよ! 無礼な!」
かんしゃくを起こし、物を投げ、叫び散らす。
そこでは正妃の幼い日の姿そのままの、残酷で理不尽な幼児還りが起こっていた。
その有様の報告を受けた黒耀は、視線をそらしてつぶやいた。
「砂々の回復に、役立つ情報がないかと思ったが……見当違いだったようだ」
黒耀は侍従を早々に部屋から出すと、まるで砂々以外の世界すべてに興味を失ったように静かに告げる。
「……良い。後宮が壊れても、私は構わない。砂々さえ、心安らかにいられるならば」
そう断じて、足は何度でも繰り返し砂々の元に向かう。
砂々は毒の後遺症で、すぐに熱を出すようになった。
黒耀は政務の合間を縫って翠静宮へ赴き、砂々の体温を確かめ、彼女の汗を拭き、泣きじゃくる砂々を何度も寝台へ抱き戻した。
「こわい……こわいよぅ……」
「いい子だ、いい子だな、砂々。私はここにいる。砂々のともだちだ。砂々を守るために生きているのだよ」
黒耀の声はとろけるほど優しく、砂々の細い肩を自分の胸に抱え込むようにして支えた。
食事もほとんど喉を通らない砂々に、黒耀は匙を手ずから運ぶ。
「ほら。食べないと、また熱を出してしまう」
「……ごめ……なさい……」
「もう一口……そう、いい子だ。砂々はそのままでとてもいい子だ」
まるで壊れ物の人形を扱うように、黒耀は砂々の頬や肩をそっと撫でて、慈しみに満ちた仕草であやした。
侍女たちはその光景を見て、胸を痛めていた。
「お妃さまは……まるで人形になってしまわれた……」
「童女のようになられて……」
しかし黒耀は、侍女たちの悲しみを一切顧みなかった。
ただ砂々だけを見て、砂々の呼吸と言葉に耳を傾けていた。砂々が泣けば抱きしめ、砂々が震えれば布団を掛け、砂々が眠れば隣に横たわり、手をつないだ。
翌日には、黒耀は侍女たちを呼び、砂々の子どもの頃を知る者を探した。
そして一人の壮年の侍女が深く頭を下げて語った。
「砂々さまは、子どもの頃……人形を、とても欲しそうに見ておいででした」
「人形?」
「はい。親のある娘たちだけが持つ、布の優しい顔立ちの人形です。砂々さまはそっと触れようとして、叱られて……」
黒耀の胸にある感情が弾かれて、痛んだ。
(……そんなものが欲しかったのか、砂々は)
何でも与えると何度もささやいたが、砂々が欲しがったものなどなかった。けれど幼い日に憧れたそれならば、もしかしたら……そう思いを馳せた。
その日の夕刻、黒耀はいつものように翠静宮を訪れて言った。
「砂々。見てごらん」
黒耀が寝台に座り、砂々の膝の上にそっと置いたのは――白布で作られた、小さな優しい顔の人形だった。
丸い目も、柔らかな髪も、淡い微笑も、すべて砂々が怖がらぬよう丁寧に縫い上げられていた。
砂々の怯えた瞳が、その人形を見て大きく揺れた。
「あ……」
「君に似合うと思って選んだ。子どもの頃、欲しかったのだろう?」
砂々は両手で恐る恐る人形を受け取り、抱きしめるように胸に押しあてた。
「……あ、ありが……とう」
「砂々?」
「わたしの……たからものにする、ね……」
その声音は、毒に侵されて以来初めての、柔らかな砂々の声だった。
黒耀は胸が熱くなるのを堪えきれず、砂々を人形ごと、腕に抱き寄せた。
「そんなものなら……何十でも、何百でも……毎日だって、君に贈るよ」
黒耀は砂々の髪に唇を落とし、頬へとそっと口づけた。
砂々は怯えながらも黒耀の胸に小さく身を預け、その腕の中で自分の子どものように人形をあやした。
そんな砂々をみつめる黒耀の瞳は、炎のように熱く、溶けない氷のようにも見えた。
「砂々。君は病にあっても、ただ可愛いのだな……」
その夜、人形を抱きしめて眠った砂々の頬に手を触れながら、黒耀は抱えきれない愛おしさを胸に、小さくつぶやいた。



