砂々が薬湯を飲んで崩れ落ちたのは、夕餉の鈴が遠くで鳴った直後だった。
その日の夕餉の膳も、皇帝の命で滋養が多く、喉通りのいいものばかりそろえられていた。南方の希少な果物も用意され、侍女たちは皇帝の寵の深さに微笑み合っていた。
ところが夕餉の膳を運んできた侍女たちは、寝台に倒れ伏してぐったりしている砂々をみつけて蒼白となる。
「さ……砂々さま……!」
侍女たちは慌てて駆け寄ったが、どれだけ呼んでも砂々は目を開けなかった。
唇は血の気を失い、呼吸はかすかで、頬は白さを通り越して青い。
侍女たちは慌てて医官を呼び、同時に皇帝の元に使いを送った。
翠静宮に仕えている宦官医官は急ぎ馳せ参じて、砂々の脈や唇に残った薬湯を調べ始めた。
まもなく翠静宮の回廊から、宦官のものとは違う毅然とした足音が近づいてきた。
「砂々……!」
黒耀の息は荒く、回廊を駆けてきたと知れるほど裾が乱れていた。いつも政務でも後宮でも黒耀帝は悠としていて、誰にもそんな姿を見せたことはなかった。
黒耀は迷わず砂々の寝台のそばにひざまずくと、その頬に手を当てて顔を覗き込む。
「何があった……! 私が少し目を離したばかりに。こんなことなら、誰も知らぬところに君を隠すべきだった。砂々、砂々。目を開けよ……!」
忙しなく砂々に触れながら、黒耀は医官に詰め寄る。
「病か? ……それとも」
医官は鋭い問いかけにごくりと息を呑み、一瞬ためらったように見えた。
医官はその答えがどんな結果をもたらすか想像できないまま、震える声で黒耀に告げる。
「陛下……これは……毒が盛られております」
室内の空気が一瞬で凍りついた。
黒耀の手は砂々の手を取ったところで、ぴたりと止まる。
「何の毒だ」
「詳しい種類は……まだ。調合が巧妙で、判別に時間を要します」
「このように……苦しんでいるのにか?」
黒耀の声は、静かすぎて周囲の者たちを逆に怯えさせた。
医官は顔を伏せて、言葉を選びながら告げる。
「解毒するには、毒を盛った者から直接、成分を聞き出すのが最速にございます」
黒耀は長いまつ毛を伏せ、砂々の頬に触れる。ひんやりと冷たく、呼吸は糸のように細い。
ほんの数日前には自分の腕の中で頬を赤らめ、甘い声をこぼしていたのに、今はこんなにも遠い。
「何も心配いらないよ、砂々」
黒耀の言葉は、砂々が起きているときと何も変わらず優しくささやかれた。
「君を……」
黒耀はゆっくりと目を閉じ、砂々の手を口元に寄せた。
「――どんな手を使っても助ける」
けれどそうして開いた瞳は、深くて暗い、底の見えない色だった。
黒耀はここへ来たときの動揺を押し殺して、すぐさま侍従を呼びつけた。
「後宮に放ってある者たちを全員、翠静宮へ」
黒耀は砂々を迎え入れたその日から、後宮の各妃のもとに数名ずつ、自らの密偵となる侍女たちを潜ませていた。何者かが砂々に嫉妬して、何らかの動きを見せることを想定していた。
「……ここまで愚かな行動に出る者がいるとは、思っていなかったが」
一言だけこぼした言葉は、しんとした夜気に溶けていく。
まもなく密偵の侍女たちは月光の下でひざまずき、黒耀に報告した。
「薬湯を運んだのは……正妃さま付きの侍女でございます」
「正妃の」
「はい。翠静宮の侍女の衣を着て……紛れ込んでおりました」
黒耀のまぶたがゆっくりと閉じられた。
その動作がかえって恐ろしく、侍女たちは皆、ひざまずいて震えた。
黒耀はまるで決まったことを告げるように、波のない口調で言った。
「命じる。……冷宮に、正妃を連れてこい」
後宮には、冷宮という異称を持つ一角がある。
常に鎧戸が閉じられ、庭に出る扉は鍵がかかっている。中は光が差し込まず、雨漏りとかびだらけの房室で、後宮とは名ばかりの牢獄だった。
そこに左右を抱えられるようにして連れてこられた正妃は、先刻から椅子に座らされたまま震えていた。
一つだけの灯りを持って黒耀の姿が現れた瞬間、彼女は膝をつき、床に額を付けた。
「へ、陛下……! いかなるお話がおありですか。正妃の私を、冷宮などに連れてこさせるなど……!」
黒耀は返事をせず、侍従に顎で合図した。
正妃の目の前に、椀に入った薬湯が置かれる。
「これは砂々が飲んだものと同じ薬湯だ。そなたの侍女に命じ、作らせた」
侍女の名が出た途端、正妃は一瞬だけ目を尖らせた。裏切ったのかと言わんばかりに歯噛みして、黒耀はその表情の変化までつぶさに見ていた。
黒耀はひとかけらの慈悲もなく、その命令を告げる。
「――命じる。正妃、これを飲め」
正妃は息を呑んで、ひざまずいたまま後ずさった。
「な、なぜ……わたくしが……! これは、その……!」
「自分で飲まないのなら、兵士に拘束されて飲ませる」
「馬鹿な、私は正妃ですよ……っ!」
「もう決まったことなのだ」
黒耀の声音は低く静かだったが、衝立の向こうの夜よりも冷たかった。
「侍女たちにそなたの解毒をさせる。その解毒剤を砂々に飲ませる。……もしそなたより先に砂々が命を落としたら、そのときは――侍女たちすべてを処刑せよと、命じてある」
黒耀の瞳は狂気を孕んだ光を宿していた。
正妃は膝から崩れ、嗚咽を漏らす。
「皇后として務め……御子まで産んだわたくしに、何という仕打ち……!」
「その栄光のままに務めていればよかったものを」
黒耀はなじるでもなく、事実を述べるように告げる。
「皇家のための子どもは、不公平にならぬよう広くもうけてきた。そなたの子以外にも、他に子はたくさんいる」
冷酷に過ぎるほど皇帝の顔で言葉を告げた後、黒耀はふいに甘い父親のような微笑を浮かべる。
「……これからは、毎年のように砂々に産ませる。どの子も砂糖がけのように愛おしもう。大切な大切な、我が妻との子であるから」
ひとときの陶酔から戻って来ると、黒耀はひたと正妃を見据えて告げる。
「さあ、薬湯を飲むがいい」
正妃は震えて首を横に振る。椀になかなか手を伸ばさない正妃に黒耀は冷えた目を向けると、兵士に向かってうなずいた。
控えていた兵士は二人がかりで正妃を拘束すると、一人が椀を正妃の口に近づける。
「お、お願い申し上げます……! これだけは……!」
黒耀は眉ひとつ動かさず、ただ低い声で尋ねた。
「砂々は……助からないのか?」
正妃は息を飲み、唇を噛んだままやっと情報を口にする。
「い……いえ……致死性の毒では……ただ」
言葉は衝立の向こうで途切れた。
「……心を狂わす、毒が」
黒耀と正妃――裁定者と罪人の影が、揺れる灯りに長く長く伸びる。
正妃の口に薬湯が流し込まれた途端、風もないのに灯りがふっと消えた。
その日の夕餉の膳も、皇帝の命で滋養が多く、喉通りのいいものばかりそろえられていた。南方の希少な果物も用意され、侍女たちは皇帝の寵の深さに微笑み合っていた。
ところが夕餉の膳を運んできた侍女たちは、寝台に倒れ伏してぐったりしている砂々をみつけて蒼白となる。
「さ……砂々さま……!」
侍女たちは慌てて駆け寄ったが、どれだけ呼んでも砂々は目を開けなかった。
唇は血の気を失い、呼吸はかすかで、頬は白さを通り越して青い。
侍女たちは慌てて医官を呼び、同時に皇帝の元に使いを送った。
翠静宮に仕えている宦官医官は急ぎ馳せ参じて、砂々の脈や唇に残った薬湯を調べ始めた。
まもなく翠静宮の回廊から、宦官のものとは違う毅然とした足音が近づいてきた。
「砂々……!」
黒耀の息は荒く、回廊を駆けてきたと知れるほど裾が乱れていた。いつも政務でも後宮でも黒耀帝は悠としていて、誰にもそんな姿を見せたことはなかった。
黒耀は迷わず砂々の寝台のそばにひざまずくと、その頬に手を当てて顔を覗き込む。
「何があった……! 私が少し目を離したばかりに。こんなことなら、誰も知らぬところに君を隠すべきだった。砂々、砂々。目を開けよ……!」
忙しなく砂々に触れながら、黒耀は医官に詰め寄る。
「病か? ……それとも」
医官は鋭い問いかけにごくりと息を呑み、一瞬ためらったように見えた。
医官はその答えがどんな結果をもたらすか想像できないまま、震える声で黒耀に告げる。
「陛下……これは……毒が盛られております」
室内の空気が一瞬で凍りついた。
黒耀の手は砂々の手を取ったところで、ぴたりと止まる。
「何の毒だ」
「詳しい種類は……まだ。調合が巧妙で、判別に時間を要します」
「このように……苦しんでいるのにか?」
黒耀の声は、静かすぎて周囲の者たちを逆に怯えさせた。
医官は顔を伏せて、言葉を選びながら告げる。
「解毒するには、毒を盛った者から直接、成分を聞き出すのが最速にございます」
黒耀は長いまつ毛を伏せ、砂々の頬に触れる。ひんやりと冷たく、呼吸は糸のように細い。
ほんの数日前には自分の腕の中で頬を赤らめ、甘い声をこぼしていたのに、今はこんなにも遠い。
「何も心配いらないよ、砂々」
黒耀の言葉は、砂々が起きているときと何も変わらず優しくささやかれた。
「君を……」
黒耀はゆっくりと目を閉じ、砂々の手を口元に寄せた。
「――どんな手を使っても助ける」
けれどそうして開いた瞳は、深くて暗い、底の見えない色だった。
黒耀はここへ来たときの動揺を押し殺して、すぐさま侍従を呼びつけた。
「後宮に放ってある者たちを全員、翠静宮へ」
黒耀は砂々を迎え入れたその日から、後宮の各妃のもとに数名ずつ、自らの密偵となる侍女たちを潜ませていた。何者かが砂々に嫉妬して、何らかの動きを見せることを想定していた。
「……ここまで愚かな行動に出る者がいるとは、思っていなかったが」
一言だけこぼした言葉は、しんとした夜気に溶けていく。
まもなく密偵の侍女たちは月光の下でひざまずき、黒耀に報告した。
「薬湯を運んだのは……正妃さま付きの侍女でございます」
「正妃の」
「はい。翠静宮の侍女の衣を着て……紛れ込んでおりました」
黒耀のまぶたがゆっくりと閉じられた。
その動作がかえって恐ろしく、侍女たちは皆、ひざまずいて震えた。
黒耀はまるで決まったことを告げるように、波のない口調で言った。
「命じる。……冷宮に、正妃を連れてこい」
後宮には、冷宮という異称を持つ一角がある。
常に鎧戸が閉じられ、庭に出る扉は鍵がかかっている。中は光が差し込まず、雨漏りとかびだらけの房室で、後宮とは名ばかりの牢獄だった。
そこに左右を抱えられるようにして連れてこられた正妃は、先刻から椅子に座らされたまま震えていた。
一つだけの灯りを持って黒耀の姿が現れた瞬間、彼女は膝をつき、床に額を付けた。
「へ、陛下……! いかなるお話がおありですか。正妃の私を、冷宮などに連れてこさせるなど……!」
黒耀は返事をせず、侍従に顎で合図した。
正妃の目の前に、椀に入った薬湯が置かれる。
「これは砂々が飲んだものと同じ薬湯だ。そなたの侍女に命じ、作らせた」
侍女の名が出た途端、正妃は一瞬だけ目を尖らせた。裏切ったのかと言わんばかりに歯噛みして、黒耀はその表情の変化までつぶさに見ていた。
黒耀はひとかけらの慈悲もなく、その命令を告げる。
「――命じる。正妃、これを飲め」
正妃は息を呑んで、ひざまずいたまま後ずさった。
「な、なぜ……わたくしが……! これは、その……!」
「自分で飲まないのなら、兵士に拘束されて飲ませる」
「馬鹿な、私は正妃ですよ……っ!」
「もう決まったことなのだ」
黒耀の声音は低く静かだったが、衝立の向こうの夜よりも冷たかった。
「侍女たちにそなたの解毒をさせる。その解毒剤を砂々に飲ませる。……もしそなたより先に砂々が命を落としたら、そのときは――侍女たちすべてを処刑せよと、命じてある」
黒耀の瞳は狂気を孕んだ光を宿していた。
正妃は膝から崩れ、嗚咽を漏らす。
「皇后として務め……御子まで産んだわたくしに、何という仕打ち……!」
「その栄光のままに務めていればよかったものを」
黒耀はなじるでもなく、事実を述べるように告げる。
「皇家のための子どもは、不公平にならぬよう広くもうけてきた。そなたの子以外にも、他に子はたくさんいる」
冷酷に過ぎるほど皇帝の顔で言葉を告げた後、黒耀はふいに甘い父親のような微笑を浮かべる。
「……これからは、毎年のように砂々に産ませる。どの子も砂糖がけのように愛おしもう。大切な大切な、我が妻との子であるから」
ひとときの陶酔から戻って来ると、黒耀はひたと正妃を見据えて告げる。
「さあ、薬湯を飲むがいい」
正妃は震えて首を横に振る。椀になかなか手を伸ばさない正妃に黒耀は冷えた目を向けると、兵士に向かってうなずいた。
控えていた兵士は二人がかりで正妃を拘束すると、一人が椀を正妃の口に近づける。
「お、お願い申し上げます……! これだけは……!」
黒耀は眉ひとつ動かさず、ただ低い声で尋ねた。
「砂々は……助からないのか?」
正妃は息を飲み、唇を噛んだままやっと情報を口にする。
「い……いえ……致死性の毒では……ただ」
言葉は衝立の向こうで途切れた。
「……心を狂わす、毒が」
黒耀と正妃――裁定者と罪人の影が、揺れる灯りに長く長く伸びる。
正妃の口に薬湯が流し込まれた途端、風もないのに灯りがふっと消えた。



