初夜から三日三晩、黒耀帝が翠静宮から離れないという事実は、後宮全体を駆け巡った。
けれど実際の三日間は、世の人々が想像する艶めいたものではなかった。二日目の夜、砂々は熱を出して寝台に伏していたからだった。
火照った額、荒い呼吸、乱れる薄絹……その全てを、黒耀は片時も離れず側で見守っていた。
「……陛下……政務が、滞ってしまいます。王宮へ、戻られませ……」
砂々が弱々しい声で言うと、黒耀は薬湯の椀をそっと傾けて砂々の唇に当てる。
「これを飲んでよくお休み、砂々。余計なことなど、考えなくてよいから」
「で、でも……」
黒耀は微笑み、砂々の汗に濡れた前髪を払ってやる。
「君が良くならないと、私は暴君になってしまうよ?」
砂々は恐縮し、震える手で布団を握りしめる。
「……申し訳……ございません。このように、手を煩わせて……」
「いいや。君がずっと私の手が必要で、私を頼ってくれるのなら……この時が続いてほしいとさえ思ってしまう」
黒耀の声はどこまでも甘いのに、押し殺した危うい色もある。
「……君はもう私の腕の中なのにね。君がどこかへ行き失せると、まだ恐れている」
黒耀は布で砂々の汗を拭いながら、ふっと息を落として砂々をみつめた。
「砂々。婚姻の証に特別なものを贈りたい。何でもねだってごらん。君が望むものなら、どんなものでも手に入れる」
砂々は砂糖を煮詰めたような寵愛の形に息を呑んで、震えながら目を伏せた。
そのようなことを言わせてしまった恐れに身が竦んで、懇願するように言う。
「……私は……後宮の侍女部屋に戻れるなら……他に望みは、ございません……」
その言葉を聞いた瞬間、黒耀の指が砂々の頬で止まる。
黒耀は静かに、慈悲深く笑った。
けれどその笑みは、同時に底知れぬ残酷さを帯びていた。
「だめだよ。君が元の暮らしを思い出さないくらいに幸せで包みたい。……まるで生まれつきの公女だったように」
砂々が弱弱しく首を横に振ると、黒耀は優しく付け加えた。
「君は私の妻だということだけ、忘れないでほしいが」
黒耀は砂々の手を取り、その指先に唇を触れさせた。
「そうだな。では婚姻の証に……皇家の守護鳥、吉祥鳥をあしらった指輪を作ろう」
「吉祥鳥……の、指輪……?」
「真っ白の羽を持った、華奢で心優しい鳥だよ。君のようだね」
砂々はそれを聞いて声を失う。
「……な、なりません。それは、その指輪は……正妃様に贈られるもの……!」
すぐに受け取れないと訴えたが、皇帝は柔く首を横に振る。
「私の本質は暗君なのだろうね。……私から愛を受けていると、ただ君に信じてほしいだけなんだ」
それで砂々の見ている前で侍従を呼んで、手配を命じてしまった。
吉祥鳥の指輪……その手配は後宮に、淀んだ波紋をもたらした。
砂々は三日目の夜に熱が下がり、黒耀は王宮に戻っていった。
砂々はようやく一人になり、まだ力の入らない体を寝台に横たえていた。
……陛下は本当に、吉祥鳥の指輪を作ってしまわれるのだろうか?
だめ、私のような侍女が受け取ってはいけない……。そう心で繰り返す。
本来その指輪は吉祥の証だが、時に後宮に暗気をもたらす。
もし次に目が覚めたとき、後宮のあの侍女部屋に戻っていられたなら……と、まだ淡い願いを持ち続けている。
浮かんでは沈む意識の中、しばらく静かに寝台に身を預けていると、柔らかい足音が近づいてきた。
「砂々さま。薬湯をお持ちいたしました」
この三日間側に控えていた侍女たちとは違ったが、翠静宮の侍女の衣を着ていた。
(……どこかで、見たような)
砂々はまだ熱の余韻で思考が鈍く、微かな疑いさえ霧散してしまう。
侍女は恭しく薬湯を差し出した。
「陛下がお戻りの前に、お体を整えておかれますように」
「……はい」
砂々は椀を受け取って、口元に運ぶ。
侍女が一人、病に倒れようと後宮は変わらない。
それでも……優しく看病してくれた陛下のために、元気になりたい。そう思って、苦い薬湯も我慢して飲んできた。
薬湯が舌に触れた瞬間――違和感が走った。
(……ざらつく甘さ……? いつもの薬湯と違う……)
砂々が顔を上げようとした瞬間、胸の奥を鋭い痛みが貫いた。
「……っ、けほっ……ごほっ……!」
激しい咳が込み上げて、砂々は椀を取り落とした。
「あ……ぅ……」
息ができず、世界は揺れて見えた。
侍女の顔がぼやけ、視界が黒く染まっていく。
(あ……この、侍女……)
最後に見えたのは、侍女の冷たい影だった。
(……正妃様の)
砂々はそのまま寝台に倒れ込んで、辺りは静寂に包まれた。
けれど実際の三日間は、世の人々が想像する艶めいたものではなかった。二日目の夜、砂々は熱を出して寝台に伏していたからだった。
火照った額、荒い呼吸、乱れる薄絹……その全てを、黒耀は片時も離れず側で見守っていた。
「……陛下……政務が、滞ってしまいます。王宮へ、戻られませ……」
砂々が弱々しい声で言うと、黒耀は薬湯の椀をそっと傾けて砂々の唇に当てる。
「これを飲んでよくお休み、砂々。余計なことなど、考えなくてよいから」
「で、でも……」
黒耀は微笑み、砂々の汗に濡れた前髪を払ってやる。
「君が良くならないと、私は暴君になってしまうよ?」
砂々は恐縮し、震える手で布団を握りしめる。
「……申し訳……ございません。このように、手を煩わせて……」
「いいや。君がずっと私の手が必要で、私を頼ってくれるのなら……この時が続いてほしいとさえ思ってしまう」
黒耀の声はどこまでも甘いのに、押し殺した危うい色もある。
「……君はもう私の腕の中なのにね。君がどこかへ行き失せると、まだ恐れている」
黒耀は布で砂々の汗を拭いながら、ふっと息を落として砂々をみつめた。
「砂々。婚姻の証に特別なものを贈りたい。何でもねだってごらん。君が望むものなら、どんなものでも手に入れる」
砂々は砂糖を煮詰めたような寵愛の形に息を呑んで、震えながら目を伏せた。
そのようなことを言わせてしまった恐れに身が竦んで、懇願するように言う。
「……私は……後宮の侍女部屋に戻れるなら……他に望みは、ございません……」
その言葉を聞いた瞬間、黒耀の指が砂々の頬で止まる。
黒耀は静かに、慈悲深く笑った。
けれどその笑みは、同時に底知れぬ残酷さを帯びていた。
「だめだよ。君が元の暮らしを思い出さないくらいに幸せで包みたい。……まるで生まれつきの公女だったように」
砂々が弱弱しく首を横に振ると、黒耀は優しく付け加えた。
「君は私の妻だということだけ、忘れないでほしいが」
黒耀は砂々の手を取り、その指先に唇を触れさせた。
「そうだな。では婚姻の証に……皇家の守護鳥、吉祥鳥をあしらった指輪を作ろう」
「吉祥鳥……の、指輪……?」
「真っ白の羽を持った、華奢で心優しい鳥だよ。君のようだね」
砂々はそれを聞いて声を失う。
「……な、なりません。それは、その指輪は……正妃様に贈られるもの……!」
すぐに受け取れないと訴えたが、皇帝は柔く首を横に振る。
「私の本質は暗君なのだろうね。……私から愛を受けていると、ただ君に信じてほしいだけなんだ」
それで砂々の見ている前で侍従を呼んで、手配を命じてしまった。
吉祥鳥の指輪……その手配は後宮に、淀んだ波紋をもたらした。
砂々は三日目の夜に熱が下がり、黒耀は王宮に戻っていった。
砂々はようやく一人になり、まだ力の入らない体を寝台に横たえていた。
……陛下は本当に、吉祥鳥の指輪を作ってしまわれるのだろうか?
だめ、私のような侍女が受け取ってはいけない……。そう心で繰り返す。
本来その指輪は吉祥の証だが、時に後宮に暗気をもたらす。
もし次に目が覚めたとき、後宮のあの侍女部屋に戻っていられたなら……と、まだ淡い願いを持ち続けている。
浮かんでは沈む意識の中、しばらく静かに寝台に身を預けていると、柔らかい足音が近づいてきた。
「砂々さま。薬湯をお持ちいたしました」
この三日間側に控えていた侍女たちとは違ったが、翠静宮の侍女の衣を着ていた。
(……どこかで、見たような)
砂々はまだ熱の余韻で思考が鈍く、微かな疑いさえ霧散してしまう。
侍女は恭しく薬湯を差し出した。
「陛下がお戻りの前に、お体を整えておかれますように」
「……はい」
砂々は椀を受け取って、口元に運ぶ。
侍女が一人、病に倒れようと後宮は変わらない。
それでも……優しく看病してくれた陛下のために、元気になりたい。そう思って、苦い薬湯も我慢して飲んできた。
薬湯が舌に触れた瞬間――違和感が走った。
(……ざらつく甘さ……? いつもの薬湯と違う……)
砂々が顔を上げようとした瞬間、胸の奥を鋭い痛みが貫いた。
「……っ、けほっ……ごほっ……!」
激しい咳が込み上げて、砂々は椀を取り落とした。
「あ……ぅ……」
息ができず、世界は揺れて見えた。
侍女の顔がぼやけ、視界が黒く染まっていく。
(あ……この、侍女……)
最後に見えたのは、侍女の冷たい影だった。
(……正妃様の)
砂々はそのまま寝台に倒れ込んで、辺りは静寂に包まれた。



