短い午睡の後、砂々が目を覚ますと、寝所の帳越しに陽光が淡く射していた。
 まだ昼下がりの静かな気配が残る中、砂々の手は黒耀帝に包まれていた。砂々の目が覚めたのに気づいたのか、黒耀はふと微笑む。
「少し出仕する。すぐ戻るよ」
「……あ、お支度を……」
 侍女の職務として皇帝の身支度を整えようとした砂々は、とっさにそう言葉を口にする。
 黒耀はそんな砂々の使命感を優しく封じるように、そっと彼女に唇に指を触れる。
「世話されることに慣れてほしい。君は私の愛し妃なのだから」
 柔らかな声でそう告げると、黒耀は静かに寝台を下りた。
 せめてお見送りをと、砂々は黒耀が王宮へ向かう背中を、回廊から見えなくなるまでみつめていた。
 けれど遠くで閉ざされた門の音を聞いて、小さく震える。妃になったというよりは、幽閉されたような心地だった。
(……私はもう外の世界に、戻れないの……?)
 砂々は回廊の陰で、鉄柵の向こうに落ちていく陽を見ていた。



 夕刻になると、翠静宮の侍女が食事を運んできた。
 白磁の膳に、自分の目の前に並んでいるのが信じられないような豪勢な料理が並んでいる。
 黄金のスープに、蒸した鶏の上に散らされた香草、甘く煮込まれた果実、滋養のある薬膳粥と、貴人の取るような食事が用意されていた。
「病を召された後ですので、お体に優しいものをそろえました」
 それでも砂々の体調を慮って控えめにしたのを聞いて、砂々は身がすくむような思いがした。
 侍女たちは食事を取り分けて砂々に差し出すために、壁際に立って待っている。この宮だけで腕をふるう料理長も、呼べばすぐに参じると聞いていた。
 砂々は膳を前に、申し訳ない思いでうつむいた。
「……ごめんなさい。私には、もったいなくて……みなさんで、召し上がってください」
「お体のために少しでも召し上がられませ。陛下が、ご心配なさいますから」
 そう言われても、喉が通らなかった。
 身の程を知らないような豪勢な食事を前にすると知らない世界に来てしまったようで、砂々は混乱と不安に押しつぶされそうだった。
 結局、水と粥に少しだけ口をつけただけで、砂々は深く頭を下げた。
「申し訳ありません……。食欲が戻りましたら……きっと……」
 侍女たちはいいえ、お気に病みませぬようと微笑んで膳を下げていった。
 後宮にいたときは、妃たちの食事の後にもいくつもの仕事があった。砂々はそのどれかの仕事をこなそうと立ち上がったが、そんな砂々の意図を察して侍女が制止する。
「どうなさいましたか?」
「わ、私……仕事を、しないと。片付けを……」
 侍女たちはゆるりと首を横に振って、左右から砂々に近づく。
「お妃様にはもっと大きなお仕事がございます。……さ、私どもにお手をお貸しくださいませ」
 逆らえないほど優しいいくつもの手に抱えられるようにして、砂々は宮殿の奥へと連れて行かれた。


 妃たちの湯殿というものを、砂々は見たこともなかった。
 砂々のような侍女たちは普段、水で絞った布で体を拭いて過ごしていて、共用浴場を使うことすら珍しい。また妃の体に直接触れる侍女は身分も高く、名誉な役目であったから、妃たちの湯殿に足を踏み入れたことがなくて当然だった。
 その砂々が生まれて初めて踏み込んだ湯殿は、温かな蒸気と花の香りで満ちていた。
 けれど緊張を解き、くつろぐためのその場所で砂々は立ちすくんだ。そこに入った途端、砂々は侍女たちに服を解かれて、生まれたままの姿にされてしまったからだった。
「じ、自分で……できます……から」
「お妃様のお支度は、私どもの仕事の華でございますから」
 砂々は抵抗したけれど、侍女たちはあくまで優しく丁寧に、砂々の身体を隅々まで洗い清めていく。
 首筋に甘い香油を塗られたとき、砂々は思わずこくんと息を呑んでいた。
 白梅と蜜を合わせたような香りに、そっと問いかける。
「これは……?」
「砂々さまにもっとも似合う香りでございます」
 まるで自分が違う生き物に変わっていくような錯覚があって、胸が苦しくなる。
 湯から上がった砂々が身にまとわされたのは、白い薄絹の寝間着だった。
 肌が透け、触れられればすぐに熱を伝えてしまうような布に、これから控えていることを想像して、赤くなるより青ざめる。
 誰かに助けを求めようにも、ここは砂々をそのときに導くための侍女しかいない。
「……ほら、どなたよりも美しい。私たちのお妃様は」
 侍女たちは陶酔するようにつぶやくと、砂々の腕を優しくからめとって、宮の奥へと誘った。


 夜の寝所は、昼の陽光の中で午睡をしたときとは違う場所に見えた。
 足元だけの淡い灯りが照らす中、薄絹が部屋をいくつにも分け、迷宮に立ち入るように思えた。
 その奥の椅子で、黒耀が静かに待っていた。
 薄絹姿の砂々を見ると、黒耀は喉の奥で息を呑んだが、すぐに苦笑めいた笑みに変わった。
「……砂々。そんなに震えて」
 近づいてきた黒耀に、砂々は泣く直前のような小声で返す。
「お、恐れ多い、のです……。私は、こんなところにいるべき娘では……」
「君のそういうところが、たまらなく愛おしいんだよ」
 黒耀は砂々の背に腕を回して、懐に抱きしめた。
 まるで大切なものを壊れぬように、ただしどこにも逃さないようにその腕で覆う。
「怯えないで……怖くないよ」
 低い声が耳元で囁くのが、砂々にじんとした熱を伝えた。
 その声は砂々の中まで届いて、身体の震えを少しだけ鎮めてくれる。
 黒耀の手が砂々の肩紐に触れ、そっと布を解いた。
 すべり落ちた薄絹から現れた肩に、黒耀は愛おしむように口づけた。
「かわいいかわいい、ひな鳥だった子。……今日からは、私の妻だ」
 砂々は寝台に運ばれて行って、天井から下りる薄絹の向こうに消える。
 その夜、二人は肌の温もりを分け合いながら、互いに寄り添い、静かに眠りについた。
 翠静宮の侍女たちはその気配を、祝福と小さな不安を抱えて見守っていた。