三日間の療養は貴人を看護するように徹底して丁重で、砂々を困惑させた。
侍女たちは一時も離れず、砂々に甲斐甲斐しく薬湯を差し出し、温かい布で身体を拭いてくれた。
自分は彼女らと同じ侍女で、そのように接する必要はないと砂々が言っても、「今はもう陛下のご恵愛を受けられたお妃におなりです」と微笑まれた。
一方で、妃などふさわしくない、辞退はできないでしょうかと砂々が訴えても、「陛下は砂々さまを大切に思っておいでです」とだけ言って受け入れなかった。
砂々は不安に震えながらも、彼女たちの手厚さに逆らえず、時を過ごすしかなかった。
そして四日目の昼下がり――まだ体にだるさの残る砂々は、侍女たちに脇を固められるようにして馬車に揺られ、翠静宮と呼ばれる場所へ向かった。
後宮のさらに奥に、四方を鉄柵に覆われた、どこか牢じみた宮があるとは聞いていた。
そこは厨房も衣装倉も侍女も、後宮とは別に用意されている。何代も主のいないときもあれば、後宮の住民たちにはその主さえ知らせず寵姫を住まわせることもある、極秘の空間だった。
古い時代、皇帝のあまりの寵に耐えられず、心を狂わせた寵姫を閉じ込めておくために作られたと言われている。
だからなのか、そこは後宮からは馬車を走らせなければ行けないが、皇帝の私室がある奥殿から回廊でつながっているという、特異な場所にあった。
その謎めいた翠静宮の門をくぐった瞬間、砂々は戦慄が走る思いがした。
噂に聞いていた牢じみた暗さはどこにもなかった。白亜の壁に、ハスの咲き乱れる泉が広がっていて……天人の住む極楽のような安息が漂っていた。
「ここからはお一人で行かれませ。……先刻から、お待ちでございます」
侍女たちに言われて、砂々は一人で扉をくぐる。
背後の扉が閉じられたとき、砂々の肩はわずかに跳ねた。
「砂々」
呼ばれただけで胸が高鳴るのは、幼い日の淡い恋心を忘れていないから。
砂々の正面に、陽光を背に受けた黒耀帝が立っていた。
首の後ろで結った黒髪は風に揺れ、理知の光を帯びた瞳は優しく、柔和な微笑みがまぶしい。
けれどその瞳には切なる熱もあって、砂々を緊張させた。
「待っていたよ。身体の調子はどうだい?」
「……は、はい。ご配慮いただいたおかげで、このとおり……。陛下はなぜ、ここに……?」
黒耀は歩み寄り、ためらいなく砂々の手を取った。
その温もりに砂々の体がこわばったのを、黒耀は微笑みでなだめた。
「もちろん、これから砂々が住む家を案内するためだよ」
黒耀は砂々の手をゆっくりと引き寄せ、宮の内部へ誘った。
宮の中は、四方を鉄柵で覆われていることを少しも感じさせない、光と温かさで満ちた空間だった。
窓は広く、天井は高く、ここに住まう者が心安くいられるように、調度の一つ一つに趣向が凝らされている。
足を踏み入れて砂々がすぐ気づいたのは、後宮では至るところで炊かれている香炉がひとつもないことだった。
「砂々は煙に弱いだろう? ここでは香を焚かないと厳命している」
代わりに置かれていたのは、ロウバイの花弁を乾かして香りを移した衝立や帳だった。
淡くて、甘くて、砂々でも咳き込まない優しい香りがどこにも満ちている。
「……陛下、覚えていてくださったのですか」
「砂々のことだもの。昔から苦手だったからね」
黒耀の声は柔らかく、砂々は胸の奥がじんと熱くなった。
続いて案内されたのは、宮の東に面した大きな窓の前だった。
「疲れたときは、ここから庭を眺めるといい。病に伏せることが多かった君が、長椅子に横たわってでも外を見られるように整えた」
そこには、まるで絵画のように仕立てられた庭が広がっていた。薄い水面の池に陽がきらめき、白梅、黄梅、椿が色とりどりに配置され、砂々の目に優しく映る。
「侍女の私が……住まうべきところでは……」
砂々が喉を詰まらせると、黒耀は優しく命じるように言う。
「ここはどこも砂々のものだ。必要なものは地上の端からでも取り寄せる。何でも言ってごらん? ……私は君に、心安く暮らしてほしい」
黒耀帝の言葉はどこまでも甘く、寵愛を受けているような錯覚を抱いてしまう。
けれど同時に、この美しい庭に入る前に見た黒い鉄柵が、ここを外界とは完全に隔てているのを思い出した。
「砂々……砂々? どうした、具合が悪い?」
砂々はそれを思うと胸が痛んで、それは無視できない苦しさを帯びてくる。
黒耀帝は足を止めて、砂々の顔をのぞきこんだ。
砂々は案内の途中から、じわじわと息が上がってきたのを感じていた。
病の名残と、皇帝と二人きりでいる緊張は隠しようがなく、砂々は目を逸らしてうつむく。
「元の……後宮に」
砂々が言いかけたとき、黒耀は砂々の肩を支えて言った。
「まだ本調子でないのに、無理をさせたね。おいで、休もう」
黒耀に導かれ、砂々は宮の奥に広がる寝所へと導かれた。
寝所は、宮の中でもまた一層天上に近いような場所だった。
寝台は白と金で整えられ、触れるだけで沈み込みそうなほど柔らかい。
黒耀は砂々を横たえ、手ずから布団をかけてくれる。
その仕草が優しいほど、砂々は逃げ道が消えていく心地がした。
そして黒耀が寝台の縁に腰を下ろした瞬間、砂々の背がぴんと張った。
(触れられる……? まさか今日、このまま……)
呼吸が浅くなった砂々を見て、黒耀はふっと微笑んだ。
「そんな顔をしないで。君は病み上がりだし、まだ昼だ。無体なことはしないよ」
その労わりに満ちた言葉が、砂々の緊張をすこし溶かす。
黒耀は砂々の髪をそっと撫で、寝台の横に身を寄せた。
「砂々。何もしないから……今は安心して眠りなさい」
砂々の額に、幼いころと同じように手を当てる。
「ただ……私が我慢できなくなる前に、心を解いてほしいな」
柔らかい声で告げられて、砂々は息を呑んだ。
逃げたいのか……幼い日の淡い恋心を叶えてもらいたいのか、自分でももうわからなかった。
黒耀は砂々の手を包み込み、そのまま静かに目を閉じた。
砂々の胸の鼓動が、黒耀の呼吸に重なっていく。
翠静宮の静かな昼、二人は短い眠りを共有した。
それは、砂々が鳥籠の中心へと引き寄せられた一歩となった。
侍女たちは一時も離れず、砂々に甲斐甲斐しく薬湯を差し出し、温かい布で身体を拭いてくれた。
自分は彼女らと同じ侍女で、そのように接する必要はないと砂々が言っても、「今はもう陛下のご恵愛を受けられたお妃におなりです」と微笑まれた。
一方で、妃などふさわしくない、辞退はできないでしょうかと砂々が訴えても、「陛下は砂々さまを大切に思っておいでです」とだけ言って受け入れなかった。
砂々は不安に震えながらも、彼女たちの手厚さに逆らえず、時を過ごすしかなかった。
そして四日目の昼下がり――まだ体にだるさの残る砂々は、侍女たちに脇を固められるようにして馬車に揺られ、翠静宮と呼ばれる場所へ向かった。
後宮のさらに奥に、四方を鉄柵に覆われた、どこか牢じみた宮があるとは聞いていた。
そこは厨房も衣装倉も侍女も、後宮とは別に用意されている。何代も主のいないときもあれば、後宮の住民たちにはその主さえ知らせず寵姫を住まわせることもある、極秘の空間だった。
古い時代、皇帝のあまりの寵に耐えられず、心を狂わせた寵姫を閉じ込めておくために作られたと言われている。
だからなのか、そこは後宮からは馬車を走らせなければ行けないが、皇帝の私室がある奥殿から回廊でつながっているという、特異な場所にあった。
その謎めいた翠静宮の門をくぐった瞬間、砂々は戦慄が走る思いがした。
噂に聞いていた牢じみた暗さはどこにもなかった。白亜の壁に、ハスの咲き乱れる泉が広がっていて……天人の住む極楽のような安息が漂っていた。
「ここからはお一人で行かれませ。……先刻から、お待ちでございます」
侍女たちに言われて、砂々は一人で扉をくぐる。
背後の扉が閉じられたとき、砂々の肩はわずかに跳ねた。
「砂々」
呼ばれただけで胸が高鳴るのは、幼い日の淡い恋心を忘れていないから。
砂々の正面に、陽光を背に受けた黒耀帝が立っていた。
首の後ろで結った黒髪は風に揺れ、理知の光を帯びた瞳は優しく、柔和な微笑みがまぶしい。
けれどその瞳には切なる熱もあって、砂々を緊張させた。
「待っていたよ。身体の調子はどうだい?」
「……は、はい。ご配慮いただいたおかげで、このとおり……。陛下はなぜ、ここに……?」
黒耀は歩み寄り、ためらいなく砂々の手を取った。
その温もりに砂々の体がこわばったのを、黒耀は微笑みでなだめた。
「もちろん、これから砂々が住む家を案内するためだよ」
黒耀は砂々の手をゆっくりと引き寄せ、宮の内部へ誘った。
宮の中は、四方を鉄柵で覆われていることを少しも感じさせない、光と温かさで満ちた空間だった。
窓は広く、天井は高く、ここに住まう者が心安くいられるように、調度の一つ一つに趣向が凝らされている。
足を踏み入れて砂々がすぐ気づいたのは、後宮では至るところで炊かれている香炉がひとつもないことだった。
「砂々は煙に弱いだろう? ここでは香を焚かないと厳命している」
代わりに置かれていたのは、ロウバイの花弁を乾かして香りを移した衝立や帳だった。
淡くて、甘くて、砂々でも咳き込まない優しい香りがどこにも満ちている。
「……陛下、覚えていてくださったのですか」
「砂々のことだもの。昔から苦手だったからね」
黒耀の声は柔らかく、砂々は胸の奥がじんと熱くなった。
続いて案内されたのは、宮の東に面した大きな窓の前だった。
「疲れたときは、ここから庭を眺めるといい。病に伏せることが多かった君が、長椅子に横たわってでも外を見られるように整えた」
そこには、まるで絵画のように仕立てられた庭が広がっていた。薄い水面の池に陽がきらめき、白梅、黄梅、椿が色とりどりに配置され、砂々の目に優しく映る。
「侍女の私が……住まうべきところでは……」
砂々が喉を詰まらせると、黒耀は優しく命じるように言う。
「ここはどこも砂々のものだ。必要なものは地上の端からでも取り寄せる。何でも言ってごらん? ……私は君に、心安く暮らしてほしい」
黒耀帝の言葉はどこまでも甘く、寵愛を受けているような錯覚を抱いてしまう。
けれど同時に、この美しい庭に入る前に見た黒い鉄柵が、ここを外界とは完全に隔てているのを思い出した。
「砂々……砂々? どうした、具合が悪い?」
砂々はそれを思うと胸が痛んで、それは無視できない苦しさを帯びてくる。
黒耀帝は足を止めて、砂々の顔をのぞきこんだ。
砂々は案内の途中から、じわじわと息が上がってきたのを感じていた。
病の名残と、皇帝と二人きりでいる緊張は隠しようがなく、砂々は目を逸らしてうつむく。
「元の……後宮に」
砂々が言いかけたとき、黒耀は砂々の肩を支えて言った。
「まだ本調子でないのに、無理をさせたね。おいで、休もう」
黒耀に導かれ、砂々は宮の奥に広がる寝所へと導かれた。
寝所は、宮の中でもまた一層天上に近いような場所だった。
寝台は白と金で整えられ、触れるだけで沈み込みそうなほど柔らかい。
黒耀は砂々を横たえ、手ずから布団をかけてくれる。
その仕草が優しいほど、砂々は逃げ道が消えていく心地がした。
そして黒耀が寝台の縁に腰を下ろした瞬間、砂々の背がぴんと張った。
(触れられる……? まさか今日、このまま……)
呼吸が浅くなった砂々を見て、黒耀はふっと微笑んだ。
「そんな顔をしないで。君は病み上がりだし、まだ昼だ。無体なことはしないよ」
その労わりに満ちた言葉が、砂々の緊張をすこし溶かす。
黒耀は砂々の髪をそっと撫で、寝台の横に身を寄せた。
「砂々。何もしないから……今は安心して眠りなさい」
砂々の額に、幼いころと同じように手を当てる。
「ただ……私が我慢できなくなる前に、心を解いてほしいな」
柔らかい声で告げられて、砂々は息を呑んだ。
逃げたいのか……幼い日の淡い恋心を叶えてもらいたいのか、自分でももうわからなかった。
黒耀は砂々の手を包み込み、そのまま静かに目を閉じた。
砂々の胸の鼓動が、黒耀の呼吸に重なっていく。
翠静宮の静かな昼、二人は短い眠りを共有した。
それは、砂々が鳥籠の中心へと引き寄せられた一歩となった。



