その名君は破滅的な愛をささやく

 砂々はまもなくこの世を去ると知っても、自分ではそれを惜しむ心はなかった。
 四人の子に恵まれ、孫を抱くことも叶い、皇位の継承も決まった。何より歩んできた人生には、いつも側に黒耀がいてくれた。要らない子だった砂々のことを宝物のように大切にして、もう若くも美しくもない容色となっても、我が生涯の妃と呼んでその腕に包んでくれた。
「本当に……何も、もう何も望むことはないのです」
 黒耀は砂々が水しか口にしなくなっても、砂々の回復を信じていた。砂々が死んだ後などという想像は周囲が話すことさえ禁じていて、長く砂々にその希望を訊くこともなかった。
「何でもいい。どんなことでも叶える。食べたいものでも、やりたいことでもいい。砂々、私と子どもたちのためだと思って……望みを口にしてくれないか」
 おそらく今夜が峠でしょうと医師が告げた日のことだった。死の床で横たわる砂々に、黒耀はすがるように問いかけた。
 砂々は微熱で子どものような表情をしていた。彼女は柔く笑って、首を横に振る。
「黒耀さまのこれからの日々が優しく、健やかであることを……お祈りしています」
 砂々はそう告げて、まどろみの中に身を沈めた。
 微笑んで眠った砂々は、いつしかその呼吸が途絶えたのさえ夢まぼろしのようだった。それほど安らかで、静かな最期だった。
「砂々、砂々? 寒いのだな。手が冷えている。誰か、火鉢を……」
 だから黒耀はなかなか砂々が去ったのを信じなかった。砂々の手を、肩を繰り返しさすり、自ら火鉢の火をおこしたりもした。
「薬湯ばかり勧めてすまなかった。何がいいだろう。そうだな、今日は砂々の好きな……。また音楽堂へも行こう。寝てばかりでは気が塞がるものな。……庭は蓮の花が満開だよ。明日にでも見に行こう、砂々……」
「……父上、母上はもう」
 集まった子どもたちは目頭を押さえ、侍女たちがすすり泣く中、黒耀の言葉だけが孤独に響いた。
「砂、々……」
 やがてもう決して砂々が答えることがないとわかって、黒耀は寝台の脇でのろのろと膝をつく。
 慟哭が翠静宮を裂いた。
 幼少の頃、父母を続けて亡くしたときも涙一つ見せなかった皇帝が、生涯ただ一度だけ、理性を手放したように声を上げて泣いた瞬間だった。
 砂々の亡骸をかき抱き、砂々、砂々、起きてくれと壊れたように訴え、それは二昼夜も続いた。
 医官や侍女が砂々に触れようとすれば血走った目で罵り、食事も取ろうとせず、亡骸の側を離れようともしなかった。
 まるで狂った獣のようだった黒耀に、砂々が亡くなって三日目、沙那が涙ながらに訴えた。
「父上のため、母上は長い闘病を耐えていらっしゃいました。……ごらんください、こんなに健やかなお顔はもう何年ぶりでしょう。父上がそのようにお嘆きでは、母上は安らかにお休みになれないではありませんか……」
 優しい、父母思いの沙那に言われて、黒耀はようやく砂々の表情を見た。
 そこに憂いはなく、安息の中に溶け込むような微笑みを見て、黒耀は息子の言葉が真実であるのを悟った。
 黒耀はそっと砂々の頬をなでて、はらはらと落ちる涙をそのままに、やっと砂々の埋葬を決めた。
 それから約二月、黒耀は朝議にも出ず、砂々の部屋で空ろに過ごした。勤勉で使命感の強い黒耀が政務を放り捨てたのはこの時期だけで、子どもたちは何も言わずに受け入れた。
 黒耀はよく砂々と向かい合って茶菓をたしなんだ卓で、誰とも話さず、ひとり砂々の遺品をみつめていた。砂々の残した部屋は何一つ変えようとしなかった。まるでいつ砂々が帰ってきてもいいように、砂々の愛した茶器も、刺繍も、そのままの場所で埃をかぶっていった。
 二月が過ぎる頃になると、砂々との末の娘に手を引かれて、翠静宮の庭を歩く黒耀の姿が見られるようになった。砂々との子どもたちはみな優しい気質の、兄弟仲のいい子どもたちだったが、彼女は特に砂々によく似た面立ちで、素朴な気遣いを見せる娘だった。その愛娘に話しかけられたときだけ、黒耀は少しうなずき、穏やかな初夏の日差しに目を細めた。
 いつしか黒耀は政務に復帰し、元の英邁な君主として君臨するようになったが、毎年春になると砂々のために作った廟に参るのを忘れなかった。腕いっぱいの花を自ら墓前に供え、その日だけは政務も休み、砂々との思い出を噛み締めて祈った。
 砂々は子どもたちにはいくつかの遺言を残していて、黒耀はそのほとんどを叶えた。子どもたちは望まない限り帝位にはかかわらせないこと、心に添う相手と婚姻させること、自分が産んだ子ども以外の子どもたちと、平等に扱うこと。黒耀はその通りにして、子どもたちにとっても良い父親だった。
 ただ、どうしても砂々の望みを覆すこともあった。砂々は自身の亡骸を郷里に埋葬してくれるよう望んだが、黒耀は王宮の敷地内に立派な廟を立て、やがてはその廟の隣に自分も埋葬するように遺言を残していた。
 また、砂々は自分の亡き後の正妃を何人も推挙していたが、黒耀は砂々を失った後、生涯正妃を娶ることはなく、側室を召すこともなかった。夜には翠静宮に入り、そこで眠りについた。
 砂々を早くに亡くしたが、黒耀自身は砂々と過ごした時よりも永くそれからの時間をひとりで過ごした。晩年まで慈悲深く、理性の君で、諸国に鳴り響く名君と称えられた。
 黒耀が退位し、床についた時間はわずかだった。亡くなる数日前まで砂々の廟に参り、翠静宮で砂々の愛した庭を散策した。
 子どもたちと多くの孫たちに見守られ、穏やかに息を引き取ろうとしたとき、一瞬だけ少年のように微笑んだ。
 砂々と、恋人にささやくように甘く告げて、黒耀は目を閉じた。
「長い間、本当にご苦労さまでした」
 黒耀がまた目を開いたとき、風そのもののような羽衣を身にまとう砂々がそこにいた。
 少女の頃のような若々しい姿で、命に満ち溢れた朱の差した頬で、黒耀の手を取って微笑む。
「迎えに……来てくれたのか。君はやはり、天女だったのだな……」
 ずっと、夢でもいいから一目見たいと思っていた姿に、黒耀は万感の思いをこめてつぶやく。
 砂々はいたずらっぽく笑って、黒耀の頬に触れる。
「いいえ。黒耀さまも、そんなにもお若いではありませんか」
「ああ……そうだな」
 砂々の瞳に写った自分も、砂々と過ごした年若い頃に戻っていた。その力強い腕で、砂々の背に手を回す。
「もう皇帝と侍女ではない。私たちを隔てるものは何もない。比翼の鳥のように……ずっと共にいよう」
 天頂から柔らかい日差しが降りてくる。
 黒耀と砂々は互いに手を取って、風の導くままに昇っていった。