風の中に花が香る、春の夜更けのことだった。
砂々が額を拭われる感覚で目を覚ますと、枕元に黒耀が座っていた。
「起こしてしまったか? すまない」
「いいえ……こんな時間まで、お側にいてくださったのですか?」
砂々が体を起こそうとすると、黒耀はそっとその肩を寝台に戻す。
「よい。ずっと熱が高く、ようやく夜になって下がったのだ。よく眠って……朝になったら、薬湯を飲もうな」
黒耀は優しく砂々の前髪を梳いて、安心させるように頬をなでる。
その面差しは年を重ねてなお光輝のようで、砂々は太陽を仰ぐように目を細める。
「宴など、無理をさせてしまったな。ここのところ塞いでいるようだったから、よい憩いになると思ったのだが……」
光輝、それなら一昨日の宴の席もそうだった。黒耀が翠静宮から砂々を出すことは珍しいが、砂々が繰り返し体調を崩すのを見かねて、連れ出してくれたのだった。
「黒耀さまの心づくしには、どう感謝をお伝えすればいいか。とても心躍る時間でした」
豪奢な珍味、華やかに彩られた白亜の大広間、そして楽師や舞姫たちに、砂々も心震えた。それらを黒耀が自分のためだけに用意してくれたのだと思うと、申し訳ない思いがした。
砂々が目を伏せて考えに沈んでいると、黒耀は気づかわしげに声をかける。
「砂々? 眠くなってきたか。そろそろ灯りを……」
「……私は、もう長くないのだと思います」
砂々の頭を撫でていた手がぴたりと止まる。
「何を言う」
「元々子どもの頃から弱い体でした。それなのに、黒耀さまの御子を四人も授かる幸運をいただきました。無事に子どもたちが成人を迎えることができて……私の役目は終わったのではないでしょうか」
「砂々!」
黒耀は心乱れたように息を吸って、性急に砂々の手を取る。
「愚かなことを言ってはいけない。病で心が弱っているだけだ。君は私と添い遂げると約束したではないか」
「命ある限り、お側に……けれど、私の天寿は黒耀さまより短いようなのです」
砂々は弱弱しく笑って、揺れた黒耀の目を見上げる。
「宴の中、重ねてきた時を思っていました。私が翠静宮に迎えられて以来、黒耀さまは他のお妃さまを次々にご実家に帰し、私ともうけた御子たちに一心に愛情を注いでくださった。私たちはその幸せを宝として……もう黒耀さまを解放してさしあげるべきなのです」
「解放、とは……」
「黒耀さまには新しいお妃さまが必要です」
黒耀は砂々には決して聞かせなかったが、王宮では砂々以外の妃を早急に陛下に差し出すべきだとずっと言われていたと聞いている。
砂々が言葉にして告げると、黒耀ははっきりと首を横に振った。
「他の妃など要らぬ。君と生涯を過ごすために、皇家の子は十分にもうけてきた。皇太子も決まっている」
「私が死んだ後、黒耀さまをお支えする妃が必要なのです」
「私は君を絶対に手放さない!」
黒耀は普段の平静さを捨てて、激情に駆られたように声を上げる。
「砂々、砂々……体がつらいのだな。だからありもしないことを口にするのだ。朝には滋養のあるものをたくさん膳に出そう。東方にも西方にも使いを出してある。病に効く薬を取り寄せているから、じきによくなる。必ずよくなるから……今は何も考えず、よくお休み」
繰り返し砂々の頭をなでて、黒耀はそう言い聞かせた。
本当は……自分のために薬を取り寄せるのも、もうやめていただきたかった。砂々の体の弱さに効く薬などない。それなのに、黒耀はここ何年も砂々の薬を探させるのをやめない。
(私は有り余る幸せに包まれてきた。ただ今は、黒耀さまを残して逝くことだけが……心残りで)
砂々は額に触れる黒耀の手のぬくもりを感じながら、そっと眠りに落ちた。
翌朝、砂々は医官にいつも以上に念入りに診てもらった後、時間をかけてゆっくりと朝の膳を取った。
黒耀は自身の膳を運ばせて同席し、砂々がきちんと食事を摂っているか見守っていた。そのおかげもあってか、鳥の餌ほどの食事の量だった砂々も少しだけ食が進み、黒耀を安心させた。
「暖かくして、薬湯を少しずつでも飲むんだよ。昼にはまた戻る」
黒耀は砂々を労わり、侍女や医官に砂々から目を離さないように言伝て、政務へと向かっていった。
砂々は寝台に身を沈めて、うとうととまどろんでいた。ここのところは体力が続かなくて起きている時間も少なく、庭を散歩することもできなかった。
夢うつつの状態で、砂々は不思議な光景を見た。小さなさなが、じゅうたんの上ではいはいをしている。砂々はその一生懸命の仕草が愛おしくて手を伸ばそうとするのだけど、手が届かない。
さな、お母様だよ……そう言って抱き上げて頬を寄せた、遠い日の記憶。
ところが別の手が小さなさなを抱き上げて、砂々の夢は途切れる。
「お加減はいかがですか、母上」
寝台の横に座って砂々に声をかけたのは、黒耀の若い頃に生き写しの青年だった。
背が高く、涼しげな目鼻立ちに、そっと心配そうに目を伏せる仕草までそっくりだ。砂々は彼を見ていて、時の流れを思う。
「……沙那」
「父上が心配しておられましたよ。ご自身のお食事もここに運ばせて母上の食事を見守っていらしたとか。政務に出られても、時折ため息をつかれていました」
成長した沙那は、今年二十歳になる。書をたしなむのが好きで、理知的で物腰穏やかな青年だ。
砂々は久しぶりに笑って、沙那の膝の上の「小さなさな」を見た。
「ふふ。紫耀が、小さい頃の沙那に見えたわ」
紫耀は、沙那が妃との間にもうけた男児だ。黒耀にとっては孫に当たる。
皇太子である怜泉は沙那を溺愛していて、未だ妃を迎えようとしない。だから王宮では、黒耀と怜泉の希望通り、紫耀を怜泉の養子として次代の帝位継承者とする方針だ。
「沙那、紫耀が言葉を覚える前に改名してもいいのよ。女性的な名前でしょう」
「いいえ。父上と母上が与えて、ずっと呼んでくださった名です。僕はこれでいい」
沙那は優しい気質で、二人の弟と一人の妹も大切にしてくれた。きっと紫耀のことも、愛情を注いで育ててくれるだろうと思う。
紫耀は沙那の膝の上で、きゃっきゃと声を上げて父親の顔に触れている。そのあどけない声を聞いていたら、砂々も少し元気が生まれてくる気がした。
「……時は、止まることがないわね」
「母上?」
「あんなに小さかったあなたが、もう次代を担うのですもの」
砂々は心から安堵の表情を浮かべて、沙那をみつめる。
「生まれてきてくれてありがとうね。私も、もう少しだけがんばってみるわね……」
隣室から、侍女が先触れの報せを伝えにやって来る。
まもなく黒耀が訪れるというしらせに、砂々は少女であった頃のように、花のように微笑んでいた。
砂々が額を拭われる感覚で目を覚ますと、枕元に黒耀が座っていた。
「起こしてしまったか? すまない」
「いいえ……こんな時間まで、お側にいてくださったのですか?」
砂々が体を起こそうとすると、黒耀はそっとその肩を寝台に戻す。
「よい。ずっと熱が高く、ようやく夜になって下がったのだ。よく眠って……朝になったら、薬湯を飲もうな」
黒耀は優しく砂々の前髪を梳いて、安心させるように頬をなでる。
その面差しは年を重ねてなお光輝のようで、砂々は太陽を仰ぐように目を細める。
「宴など、無理をさせてしまったな。ここのところ塞いでいるようだったから、よい憩いになると思ったのだが……」
光輝、それなら一昨日の宴の席もそうだった。黒耀が翠静宮から砂々を出すことは珍しいが、砂々が繰り返し体調を崩すのを見かねて、連れ出してくれたのだった。
「黒耀さまの心づくしには、どう感謝をお伝えすればいいか。とても心躍る時間でした」
豪奢な珍味、華やかに彩られた白亜の大広間、そして楽師や舞姫たちに、砂々も心震えた。それらを黒耀が自分のためだけに用意してくれたのだと思うと、申し訳ない思いがした。
砂々が目を伏せて考えに沈んでいると、黒耀は気づかわしげに声をかける。
「砂々? 眠くなってきたか。そろそろ灯りを……」
「……私は、もう長くないのだと思います」
砂々の頭を撫でていた手がぴたりと止まる。
「何を言う」
「元々子どもの頃から弱い体でした。それなのに、黒耀さまの御子を四人も授かる幸運をいただきました。無事に子どもたちが成人を迎えることができて……私の役目は終わったのではないでしょうか」
「砂々!」
黒耀は心乱れたように息を吸って、性急に砂々の手を取る。
「愚かなことを言ってはいけない。病で心が弱っているだけだ。君は私と添い遂げると約束したではないか」
「命ある限り、お側に……けれど、私の天寿は黒耀さまより短いようなのです」
砂々は弱弱しく笑って、揺れた黒耀の目を見上げる。
「宴の中、重ねてきた時を思っていました。私が翠静宮に迎えられて以来、黒耀さまは他のお妃さまを次々にご実家に帰し、私ともうけた御子たちに一心に愛情を注いでくださった。私たちはその幸せを宝として……もう黒耀さまを解放してさしあげるべきなのです」
「解放、とは……」
「黒耀さまには新しいお妃さまが必要です」
黒耀は砂々には決して聞かせなかったが、王宮では砂々以外の妃を早急に陛下に差し出すべきだとずっと言われていたと聞いている。
砂々が言葉にして告げると、黒耀ははっきりと首を横に振った。
「他の妃など要らぬ。君と生涯を過ごすために、皇家の子は十分にもうけてきた。皇太子も決まっている」
「私が死んだ後、黒耀さまをお支えする妃が必要なのです」
「私は君を絶対に手放さない!」
黒耀は普段の平静さを捨てて、激情に駆られたように声を上げる。
「砂々、砂々……体がつらいのだな。だからありもしないことを口にするのだ。朝には滋養のあるものをたくさん膳に出そう。東方にも西方にも使いを出してある。病に効く薬を取り寄せているから、じきによくなる。必ずよくなるから……今は何も考えず、よくお休み」
繰り返し砂々の頭をなでて、黒耀はそう言い聞かせた。
本当は……自分のために薬を取り寄せるのも、もうやめていただきたかった。砂々の体の弱さに効く薬などない。それなのに、黒耀はここ何年も砂々の薬を探させるのをやめない。
(私は有り余る幸せに包まれてきた。ただ今は、黒耀さまを残して逝くことだけが……心残りで)
砂々は額に触れる黒耀の手のぬくもりを感じながら、そっと眠りに落ちた。
翌朝、砂々は医官にいつも以上に念入りに診てもらった後、時間をかけてゆっくりと朝の膳を取った。
黒耀は自身の膳を運ばせて同席し、砂々がきちんと食事を摂っているか見守っていた。そのおかげもあってか、鳥の餌ほどの食事の量だった砂々も少しだけ食が進み、黒耀を安心させた。
「暖かくして、薬湯を少しずつでも飲むんだよ。昼にはまた戻る」
黒耀は砂々を労わり、侍女や医官に砂々から目を離さないように言伝て、政務へと向かっていった。
砂々は寝台に身を沈めて、うとうととまどろんでいた。ここのところは体力が続かなくて起きている時間も少なく、庭を散歩することもできなかった。
夢うつつの状態で、砂々は不思議な光景を見た。小さなさなが、じゅうたんの上ではいはいをしている。砂々はその一生懸命の仕草が愛おしくて手を伸ばそうとするのだけど、手が届かない。
さな、お母様だよ……そう言って抱き上げて頬を寄せた、遠い日の記憶。
ところが別の手が小さなさなを抱き上げて、砂々の夢は途切れる。
「お加減はいかがですか、母上」
寝台の横に座って砂々に声をかけたのは、黒耀の若い頃に生き写しの青年だった。
背が高く、涼しげな目鼻立ちに、そっと心配そうに目を伏せる仕草までそっくりだ。砂々は彼を見ていて、時の流れを思う。
「……沙那」
「父上が心配しておられましたよ。ご自身のお食事もここに運ばせて母上の食事を見守っていらしたとか。政務に出られても、時折ため息をつかれていました」
成長した沙那は、今年二十歳になる。書をたしなむのが好きで、理知的で物腰穏やかな青年だ。
砂々は久しぶりに笑って、沙那の膝の上の「小さなさな」を見た。
「ふふ。紫耀が、小さい頃の沙那に見えたわ」
紫耀は、沙那が妃との間にもうけた男児だ。黒耀にとっては孫に当たる。
皇太子である怜泉は沙那を溺愛していて、未だ妃を迎えようとしない。だから王宮では、黒耀と怜泉の希望通り、紫耀を怜泉の養子として次代の帝位継承者とする方針だ。
「沙那、紫耀が言葉を覚える前に改名してもいいのよ。女性的な名前でしょう」
「いいえ。父上と母上が与えて、ずっと呼んでくださった名です。僕はこれでいい」
沙那は優しい気質で、二人の弟と一人の妹も大切にしてくれた。きっと紫耀のことも、愛情を注いで育ててくれるだろうと思う。
紫耀は沙那の膝の上で、きゃっきゃと声を上げて父親の顔に触れている。そのあどけない声を聞いていたら、砂々も少し元気が生まれてくる気がした。
「……時は、止まることがないわね」
「母上?」
「あんなに小さかったあなたが、もう次代を担うのですもの」
砂々は心から安堵の表情を浮かべて、沙那をみつめる。
「生まれてきてくれてありがとうね。私も、もう少しだけがんばってみるわね……」
隣室から、侍女が先触れの報せを伝えにやって来る。
まもなく黒耀が訪れるというしらせに、砂々は少女であった頃のように、花のように微笑んでいた。



