帝都に春のにぎわいが満ちる頃、翠静宮だけは世界から切り離されたように静かだった。
そこは後宮の最奥、誰も触れられない閉ざされた世界。けれどこの国の絶対君主が妻のために張り巡らせた鳥籠であり……未来の皇帝を育む揺り籠だった。
砂々は正妃となる儀式を控え、芙妃から礼法や政治の手ほどきを受けていた。
芙妃は姉のように慈愛をもって教えるが、砂々は自分が正妃となる姿を想像できないでいる。その姿はまだ妻というより、身分違いの恋人に手を引かれている少女のようだった。
「砂々さま、はじめから正妃らしい女性などいません。その立場を得てから学んでいけばよろしいのですよ」
芙妃は砂々の勤勉さを好ましく見ながら、危うさも感じていた。
砂々は首を横に振って小声で言う。
「私が……黒耀さまの威光を傷つけるようなことがあってはいけませんから」
芙妃は心配そうに目を陰らせて砂々を見る。
「陛下はただあなたをお望みなのです。儀式の出来不出来などお心にも留められますまい。どうか……」
「そうだよ、砂々」
芙妃がそう励まそうとしたとき、衝立の向こうから黒耀が歩み寄った。
「儀式は君が私の隣に座す者で、至高の存在だと認めさせるためだけに行うんだ。私の威光は、君を守る傘にしてほしい」
黒耀は優しく告げて、砂々の隣に掛けた。
「……黒耀さま」
「学んでくれるのは嬉しいよ。でもそれで怯えるなら、いつでも私の元へ戻っておいで」
砂々に対する声はどこまでも甘かったが、芙妃は黒耀がちらりと自分へ向けた冷たさに気づいていた。
……砂々が自分以外の誰かに教えを請うという行為に、黒耀は嫉妬している。
本心からいえば、翠静宮に誰かを入れるということも許しがたいのだろう。黒耀が砂々のために作った世界はそれほど、外の汚れを嫌う。
けれど芙妃は黒耀の手で丁寧に愛おしまれ、育てられた少女をもう少し見守っていたい。
「砂々さま。……あと少しだけ、私にお付き合いください」
芙妃は静かに微笑んで、今という限りある時を紡ぐことを選んでいる。
庭の東屋では、怜泉が赤子のさなを抱き上げ、揺らしながらあやしていた。
怜泉は最初、さなを抱くことすら恐れていた。砂々の命を危険に晒し、破滅させかけた罪悪感を覚えていたからだった。
けれどさなに一度触れてからは、まるで見える世界の色さえ変わったようだった。
「……なんて、かわいい。さな、もっと笑ってくれ」
とろけるように笑いかけると、怜泉の腕に抱かれたさなはきょとんと目をまたたかせる。
そのあどけなさに、怜泉はまた相好を崩して頬に触れた。
その様子を見守っていた砂々は、そっと声をかける。
「怜泉さま、ごめんなさい。いつもお手を煩わせて……」
砂々が頭を下げると、怜泉は首を横に振る。
「救いのような時間です。砂々さまが生きていてくださって、さながこんなに元気で……私は、また生き始めたような心地がします」
砂々は胸に手を当て、ほっと安堵の息をもらした。
ふたりのやり取りを、黒耀は遠くから黙って見ていた。
怜泉は砂々が翠静宮から逃げ出したとき、真っ先にその命を危ぶんだと言う。
自分が彼女を追い詰めたのではないかと自責の念に駆られ、皇位を手放しそうになったときもあった。
「さな、私が守るよ……健やかに大きくおなり」
けれど今は小さな弟をこの上なく愛おしみ、その手を引こうとしている。
黒耀はその努力を尊ぶ。ただ同時に悟っていた。
……怜泉がさなに向ける目は、どこか自分に似て陶酔を帯びている。
息子もまた、兄弟という生涯ほどけない絆を頼りに、愛し存在のための世界を作るのだろう。そういう確信を、密かに抱いている。
夕刻、後宮の中庭に淡い春霞が漂う。
ふたりの寝室では、砂々が黒耀の膝の上に抱き寄せられて胸元に顔を埋めていた。
この形は、砂々が救護院から連れ戻された夜から変わらない。
黒耀は砂々がさなを産んだ後でも、少女を包むように砂々に触れる。これから砂々が何人産んでも触れ続けると、心に決めている。
「……砂々。眠い?」
黒耀がささやくと、砂々は小さく首を振り、黒耀の衣をつまむ。
「こうして黒耀さまに包まれるのは、幸せ。でも、いつか……天に許されない日が来るのではと思います」
「天か」
黒耀はふっと柔らかく微笑む。
「もし天の怒りを買って、砂々が冥府に落とされたなら。……私も冥府に行く。砂々のいない天にも地にも、愛着などないから」
それは天の代理人として治世を行う皇帝の言葉とは思えない、そんな背徳の甘いささやきだった。
「ずっと捕まえているよ。私は君の檻で、君は私の鎖だ。ふたりで壊れればいい。誰にも邪魔はさせない」
砂々が小さく震えると、黒耀はその震えごと愛しむように抱きしめた。
「砂々……私の全部。君がいれば、私は帝でなくてもいい。君を傷つけるものは神だろうと許さない。――だから、私だけを見ていなさい」
砂々は胸に顔を埋め、黒耀の鼓動に耳を澄ませた。
「……黒耀さま。あたたかい」
そこは、金糸で出来た鳥籠のように美しく閉ざされたところ。
翠静宮の春の宵はとろりと、いつしか境界をなくしたふたりを包んでいた。
そこは後宮の最奥、誰も触れられない閉ざされた世界。けれどこの国の絶対君主が妻のために張り巡らせた鳥籠であり……未来の皇帝を育む揺り籠だった。
砂々は正妃となる儀式を控え、芙妃から礼法や政治の手ほどきを受けていた。
芙妃は姉のように慈愛をもって教えるが、砂々は自分が正妃となる姿を想像できないでいる。その姿はまだ妻というより、身分違いの恋人に手を引かれている少女のようだった。
「砂々さま、はじめから正妃らしい女性などいません。その立場を得てから学んでいけばよろしいのですよ」
芙妃は砂々の勤勉さを好ましく見ながら、危うさも感じていた。
砂々は首を横に振って小声で言う。
「私が……黒耀さまの威光を傷つけるようなことがあってはいけませんから」
芙妃は心配そうに目を陰らせて砂々を見る。
「陛下はただあなたをお望みなのです。儀式の出来不出来などお心にも留められますまい。どうか……」
「そうだよ、砂々」
芙妃がそう励まそうとしたとき、衝立の向こうから黒耀が歩み寄った。
「儀式は君が私の隣に座す者で、至高の存在だと認めさせるためだけに行うんだ。私の威光は、君を守る傘にしてほしい」
黒耀は優しく告げて、砂々の隣に掛けた。
「……黒耀さま」
「学んでくれるのは嬉しいよ。でもそれで怯えるなら、いつでも私の元へ戻っておいで」
砂々に対する声はどこまでも甘かったが、芙妃は黒耀がちらりと自分へ向けた冷たさに気づいていた。
……砂々が自分以外の誰かに教えを請うという行為に、黒耀は嫉妬している。
本心からいえば、翠静宮に誰かを入れるということも許しがたいのだろう。黒耀が砂々のために作った世界はそれほど、外の汚れを嫌う。
けれど芙妃は黒耀の手で丁寧に愛おしまれ、育てられた少女をもう少し見守っていたい。
「砂々さま。……あと少しだけ、私にお付き合いください」
芙妃は静かに微笑んで、今という限りある時を紡ぐことを選んでいる。
庭の東屋では、怜泉が赤子のさなを抱き上げ、揺らしながらあやしていた。
怜泉は最初、さなを抱くことすら恐れていた。砂々の命を危険に晒し、破滅させかけた罪悪感を覚えていたからだった。
けれどさなに一度触れてからは、まるで見える世界の色さえ変わったようだった。
「……なんて、かわいい。さな、もっと笑ってくれ」
とろけるように笑いかけると、怜泉の腕に抱かれたさなはきょとんと目をまたたかせる。
そのあどけなさに、怜泉はまた相好を崩して頬に触れた。
その様子を見守っていた砂々は、そっと声をかける。
「怜泉さま、ごめんなさい。いつもお手を煩わせて……」
砂々が頭を下げると、怜泉は首を横に振る。
「救いのような時間です。砂々さまが生きていてくださって、さながこんなに元気で……私は、また生き始めたような心地がします」
砂々は胸に手を当て、ほっと安堵の息をもらした。
ふたりのやり取りを、黒耀は遠くから黙って見ていた。
怜泉は砂々が翠静宮から逃げ出したとき、真っ先にその命を危ぶんだと言う。
自分が彼女を追い詰めたのではないかと自責の念に駆られ、皇位を手放しそうになったときもあった。
「さな、私が守るよ……健やかに大きくおなり」
けれど今は小さな弟をこの上なく愛おしみ、その手を引こうとしている。
黒耀はその努力を尊ぶ。ただ同時に悟っていた。
……怜泉がさなに向ける目は、どこか自分に似て陶酔を帯びている。
息子もまた、兄弟という生涯ほどけない絆を頼りに、愛し存在のための世界を作るのだろう。そういう確信を、密かに抱いている。
夕刻、後宮の中庭に淡い春霞が漂う。
ふたりの寝室では、砂々が黒耀の膝の上に抱き寄せられて胸元に顔を埋めていた。
この形は、砂々が救護院から連れ戻された夜から変わらない。
黒耀は砂々がさなを産んだ後でも、少女を包むように砂々に触れる。これから砂々が何人産んでも触れ続けると、心に決めている。
「……砂々。眠い?」
黒耀がささやくと、砂々は小さく首を振り、黒耀の衣をつまむ。
「こうして黒耀さまに包まれるのは、幸せ。でも、いつか……天に許されない日が来るのではと思います」
「天か」
黒耀はふっと柔らかく微笑む。
「もし天の怒りを買って、砂々が冥府に落とされたなら。……私も冥府に行く。砂々のいない天にも地にも、愛着などないから」
それは天の代理人として治世を行う皇帝の言葉とは思えない、そんな背徳の甘いささやきだった。
「ずっと捕まえているよ。私は君の檻で、君は私の鎖だ。ふたりで壊れればいい。誰にも邪魔はさせない」
砂々が小さく震えると、黒耀はその震えごと愛しむように抱きしめた。
「砂々……私の全部。君がいれば、私は帝でなくてもいい。君を傷つけるものは神だろうと許さない。――だから、私だけを見ていなさい」
砂々は胸に顔を埋め、黒耀の鼓動に耳を澄ませた。
「……黒耀さま。あたたかい」
そこは、金糸で出来た鳥籠のように美しく閉ざされたところ。
翠静宮の春の宵はとろりと、いつしか境界をなくしたふたりを包んでいた。



