世界にせいいっぱい手を伸ばすような、泣き声が聞こえた。
どこか胸が詰まるようなその声に意識を引っ張られて、私はゆっくりと目を開けた。
「……ここ、は」
翠静宮のような白い彫刻も金箔もなくて、素朴な木目が天井に走っていた。
窓から射す光も細く、どこか土の匂いがする。
「砂々さま、お目覚めになりましたか」
顔を横に向けると、救護院の看護人の女性が安堵の笑みを浮かべていた。
「ご出産から、丸二日ほど経ちました。高い熱と出血で危ういところでしたが……持ちこたえてくださいました」
二日という時間は、長いのか短いのか、今の私にはわからなかった。
「あの、子は……」
すがるように問うと、看護人が小さな包みを抱いて戻ってきた。
白い布にくるまれたその子は、さっきまで泣いていたのだろう。目元が赤くて、きゅっと結んだ口が、何かを探すように震えている。
「……男児ですよ。とても元気な御子です」
胸の奥が、じんと熱くなった。
看護人の腕から、そっとその子を受け取る。
まだうまく力が入らない腕の中で、信じられないくらい軽くて、でも世界で一番重たい命だった。
あたたかくて、心臓の鼓動がかすかに私の胸にも伝わってくる。
「さな……」
名を呼ぶとちいさなまつげが震えて、深く黒い瞳が現れた。
その色は、私にとって誰より輝かしい、たったひとりの方の瞳の色だった。
(……黒耀さま)
喉の奥が痛んで、切ない思いがこみあげる。
会わせてあげたい。この子を抱きしめてほしい。
そんな願いが胸にあふれて、同時に、絶対に願ってはいけないと自分を叱りつけた。
「よく来てくれたね。私が、お母様だよ……」
唇が震えて、泣き笑いの顔になる。
あの暗闇の中で言った言葉と同じことを、今度は笑って言えた気がした。
さなはまだこの世界の何もかもを知らない顔で、小さく息を吐いて眠りに落ちた。
しばらくして、看護人が気遣うように口をひらいた。
「兵が……帝都に放たれたようです」
ぼんやりとした記憶の底から、薄い紙の感触が浮かび上がる。
黒耀さまが心乱れ、翠静宮が騒然とし、兵が動き出していると、芙妃さまが書いていた。
「城下では今、兵があちこちを巡回しているそうです。若い妊婦や、後宮から逃れた女がいないか、片っ端から尋ね歩いていると……」
心臓がひときわ大きく鳴った。
「ここのことは……」
「今のところ、見つかっておりません。芙妃さまがうまく隠してくださっているのでしょう。……ただ時間の問題だと、院長はおっしゃっていました」
私はその時間がどれほどの長さか、聞き返せずにいた。
あの方に見つかったら、この子は「皇帝陛下の御子」になってしまう。
尊くて危険な光は多くの命を散らし、いずれはさなも傷つけるかもしれない。
私の腕の中で眠るさなは、ただの赤子だ。
誰の罪も、誰の欲も知らない。
(この子は……ただ、私の子でいてほしい)
そう思うのは、私のわがままなのだろうか。
「砂々さま」
看護人が、そっと私の肩に触れる。
「御体が何より大事です。高い熱が続きました。憂いを収めて、お休みください」
言われてみれば、体の奥がじんじんと痛む。
力はほとんど残っていないのに、さなのぬくもりだけが、私をかろうじてこの世につなぎとめている。
私は頷いて、さなの額にそっと唇をおいた。
(……大丈夫。じきに一緒に、どこか遠くへ行こうね)
誰にも見つからないところ、黒耀さまの光も届かない場所へ行こう。さなを無事育てていけるところに、たどり着きたい。
そう思った瞬間、胸はまぎれもなく軋んだ。
(黒耀さま……きっと今も、探しておられる)
芙妃さまの文には、「ほとんどお眠りになっていない」と書かれていた。
私がいなくなったあと、翠静宮の侍女たちを残らず罰しようとしたのも、芙妃さまが止めてくれなかったら、本当に誰かが死んでいたのかもしれない。
私一人のために、何人もの命が揺らいでいる。
(どうして、そんなふうに……。どうして、そこまで……)
思えば最初からそうだった。
毒に倒れて幼くなった私を、黒耀さまは決して見捨てなかった。
怖がる私に手を伸ばし、真綿で包むようなやさしさで抱きしめ続けてくれた。
あの方に抱きしめられるたび、私は「いらない子」ではないのだと、初めて思えた。
(――私は、黒耀さまのおかげで生きてこられたのだ)
さなのおでこを撫でながら、そっと目を閉じる。
そこに浮かぶのは、どうしても黒耀さまの顔だった。
私を呼ぶ声、額に触れる唇。体を通じて感じた、黒耀さまの胸の鼓動が蘇る。
「……会いたい」
看護人が部屋を去った後、思わずそうつぶやいていた。
でも、もう戻れない。戻ってはいけない。
その夜、救護院の窓の外で幾度か蹄の音が響いた。遠くで、甲冑の打ち鳴らされる気配もする。
闇の中、遠くで誰かが叫ぶ声がする。
家に女はいるか、名前は何か、最近子を宿した者はいないか……そんな問いかけが、風に乗って聞こえてくることもあった。
(黒耀さまの……兵士たち)
見つけられたくないのに、どこかでここにいると伝えたい思いがある。
さなと一緒に抱きしめてほしいと、泣くような思いで願ってしまう。
「砂々さま、今日はもうお休みを。御子も眠っておられます」
看護人にうながされて、私は布団に身を横たえた。
さなは小さな寝籠に移され、私のすぐ手の届くところで眠っている。
外の物音が遠ざかっていく。それでも、胸の鼓動はしばらくおさまらなかった。
(黒耀さま。どうか……どうか、見逃して、ください)
心の半分でそう祈る。
もう半分では……真逆なことを思ってしまう。
(……逃さないで、ください)
私は相反する願いに挟まれて、暗闇の中眠れない夜を過ごした。
どこか胸が詰まるようなその声に意識を引っ張られて、私はゆっくりと目を開けた。
「……ここ、は」
翠静宮のような白い彫刻も金箔もなくて、素朴な木目が天井に走っていた。
窓から射す光も細く、どこか土の匂いがする。
「砂々さま、お目覚めになりましたか」
顔を横に向けると、救護院の看護人の女性が安堵の笑みを浮かべていた。
「ご出産から、丸二日ほど経ちました。高い熱と出血で危ういところでしたが……持ちこたえてくださいました」
二日という時間は、長いのか短いのか、今の私にはわからなかった。
「あの、子は……」
すがるように問うと、看護人が小さな包みを抱いて戻ってきた。
白い布にくるまれたその子は、さっきまで泣いていたのだろう。目元が赤くて、きゅっと結んだ口が、何かを探すように震えている。
「……男児ですよ。とても元気な御子です」
胸の奥が、じんと熱くなった。
看護人の腕から、そっとその子を受け取る。
まだうまく力が入らない腕の中で、信じられないくらい軽くて、でも世界で一番重たい命だった。
あたたかくて、心臓の鼓動がかすかに私の胸にも伝わってくる。
「さな……」
名を呼ぶとちいさなまつげが震えて、深く黒い瞳が現れた。
その色は、私にとって誰より輝かしい、たったひとりの方の瞳の色だった。
(……黒耀さま)
喉の奥が痛んで、切ない思いがこみあげる。
会わせてあげたい。この子を抱きしめてほしい。
そんな願いが胸にあふれて、同時に、絶対に願ってはいけないと自分を叱りつけた。
「よく来てくれたね。私が、お母様だよ……」
唇が震えて、泣き笑いの顔になる。
あの暗闇の中で言った言葉と同じことを、今度は笑って言えた気がした。
さなはまだこの世界の何もかもを知らない顔で、小さく息を吐いて眠りに落ちた。
しばらくして、看護人が気遣うように口をひらいた。
「兵が……帝都に放たれたようです」
ぼんやりとした記憶の底から、薄い紙の感触が浮かび上がる。
黒耀さまが心乱れ、翠静宮が騒然とし、兵が動き出していると、芙妃さまが書いていた。
「城下では今、兵があちこちを巡回しているそうです。若い妊婦や、後宮から逃れた女がいないか、片っ端から尋ね歩いていると……」
心臓がひときわ大きく鳴った。
「ここのことは……」
「今のところ、見つかっておりません。芙妃さまがうまく隠してくださっているのでしょう。……ただ時間の問題だと、院長はおっしゃっていました」
私はその時間がどれほどの長さか、聞き返せずにいた。
あの方に見つかったら、この子は「皇帝陛下の御子」になってしまう。
尊くて危険な光は多くの命を散らし、いずれはさなも傷つけるかもしれない。
私の腕の中で眠るさなは、ただの赤子だ。
誰の罪も、誰の欲も知らない。
(この子は……ただ、私の子でいてほしい)
そう思うのは、私のわがままなのだろうか。
「砂々さま」
看護人が、そっと私の肩に触れる。
「御体が何より大事です。高い熱が続きました。憂いを収めて、お休みください」
言われてみれば、体の奥がじんじんと痛む。
力はほとんど残っていないのに、さなのぬくもりだけが、私をかろうじてこの世につなぎとめている。
私は頷いて、さなの額にそっと唇をおいた。
(……大丈夫。じきに一緒に、どこか遠くへ行こうね)
誰にも見つからないところ、黒耀さまの光も届かない場所へ行こう。さなを無事育てていけるところに、たどり着きたい。
そう思った瞬間、胸はまぎれもなく軋んだ。
(黒耀さま……きっと今も、探しておられる)
芙妃さまの文には、「ほとんどお眠りになっていない」と書かれていた。
私がいなくなったあと、翠静宮の侍女たちを残らず罰しようとしたのも、芙妃さまが止めてくれなかったら、本当に誰かが死んでいたのかもしれない。
私一人のために、何人もの命が揺らいでいる。
(どうして、そんなふうに……。どうして、そこまで……)
思えば最初からそうだった。
毒に倒れて幼くなった私を、黒耀さまは決して見捨てなかった。
怖がる私に手を伸ばし、真綿で包むようなやさしさで抱きしめ続けてくれた。
あの方に抱きしめられるたび、私は「いらない子」ではないのだと、初めて思えた。
(――私は、黒耀さまのおかげで生きてこられたのだ)
さなのおでこを撫でながら、そっと目を閉じる。
そこに浮かぶのは、どうしても黒耀さまの顔だった。
私を呼ぶ声、額に触れる唇。体を通じて感じた、黒耀さまの胸の鼓動が蘇る。
「……会いたい」
看護人が部屋を去った後、思わずそうつぶやいていた。
でも、もう戻れない。戻ってはいけない。
その夜、救護院の窓の外で幾度か蹄の音が響いた。遠くで、甲冑の打ち鳴らされる気配もする。
闇の中、遠くで誰かが叫ぶ声がする。
家に女はいるか、名前は何か、最近子を宿した者はいないか……そんな問いかけが、風に乗って聞こえてくることもあった。
(黒耀さまの……兵士たち)
見つけられたくないのに、どこかでここにいると伝えたい思いがある。
さなと一緒に抱きしめてほしいと、泣くような思いで願ってしまう。
「砂々さま、今日はもうお休みを。御子も眠っておられます」
看護人にうながされて、私は布団に身を横たえた。
さなは小さな寝籠に移され、私のすぐ手の届くところで眠っている。
外の物音が遠ざかっていく。それでも、胸の鼓動はしばらくおさまらなかった。
(黒耀さま。どうか……どうか、見逃して、ください)
心の半分でそう祈る。
もう半分では……真逆なことを思ってしまう。
(……逃さないで、ください)
私は相反する願いに挟まれて、暗闇の中眠れない夜を過ごした。



