その名君は破滅的な愛をささやく

 救護院に身を寄せて三日が過ぎたころ、私は芙妃さまの手配してくださった医師の診察を受けた。
 救護院は帝都の外れに位置する、木造りの小さな建物だった。貧しさから薬をもらえない人々や、事情があって里で出産できない女性などが助けを求めてすがる場所だ。
 だから決して、黒耀さまの命で薬も医師も惜しみなく与えられた翠静宮には及ばない。けれど芙妃さまの御心が透けて見えるような、心優しい看護人たちと南向きの温かな部屋は、私を安心させてくれた。
「間もなくです。三日、いえ、早ければ明日にも産まれましょう」
 医師の静かな言葉に、胸がとくんと波打った。
(さな……やっと会えるね)
 その喜びと同時に、切り離せない痛みが胸を刺す。
(……でも黒耀さまには、さなを抱いてもらえない。それを願っては、いけない)
 医師が去ったあと、私は枕元に置いていた芙妃さまの文をそっと開いた。
 紙は何度も読んだせいで手に馴染んでいた。
 けれど読むたびに喉の奥に苦味が広がる。
『翠静宮は、砂々さまが姿を消した朝から大変な騒ぎとなりました』
 文の始まりは過去のことを語るようで、まだその騒乱をまとっていた。
『陛下は普段の英明さをかなぐり捨てて、御心を乱されました。後宮の全域を封鎖し、虫も漏らさない厳戒態勢を敷かれ、今も砂々さまを捜させています。三日経ちましたが、陛下自身もほとんどお眠りになっていらっしゃらない様子です』
 芙妃さまは青ざめた私が見えているように、その事態を淡々と知らせる。
『翠静宮の侍女たちを残らず処罰なさる勢いでしたが、私が正妃の代行として懇願し、ようやく留めました。しかし陛下の御心は誰にも鎮めることができません。触れられない刃のような空気をまとい、砂々さまの手がかりを知らせる者にしか耳をお貸しになりません』
 そう告げてから、芙妃さまは避けられない未来を予期して記していた。
『陛下は、後宮や王宮のみならず、まもなく城下にも兵を動員するでしょう。そうなれば救護院にも手が伸びます。時間は、ございません』
 そこまで書かれて、文は唐突に終わっていた。
『陛下の手の者が目を光らせています。文を送ることができるのはこれが最後です。ごめんなさい。……あなたと御子が無事でありますように』
 筆致は丁寧なのに、震えるような動揺が透けて見えた。
 私は胸に文を抱いて、そっと目を伏せる。
(芙妃さま、ありがとうございます)
 私は震える手で返事を書いた。
『お心遣い、大変嬉しく感謝の言葉もみつかりません。必ずさなを守ります。ご恩は一生忘れません。……子が生まれたら、ここをすぐに離れます』
 返書を芙妃さまの侍女に託すと、不思議なほど胸は静かになった。
 まるで嵐の前の、ひとときの安息のようだった。
 けれど、その夜のことだった。
 下腹を破るような痛みが突然襲ってきた。
「……っ、ひ、うっ……!」
 痛みは波のように繰り返し押し寄せ、息を整える暇もなく、私は寝台の縁にすがった。
 救護院の看護人が声を上げて慌ただしく駆け出す。
「産婆を呼んで! 急いで!」
 私は呼吸を乱しながら、シーツに額を押しつけて耐える。
(……まだ……まだだと思っていたのに……)
 けれどさなは容赦なく出口を叩きはじめる。
 その力強さは、この世界に生まれようとする意志そのものだった。
(でもよかったのかも……しれない。さな、陛下の手の者がやって来る前に……生まれようとしてくれているんだね)
 生まれる前から母親思いの子に、一瞬だけ温かな気持ちを抱く。
 けれど余裕はもう少しもなかった。忙しなく呼吸を繰り返しながら、産婆の到着を待つ。
 産婆はまもなく、夜が漂い始めた帝都の中を駆けつけてくれた。
「砂々さま、しっかり息を……! 吸って、吐いて!」
「……っ、う……ぅ!」
 産婆が腰を押さえ、背をさする。
 体を引き裂くような痛みが断続的に襲って、それは永遠に続くようにも思った。
「がんばって……! 気を強く持って。あなたしか産めないんですよ……!」
 生まれようとするさなの爆発的な力に応えたい、その一心だけだった。
 時に心は痛みに引きずられて、少女のような弱さをこぼしそうになる。
(呼んではいけない……でも……もし黒耀さまが、ここにいたら……)
 そう思った瞬間に胸が痛み、その弱さを振り切るように力をこめた。
 時間の感覚はとうに失われ、ただ暗闇の中でもがくような苦しみに呑まれる。
(さな……がんばってる……。私も、負けない……)
 汗と血と、痛みと苦しみと、押しつぶされそうな使命感で、ただ立ち向かう。
 失いそうな呼吸で大きく息を吸ったとき、産婆の声が鋭く響いた。
「見えてきましたよ、砂々さま……!」
「……っ、は……ぅ!」
 もう言葉は出なかった。視界が白く弾ける。
 泣く声さえ喉は通らなくて、声にならない叫びがこぼれた。
(おいで、出ておいで、さな……!)
 最後の力を振り絞って力をこめる。
……その、一瞬だった。
 何か温かいものが、体から離れていった。
「産まれました! ……あ」
 産婆が歓喜の声を上げて、次の瞬間大きく息を呑む。
 その一瞬の沈黙の意味を、私は震えながら知ることになる。
「……男児、です……!」
 その言葉を、私は薄れゆく意識の端で聞いた。
(……まさか)
 可能性を、少しも考えないわけではなかった。
 でも無意識に考えるのを拒んでいた。実際に今、目の前に突きつけられると、その事実の重みに押しつぶされそうになる。
(陛下に知られたら……他の御子の命が、危ない)
 血の気を失くした私とは裏腹に、無邪気で元気な産声が響く。
 私はその声を聞いて、今目の前にいるのは生まれたばかりのまっさらな命なのだと顔を歪める。
 だから今は、考えまいと思った。皇位という冠など遠い世界のことで、この子とは無関係なのだと信じようとした。
 私はあふれる愛おしさで、その名を呼ぶ。
「……さ、な」
 からからに乾いた喉で、万感の思いをこめてつぶやく。
「よく……来てくれた、ね……」
 それだけ言って、私は静かに目を閉じた。
 落ちていくような暗闇の中、胸の奥で確かに灯がともった。
(あなたが女児でも、男児でも――生まれてきてくれて、ありがとう)
 その想いだけを抱いて、私は意識を手放した。