その名君は破滅的な愛をささやく

 足が思うように動かなくて、もどかしいほどゆっくりとしか進めなかった。
 臨月の体は重たく、息を吸うたびに苦しくて、何度もその場にしゃがみこみそうになった。
 それでも歩みを止めるわけにはいかない。さなを無事産むことができるところまで、行かなければならなかった。
(さな……。どうか、もう少しだけ……)
 お腹を抱きしめるように庇いながら、私は月の光に導かれるように歩き続けた。
 今は正妃さまの代わりに王宮にお住まいで、けれど後宮の争いには距離を置いている第二妃――芙妃《ふき》さまのところへ向かう。
 芙妃さまは優れた人格をお持ちで、深い慈愛の御方だと聞いていた。
 人を陥れず、権勢を求めず、政治にも後宮にも深入りなさらないのは、私がまだ後宮で侍女をしていたときからのことだった。
 暗い回廊を足をひきずって歩き、やがて白い灯りが見えた。
 その温かみに呼び寄せられるように近づいて、私は房室の扉にすがった。
 指先が震えて、声が出なかった。
 とん、とん、と弱い力でも精一杯戸を叩いた。
「どなた……?」
 中から侍女らしい女性の声がして、私は縋るように扉に額を押し当てた。
「……さ……砂々、と申します……。たすけて……ください……」
 侍女がはっと息を呑んで、中に駆けこんでいく気配がした。
 やがて扉が勢いよく開く。
 理知に満ちた面差しの、豊かな黒髪の女性が姿を現した。
「砂々さま……本当に翠静宮の砂々さまですか。これは、一体……」
 芙妃さま自ら私を抱きとめ、青ざめた顔で問いかける。
「このような夜半に、どうして……臨月の大切なお体でしょう? と、とりあえず中へお入りください!」
 抱き留められた瞬間緊張が切れて、私は芙妃さまの胸に顔を伏せた。
 侍女たちと芙妃さまに支えられて房室の中に導かれると、私は座るのもそこそこに口を開く。
「ご無礼をおわびします。でも、私が翠静宮にいたら……誰かが、死んでしまうのです……」
 隣に腰かけた芙妃さまの眉がさっと険しさを帯びる。
「お話しなさい、砂々さま。何があったのです?」
 私は、震える声で必死に言葉を紡いだ。
「私が正妃になったら……ほかのお妃さまの御子が、殺められてしまうかもしれないと聞きました。私が正妃となっては、他のお妃さまの御身も危ない。私が陛下の御子を宿したのは、災いの種でしかない……」
 涙がにじんできて、無理やりにその涙を拭って訴える。
「私も、この腹の子は殺められない。けど、私の命は差し出しますから……どうか、後宮の外で、子を産ませてください……!」
 芙妃さまの目に、驚愕でも蔑みでもない、深い悲しみの色が浮かんだ。
 彼女は静かに、重くうなずいて言う。
「……確かに。あなたの憂いは、いずれ現実となりましょう。この後宮は、表向きの安らぎとは裏腹に、帝位を巡る影が常に渦巻いております。私どもも、じきに決断を迫られるでしょう」
 心臓が早鐘を打つ。
 私だけの妄想ではなかったのだと、芙妃さまに認められることで初めて力を得た。けれどそのことは、絶望の始まりでもあった。
 私は縋るように、芙妃さまの袖をつかんだ。
「お願いします。いますぐ後宮を出たいんです。誰も殺めずに、わが子を……守らせていただけないでしょうか……!」
 芙妃さまはしばらく考え、侍女たちを見やった。
 侍女たちがその意をくみ取ったようにうなずく。芙妃さまは、やがて決意を宿した瞳で私を見つめた。
「私も娘を持つ身。……母の心は、痛いほどわかります」
 そう告げてから、芙妃さまは慎重に言葉を続けた。
「城下に、私が寄付で作った救護院がございます。孤児や貧しき婦人たちを守るための場所です。そこなら……陛下の目を逃れて出産することもできましょう」
「救護院……」
「はい。侍女のひとりにあなたを紛れさせ、まだ夜明けの気配が薄い頃に門を出るよう手配しましょう。あなたのお腹の子は、そこで守られます」
 私はふいにこらえてきた涙があふれて、嗚咽をもらした。
 ここまでしてくれる人が、この後宮にいるなんて思っていなかった。
「ありがとうございます……芙妃さま。このご恩は絶対に、忘れません……」
 芙妃さまは首を横に振って、まだ険しさを残した声音で言う。
「安心なさるのは早い。陛下は、ひどく御心を乱されるでしょう。あなたが消えたのを知られたときどれほどお嘆きになるか、恐ろしい思いがいたします」
 私の瞳をじっとみつめて、芙妃さまは言い聞かせる。
「救護院も、おそらくすぐに見つけられてしまう。そこからどう逃れるかも、考えておかれませ」
「はい……お言葉のとおりに」
 芙妃さまは私の頬に手を添えて、ふいに哀しそうな目で告げる。
「あなたの思いは尊いものです。あなたは自らを犠牲にして、御子だけでなく、後宮の者たちすべてを守ろうとしている。その優しさと慈愛は……本来、正妃が備えるにふさわしいのです」
「芙妃さま……」
「ただあなたは優しすぎる。それもまた、正妃の座につくのは酷に思います」
 芙妃さまは私の肩を優しく叩いて、力づけるように言った。
「さあ、行きなさい。そのお腹の御子にどうか光がありますように。そして……あなた自身も、決して命を打ち捨てることのないように。お体を大切になさってください」
 その言葉を胸に刻んで、私は芙妃さまの侍女たちに囲まれて奥に向かった。
 慌ただしく侍女の身なりを整えて、房室をあとにする。
 救護院へ向かうための、静かで冷たい夜風が頬を撫でた。
 それでも体の中の、小さなぬくもりが何よりの力を与えてくれた。
(さな……もう少しだけ、がんばろうね)
 この子だけは、必ず守る。
 そう強く誓いながら、私はゆっくりと闇の回廊へ歩き出した。