その名君は破滅的な愛をささやく

 秋の終わり、砂々は臨月を迎えていた。
 医官いわく、心の成長は少女へと近づき、幼いながらも自分の体を気遣うことを覚えたという。
 数ヶ月前の、歩き続けて倒れるほどの危うさはもう見られない。
 食事をきちんと摂り、刺繍に根詰めるような無理もせず、腹の子が動いても穏やかにお腹をなでるようになった。
 お腹を見下ろすときの砂々は天女のように優しい表情をしていて、黒耀は見惚れることさえあった。
 けれど一方で、黒耀の目には砂々がひどくふさぎ込んで見えた。
 砂々は医官や侍女にも怯えていたときが嘘のように、周囲にも気遣いを見せている。ただひとりになると、まるで誰にも言えない憂いを隠すように、その表情には陰が下りる。
 砂々は以前よりよく笑うようにもなった。
 けれど、その笑みが無理をしているようにも見えて、黒耀の胸を締め付けた。
「砂々、不安なのか? 心配は何も要らないんだよ。後宮には出産に慣れた医官がたくさんいる。砂々は決してひとりではないのだからね」
 黒耀は砂々の背を撫でて、まだ少し子どもをあやすように優しく言い聞かせる。
「それとも子が生まれた後を心配しているの? 私は生まれる前からさなを愛しているよ。黄金の産着で包むように、大切に大切に育てるからね」
 黒耀の言葉は誇張ではなく、惜しみなく準備をしてさなの誕生を待っていた。後宮の一角には既に生まれた子のためだけに宮が建設されて、百を超えるほどの衣服や装飾品、侍女たちを備えていた。
 砂々はそれを聞いて、とろりと力ない目でうなずく。
「……なんでも、ないの。こくようさま。私、げんきだよ」
 その声は柔らかいのに、触れれば壊れそうだった。
 黒耀は砂々の心の風景を見ることはできなかったが、肌で感じることはあった。
(砂々は心が育ったがゆえに、外気を感じ取っているのでは)
 この翠静宮に外の世界は入らないように手配しているが、それでも砂々に伝わる気配はあるかもしれない。
 砂々は元々繊細な少女だった。幼い心ながら、自分に向けられた感情は敏感に察してしまう。
(……翠静宮を完全に封鎖して、私と砂々だけの世界にしてしまうこともできるが)
 だが、それはせっかく育ち始めた砂々の心を、黒耀の手の中で押しつぶすことになる。
 何より、砂々に無事さなを産んでもらうには、あらゆる手を尽くしたかった。
 砂々の憂いを言葉で聞きだすことは叶わなかったが、黒耀は決意した。
「砂々。今日は私と一緒に出かけよう」
 それが、砂々にとって初めての翠静宮の外への歩みになった。



 黒耀は砂々を抱き上げ、回廊でつながる黒耀自身の私室を通り抜け――その奥にある、小さな音楽堂に向かった。
 白亜の柱と天井で包まれて、心地よく音の反響するその空間には、楽を愛する黒耀の命でたびたび楽師が招かれた。
 その日は王宮の音楽院からやって来た少年たちが、歌を披露することになっていた。
 古くから皇帝に歌を献じる役目を持つ彼らは、声変わり前の澄んだ声を持っている。
 陽光が天窓から差し込む中、天上の世界のように澄んだ少年たちの声が響く。
 砂々は目を細めて、聞き惚れたようにつぶやく。
「……きれいなこえ……」
「砂々が喜ぶなら、いくらでも歌わせよう」
 しばらくすると、砂々は少年たちに釣られるように微笑んだ。
 穏やかな昼下がりにその笑顔はあまりに優しく溶け合っていて、黒耀の胸は熱くなった。
(やはり砂々は光が似合う。砂々には、この世の曇りとは無縁の世界にいてもらいたい……)
 子が無事に生まれたら、しばらくは翠静宮を豪奢な絹糸で包むように隔離してしまおうか。そう夢想するほど、砂々への愛おしさが後から後からあふれてくるのだった。
 だが、外の世界はその平穏にふいに小石を投げかけた。
 歌が終わり、少年たちは皇帝からのお言葉を授かった後、砂々からも賛辞を受け取ることになった。砂々は壇上から声を響かせるほど体力がなかったために、少年たちを近くまで呼び寄せた。
 そうして砂々の膝元に侍るように近寄ったひとりの少年が、事件を起こした。
 少年はふいに砂々の左手を取り――その指から、吉祥鳥の指輪をそっと抜き取った。
「……これは……正妃さまのもの……」
 少年の顔は青ざめ、切羽詰まっていた。
 その小さな拳の中で、指輪が震えていた。
 砂々ははっと息を呑んだが、それに凍るような声を投げかけたのは黒耀だった。
「何をしている」
 黒耀の声は一瞬で為政者の色を帯びる。控えていた侍従たちや侍女たちの空気も凍りついた。
「そなた、正妃の娘の侍従だな。正妃にそそのかれたか?」
 淡々と追及した黒耀に、すでに制止の声をかけられる者はいない。
(砂々の指にはめられた時点で、それは皇帝の唯一の妻である印だ)
 それを奪う行為は許されざる冒涜に当たる。
「――腕を切り落とせ」
 一分の慈悲も消した黒耀の声に、少年は震え上がり侍従たちも動揺し、殺気が室内を満たす。
 砂々は驚きのあまり目を見開いた。
 しかしその次の瞬間、砂々はそっと首を横に振った。
「……ううん」
 砂々は柔らかい声音で言った。
「その指輪は……あげたの」
「砂々?」
「お歌が、じょうずだったから……私が、あげたの。私、わるい子……?」
 そのあどけない声にこもっていた想いに、黒耀ははっきりと気づいた。
(これは、砂々の嘘だ)
 砂々の心は、指輪の意味を理解しはじめている。正妃の証であることも、誰かのものになってはならないことも、わかっている。
 それでも砂々は、少年の罪を小さくするために幼く振る舞った。
 黒耀は深く息を吐いた。
(……本当に、優しい子だ。砂々の優しさが、私をかろうじて暴君に落ちずにしてくれる)
 黒耀は微笑んで砂々の手を取った。
「……わるい子じゃない。砂々は、いつだってとてもいい子だ」
 黒耀は殺気を収めて、砂々の薬指を愛おしそうになでる。
 周囲がざわめく中、黒耀は続ける。
「その指輪はくれてやれ。砂々には――もっと美しいものを作らせよう」
 少年は呆然と涙をにじませ、深々と頭を下げて退出した。
 黒耀は、砂々の細い肩をそっと抱いて髪に軽く口づけた。
(私の宝物。……本当は、誰の目にも二度と触れさせたくない)
 誇りとも、狂気とも区別のつかない熱が、黒耀の胸で疼いていた。