その名君は破滅的な愛をささやく

 最近、こわい夢を見ることが減って、心が楽になってきた。
 もし夢を見ても、起きたときにこくようさまが毎日そばにいてくれるから、大丈夫だった。
 前よりも食べられるようになって、庭を歩くと心も晴れる。
 医官さまにも「御子のためには歩かれるのがよいでしょう」と言われたから、私は頑張ろうと思った。
 ……でも、気持ちはがんばりたいのに、体はまだ思うように動かない。
「はぁ、はぁ……っ」
 庭の向こうの橘の下まで行こうとしたら、足ががくんとして、世界が暗くなった。
 気がつくと長椅子に横になっていて、こくようさまが苦しそうにのぞきこんでいた。
「砂々、無理をしないで。ついこの前まで寝込んでいたんだ。少しずつでいいんだよ」
「でも……さなに、元気でいてほしくて」
「さなは無事に生まれてくる。私がそうさせるから、何も心配しなくていい」
 そう言われて抱きしめられたとき、胸がじんわり熱くなった。
 こくようさまの腕の中はあたたかくて、泣きたくなるほど安心できる。
 床につくことが多い私は、せめてさなに何かしてあげたくて、縫い物を休まず続けた。
 でも、針を持つ手が震えるほど疲れても、止められなかった。
「……砂々、砂々。食事も摂っていないと聞いた。気分が悪いの?」
 夜が更けてきた頃にこくようさまが来て、心配そうに問いかける。
 私は食事も忘れていたことに気づいて、ふるふると首を横に振る。
「だいじょうぶ……。さなに、服をたくさん……作ってあげたくて……」
 こくようさまは私を膝の上に抱いて、優しい声で叱る。
「砂々。君が弱ってしまうのが、さなは一番かなしいよ。私もだ」
 私の頭を胸に押しつけると、こくようさまはため息をついて、そっと髪をすいてくれた。
 こくようさまが触れてくれると、小さい子どもみたいな気持ちになる。
 でも、私はお母様だから。さなをちゃんと、産んであげたいから。
 ――その気持ちが、ある日、揺らいでしまった。


 その日、私は縫い物の糸を変えようと思って部屋を出た。
 ふと回廊の陰から押し殺したような泣き声が聞こえて、顔を上げる。
「どうしたの?」
 声をかけると、そこにいた侍女は驚いて目を丸くして、それから涙を拭いた。
「失礼いたしました……」
「私は気にしないで。何かあったの?」
「その……幼い頃からの友が心配で……」
「お友だち……?」
 侍女はうつむいて、小さく頷いた。
「はい。あの子は……陛下の、ほかのお妃さまの侍女をしております」
 お妃という言葉の意味を、私はいつか医官さまから聞いて知っていた。
 ……こくようさまの奥さま。奥さまは、大切な人のこと。
 こくようさまには、大切にしている女性がいる。
 そう思うとどうしてか、胸がきゅうっと痛くなった。
「お妃さまは……だいじ、だね……」
「い、いえ、陛下のお心は……。ですが、そのお妃さまは皇子をお一人もうけており……」
 皇子という言葉も、医官さまが話していて私は知っていた。ゆくゆくは国を継ぐ、大切な子だと聞いた。
 こくようさまには、大切な人がたくさんいる。それはいいことのはずなのに、私の心はしゅんとしぼんだ。
 侍女は顔を伏せて、震える声で続けた。
「砂々さまが正妃になられれば、陛下は後の皇位のために……その皇子を、殺めてしまわれるかもしれないと……彼女は怯えております」
 あやめるという言葉は、私の心を音を立ててひっかいた。
 もう二度と目を開けないこと。ごはんを食べることも、お話もできなくなること。
 ……こくようさまが、子どもをあやめる?
 こくようさまの優しい手と、柔らかい声と、抱きしめてくれる腕が、一瞬で遠いものに感じられた。
「……そんなこと……あるの……?」
「わ、わかりませぬ……! ですが、後宮はそういう場所にございますゆえ……」
 私は震える指で、自分のお腹を押さえた。
(もし……さなが、あやめ……られたら)
 瞬間、息ができなくなった。
(私……とんでもない……こと……)
 すべてが真っ暗になって、私はそのままうずくまって倒れた。



 遠くで、切羽詰まった声がした。
 砂々、砂々と、繰り返し私を呼んでいる。
 目を開けると、こくようさまが寝台のそばにいて、私の手を握っていた。
 その顔は心配で満ちていて、私を見下ろす目はどこまでも優しさにあふれていた。
「また、さなのために歩きすぎてしまったのだな。砂々はなんて優しい母親だろう」
 私はとっさに、ちがうのと言おうとした。
(きっとそのお妃さまも……歩いたの。げんきに、うまれてほしくて……)
 喉がひゅっと鳴って、声が出なかった。
 こくようさまの手が、私の額を撫でる。その愛おしむ指先が、今は私を苦しめる。
「でもね、砂々……誰より君に元気でいてほしい。さなは私にゆだねてくれ。私には、砂々だけなのだ……」
 ……私だけ、じゃない。
 私はその言葉にずきんと痛みを感じて、目をそらした。
 こくようさまを見つめると、胸が張り裂けそうだった。泣き出したいほど罪悪感が溢れる。
(もし、こくようさまが……さなのために、誰かを殺める、ことがあったら……)
「砂々?」
 私は震える手で、お腹をなでていた。
 ここにいるのは、自分の命よりも大事な子。
 ……でも……ほかのお妃さまにとっての「さな」だって、大事ではないの?
「どうした、砂々……。疲れた? 気分が悪い?」
 こくようさまが私の頭をそっと抱いて、優しく言葉を引き出そうとする。
 私は泣くこともできず、ただ冷たい水を浴びたように、がたがたと震え出していた。