砂々の人形を池に投げ捨てたあの日から、二日が過ぎた。
怜泉は、以来ずっと重苦しい罪悪感を抱え続けていた。
後宮に近づくこともできず、政務の場でも気が散り、書に向かっても心が動かなかった。
「さな、しんじゃう」と慟哭した砂々の姿が、目を閉じればすぐに思い出されてならなかった。
夜も深くなった頃、怜泉は寝所で灯りも落とさぬまま悩みに沈んでいた。そこに侍従が駆け込んできて、怯えたように告げる。
「陛下がお呼びです。すぐに余の房室に参ぜよとのことにございます」
怜泉は指先から凍るような思いでそれを聞いていた。
(……ついに、知られたか)
覚悟を固めて、怜泉は父帝の居室へ向かった。
黒耀帝の居室は華美を好まず、分厚い書に囲まれた静謐の空間だった。
しかし今夜は、侍従が張り詰めた面立ちで控え、煌々と灯りがともされていた。
怜泉が足を踏み入れると、父帝は机に手をついて立ちすくんでいた。
衣は乱れこそしていないが、目の下に影があり、眠っていないのは一目でわかった。
ただ……瞳だけは異様に冴え、ぎらつくような光を放っていた。
「来たか、怜泉」
声は底知れず低く、押し殺したように聞こえた。
「お呼びと伺い……」
怜泉が言い終える前に、黒耀の鋭い視線が怜泉を射抜いた。
「砂々の熱が下がらない。原因は、身に覚えがあるはずだ」
怜泉の心臓が、どくんと大きく脈打った。
やはり気づかれていたのだ。弁明をするにも、黒耀の放つ気迫は禍々しいものがあった。
「問いに答えよ」
逃れられないと察知して、怜泉はぎゅっと拳を握りしめて言った。
「……砂々さまの抱いていた人形を、池に投げました」
黒耀の目に、ぎらりと炎が宿った。
「なぜ」
怜泉は必死で言葉を探すと、恐れを抑えて訴える。
「砂々さまは、あの人形を『自分を食べてしまうもの』と錯覚しておられました。私は、砂々さまをお救いしたく……!」
黒耀は一歩、怜泉に近づいた。
その目は怒りを越え、狂気に近い守護の色を帯びていた。
「……あの子には、あれが最後の拠り所だった。お前はそれを奪った。砂々を殺めるつもりか?」
黒耀の容赦ない追及には、裁きの刃に貫かれるような痛みがあった。
だが、怜泉も引くわけにはいかなかった。今を見過ごせば、砂々は本当に死んでしまう。
「父上……!」
怜泉は震える声を抑えつけながら言った。
「……咎は受けます。ですが無礼を承知で申し上げます。あのように弱った少女に出産を強いるとは……正気の沙汰とは思えません!」
黒耀の眉がぴくりと動いた。
「これから永く寄り添っていかれれば、また御子は授かります……! ですが、今は……!」
それ以上は言葉にできなかった。怜泉は喉を詰まらせて、爆発しそうな思いと向き合う。
しかし黒耀は暗い目をして、ぽつりと告げる。
「……今、さなが必要なのだ」
顔を上げた怜泉に、黒耀は苦しみをかみしめるように続ける。
「私とて、すぐに人形を作り直して砂々に抱かせた。私にとって大切なのは砂々だけだ。たとえ砂々との子であっても……砂々を失うくらいなら、あきらめる覚悟はあった」
黒耀はそこで深く嘆息した。
そこにあったのは初めて見る表情だった。父としての顔でも、帝としての顔でもない。
「だが砂々は、『さなは死んじゃった』と繰り返すばかりだ。新しい人形には一度も触れようとせず……孤独でうつろな目をして……弱ってゆく……」
怜泉の胸に重い杭が打たれたようだった。
(砂々さま……)
謝りたいと、今心の底から思った。
時を戻せるのなら、あのときの自分に今の父の声を聞かせてやりたい。
父は決して、情欲のままに小さな少女を押しつぶそうとしているのではなく……労わり、切ないほどの思いで妻の心を守ろうとしている。
怜泉は覚悟をもって父を見上げる。
「父上、私を罰することでお気持ちが収まるのであれば……」
「言うな。そなたが知るより、私は暴君なのだ」
黒耀の声は冷えていたのに、震えてもいた。
「そなたを殺めて砂々が助かるのなら、私は迷わない。砂々のためなら、何百人、何千人殺めようと厭わぬ男だ」
怜泉は息を止めてその言葉に聞き入る。
父帝は、怜泉の生をひとつの石のように扱っているわけではなかった。
本気で、砂々一人のために世界の律から外れる覚悟さえしている。
「……だが」
黒耀は、手を震わせながら顔を覆った。
「砂々は……何も求めない。生きようとさえ、してくれない……」
怜泉は目を伏せて、自分の愚かさに立ちつくした。
私のせいだと深い悔恨に襲われたとき、慌ただしい足音と共に扉が勢いよく開かれた。
「失礼いたします……! 陛下!」
その侍女には見覚えがあった。翠静宮で砂々に仕えていた侍女だった。
「……何があった。申せ」
黒耀の声が鋭く変わる。
侍女は息を整えぬまま、喜びに震えた声で言った。
「砂々さまが……! 砂々さまがお目覚めになり、陛下をお呼びになっておられます!」
黒耀ははっと息を呑み、続きを切望するように唇を震えさせた。
「錯乱が……治まっておられます。人形には触れませんが……お腹を愛おしそうに撫でて……『さな、おとうさまにも撫でてもらいたいね』と、微笑んでおられました……!」
怜泉はそれを聞いて、直感的に宿った考えがあった。
(……人形が……砂々さまの狂気の身代わりとなって、沈んだ?)
人形の「さな」が死んだことで……本当の「さな」を愛する心が、砂々の中でようやく結ばれたのではないか。
「……父上」
怜泉は震える唇でそっと告げる。
「砂々さまは……人形の死で、ようやくお腹の子をさなと……認められたのかもしれません」
父帝の黒い瞳が怜泉を見た。
深い怒りの底に、わずかな光が揺れている。
「……そのことで私が許されるわけでないのは承知しています。どのような咎も、受けます」
怜泉はまっすぐに頭を下げた。
黒耀は息をゆっくりと吸って、目を閉じた。
「咎は追って、与える」
「は」
「ただ、今はすぐに……砂々を抱きしめてやりたい」
その声は、皇帝のものではなく、ただひとりを狂おしく愛する男の声だった。
黒耀は振り返らず、足早に居室を出ていった。
怜泉は残された罪と痛みをかみしめて、ただ父の背が闇に溶けていくのを見送った。
怜泉は、以来ずっと重苦しい罪悪感を抱え続けていた。
後宮に近づくこともできず、政務の場でも気が散り、書に向かっても心が動かなかった。
「さな、しんじゃう」と慟哭した砂々の姿が、目を閉じればすぐに思い出されてならなかった。
夜も深くなった頃、怜泉は寝所で灯りも落とさぬまま悩みに沈んでいた。そこに侍従が駆け込んできて、怯えたように告げる。
「陛下がお呼びです。すぐに余の房室に参ぜよとのことにございます」
怜泉は指先から凍るような思いでそれを聞いていた。
(……ついに、知られたか)
覚悟を固めて、怜泉は父帝の居室へ向かった。
黒耀帝の居室は華美を好まず、分厚い書に囲まれた静謐の空間だった。
しかし今夜は、侍従が張り詰めた面立ちで控え、煌々と灯りがともされていた。
怜泉が足を踏み入れると、父帝は机に手をついて立ちすくんでいた。
衣は乱れこそしていないが、目の下に影があり、眠っていないのは一目でわかった。
ただ……瞳だけは異様に冴え、ぎらつくような光を放っていた。
「来たか、怜泉」
声は底知れず低く、押し殺したように聞こえた。
「お呼びと伺い……」
怜泉が言い終える前に、黒耀の鋭い視線が怜泉を射抜いた。
「砂々の熱が下がらない。原因は、身に覚えがあるはずだ」
怜泉の心臓が、どくんと大きく脈打った。
やはり気づかれていたのだ。弁明をするにも、黒耀の放つ気迫は禍々しいものがあった。
「問いに答えよ」
逃れられないと察知して、怜泉はぎゅっと拳を握りしめて言った。
「……砂々さまの抱いていた人形を、池に投げました」
黒耀の目に、ぎらりと炎が宿った。
「なぜ」
怜泉は必死で言葉を探すと、恐れを抑えて訴える。
「砂々さまは、あの人形を『自分を食べてしまうもの』と錯覚しておられました。私は、砂々さまをお救いしたく……!」
黒耀は一歩、怜泉に近づいた。
その目は怒りを越え、狂気に近い守護の色を帯びていた。
「……あの子には、あれが最後の拠り所だった。お前はそれを奪った。砂々を殺めるつもりか?」
黒耀の容赦ない追及には、裁きの刃に貫かれるような痛みがあった。
だが、怜泉も引くわけにはいかなかった。今を見過ごせば、砂々は本当に死んでしまう。
「父上……!」
怜泉は震える声を抑えつけながら言った。
「……咎は受けます。ですが無礼を承知で申し上げます。あのように弱った少女に出産を強いるとは……正気の沙汰とは思えません!」
黒耀の眉がぴくりと動いた。
「これから永く寄り添っていかれれば、また御子は授かります……! ですが、今は……!」
それ以上は言葉にできなかった。怜泉は喉を詰まらせて、爆発しそうな思いと向き合う。
しかし黒耀は暗い目をして、ぽつりと告げる。
「……今、さなが必要なのだ」
顔を上げた怜泉に、黒耀は苦しみをかみしめるように続ける。
「私とて、すぐに人形を作り直して砂々に抱かせた。私にとって大切なのは砂々だけだ。たとえ砂々との子であっても……砂々を失うくらいなら、あきらめる覚悟はあった」
黒耀はそこで深く嘆息した。
そこにあったのは初めて見る表情だった。父としての顔でも、帝としての顔でもない。
「だが砂々は、『さなは死んじゃった』と繰り返すばかりだ。新しい人形には一度も触れようとせず……孤独でうつろな目をして……弱ってゆく……」
怜泉の胸に重い杭が打たれたようだった。
(砂々さま……)
謝りたいと、今心の底から思った。
時を戻せるのなら、あのときの自分に今の父の声を聞かせてやりたい。
父は決して、情欲のままに小さな少女を押しつぶそうとしているのではなく……労わり、切ないほどの思いで妻の心を守ろうとしている。
怜泉は覚悟をもって父を見上げる。
「父上、私を罰することでお気持ちが収まるのであれば……」
「言うな。そなたが知るより、私は暴君なのだ」
黒耀の声は冷えていたのに、震えてもいた。
「そなたを殺めて砂々が助かるのなら、私は迷わない。砂々のためなら、何百人、何千人殺めようと厭わぬ男だ」
怜泉は息を止めてその言葉に聞き入る。
父帝は、怜泉の生をひとつの石のように扱っているわけではなかった。
本気で、砂々一人のために世界の律から外れる覚悟さえしている。
「……だが」
黒耀は、手を震わせながら顔を覆った。
「砂々は……何も求めない。生きようとさえ、してくれない……」
怜泉は目を伏せて、自分の愚かさに立ちつくした。
私のせいだと深い悔恨に襲われたとき、慌ただしい足音と共に扉が勢いよく開かれた。
「失礼いたします……! 陛下!」
その侍女には見覚えがあった。翠静宮で砂々に仕えていた侍女だった。
「……何があった。申せ」
黒耀の声が鋭く変わる。
侍女は息を整えぬまま、喜びに震えた声で言った。
「砂々さまが……! 砂々さまがお目覚めになり、陛下をお呼びになっておられます!」
黒耀ははっと息を呑み、続きを切望するように唇を震えさせた。
「錯乱が……治まっておられます。人形には触れませんが……お腹を愛おしそうに撫でて……『さな、おとうさまにも撫でてもらいたいね』と、微笑んでおられました……!」
怜泉はそれを聞いて、直感的に宿った考えがあった。
(……人形が……砂々さまの狂気の身代わりとなって、沈んだ?)
人形の「さな」が死んだことで……本当の「さな」を愛する心が、砂々の中でようやく結ばれたのではないか。
「……父上」
怜泉は震える唇でそっと告げる。
「砂々さまは……人形の死で、ようやくお腹の子をさなと……認められたのかもしれません」
父帝の黒い瞳が怜泉を見た。
深い怒りの底に、わずかな光が揺れている。
「……そのことで私が許されるわけでないのは承知しています。どのような咎も、受けます」
怜泉はまっすぐに頭を下げた。
黒耀は息をゆっくりと吸って、目を閉じた。
「咎は追って、与える」
「は」
「ただ、今はすぐに……砂々を抱きしめてやりたい」
その声は、皇帝のものではなく、ただひとりを狂おしく愛する男の声だった。
黒耀は振り返らず、足早に居室を出ていった。
怜泉は残された罪と痛みをかみしめて、ただ父の背が闇に溶けていくのを見送った。



