怜泉は、あの日白い宮で見た童女のような妃が心を離れなかった。
父帝の寵愛がそれだけで知れるほど、後宮のどこよりも華やかな宮殿におわしたのに……砂々は天女のように儚くて、今にも消えてしまいそうだった。
(あの方に近づけば……父上は決して私を許すまい)
そうわかっているのに、胸はざわついたままだった。
砂々は怜泉の心の柔らかな場所を、そのあどけない手で触れてしまったからだった。
怜泉は再び、砂々に近づくために医局へ向かった。
父帝の寵姫に想いを寄せるなど、皇太子として正気とは思えない。
けれど冷静に自分を留められないほど、もう思いは走り出していた。
医局にやって来たのは、ただ砂々の容態が知りたいからだったが、それは思わぬ事実を怜泉に与えてしまった。
何人もの医官が議論し、書き連ねた記録に、砂々の名があった。
「……これは」
怜泉はそれに目を走らせて、さっと顔色を変えた。
『つわり重度。食事摂取困難。
胎児の成長は早いが、母体の衰弱は著しく進行。
精神的錯乱あり。毒の後遺症も重く、正常な判断が困難。』
そして最後の一文は、怜泉の胸を鞭のように締め上げた。
『出産は母子共に危険。皇帝陛下には報告済。産ませよと命じられる』
怜泉は氷水を浴びたような思いで立ちすくむ。
「……命が、危ない……?」
怜泉は拳を震わせて、信じられないとつぶやく。
(こんな状態で……父上は出産を強いると……?)
砂々の錯乱は日に日に増しているという噂もある。
医官の記録と、砂々のその噂が怜泉の中で重なる。
(……あの人は、助けを求めている)
そう思ったら、怜泉はもう止まれなかった。
翌日に、怜泉は再び見習い医官の装いで翠静宮に潜り込んだ。
回廊を抜けた先、翠静宮の庭は極楽のように白い陽に包まれていた。
「あ……」
……ただその光の中で長椅子に身を沈めている少女は、重い病に憑かれて見えた。
元々華奢な少女であったが、以前よりもさらに痩せて見えた。頬はこけ、手首は折れそうに細く、衣はゆるく身体を覆うほど大きく感じる。
胸元の布が揺れるたび、砂々の呼吸が苦しげに漏れた。
怜泉の胸がみしりと軋む。
(……こんな状態で、子は、産めない……)
医官の診断を聞くまでもなく、それは怜泉に確信を抱かせた。
近くにいた侍女が席を外した隙に、怜泉はそっと歩み寄って声をかける。
「砂々さま……ご気分はいかがですか?」
砂々は顔を上げて、恐れる目で怜泉を見つめた。
少し怯えてはいるが、敵意はない。
怜泉の若い医官姿を、よくやって来る人々の一人と錯覚したのだろう。
「おくすりのひと……?」
「ええ、そうです。体の具合を見に参りました。近づいてもよろしいですか?」
そう言ってひざまずくと、砂々はこくりとうなずいた。
怜泉が膝で近寄ると、花の香りがした。そういうところまで、病にあっても天女のような人だと思った。
砂々は弱々しい笑みを浮かべ、腕に抱いた人形に頬を寄せる。
「……さな、ね……。もうすぐ、ささを……たべちゃうの……」
怜泉は息を呑んで、慎重に問い返す。
「……食べる?」
「うん……」
砂々の笑顔は、涙をこらえているかのような、儚く力ない表情だった。
「でも……いいの。さなは、ささが……おかあさま、だから……」
怜泉の胸に、鋭い痛みが走った。
恐れが背を覆うように迫って来て、ごくりと息を呑む。
(このままでは、出産を待たずに……儚くなる)
一瞬、怜泉は自分が皇太子であることを忘れた。
目の前の弱い少女を救えないのなら、男として生まれた意味さえない気がした。
皇太子の自覚はすぐに戻ってきた。ただ、同時に危機に立ち向かう決意が芽生えていた。
「……砂々さま、逃げましょう」
「え……?」
怜泉はそっと砂々の手を取った。
「ここにいたら子に殺されてしまう。危険なんです。この宮も、この妊娠も……すべて」
砂々は怯えて、椅子の上で後ずさる。
「や……おこらないで……。さな、いいこ。わるいこと、しない……!」
「すでにあなたをそんなにも苦しめた! あなたには、害でしかない……!」
怜泉は砂々の腕から、さっと布人形を奪い取った。
「元のあなたに戻るためには――これは邪魔なんです!」
怜泉は全身の力を込め、人形を池へ投げた。
白い布が弧を描き、淡い陽光を浴びて……音もなく、水面に沈んでいく。
「……あ」
砂々の声は、風にさらわれるようにかすれた。
次の瞬間、砂々は悲痛な泣き声を上げる。
「あ……あ……。さな、さな……ぁっ」
砂々はふらつく足取りで池に駆け寄って……濡れるのも構わず、中に入って行こうとした。
「砂々さま!!」
悲鳴を聞きつけたのか、宮から侍女たちが駆け付ける。必死に砂々を抱き留める。
砂々はその腕を解こうともがながら、引き裂かれたように泣き続けた。
「やめて、いかせて……! さな、しんじゃう……しんじゃう……っ」
その絶望に満ちたうめき声に、怜泉の胸は潰れそうだった。
けれどたとえ後悔したとしても、もう戻れない。
侍女たちの視線が怜泉に向いた瞬間、怜泉は顔を伏せて、そのまま翠静宮を離れた。
逃げる背に、砂々の泣き声が刺さる。
「……ごめ、なさい」
最後の一言はあまりに細く、唐突に途切れた。
「急ぎ床を。気を失われています……」
怜泉は遠くから侍女たちの声を聞いた。振り返ることはできなかった。
できるのはただ、胸に垂れこめる痛みに耐えることだけだった。
(……自分は……何をしてしまった……?)
初めての恋が痛みと罪に変わっていく。
怜泉はひとり、白い宮をあとにした。
父帝の寵愛がそれだけで知れるほど、後宮のどこよりも華やかな宮殿におわしたのに……砂々は天女のように儚くて、今にも消えてしまいそうだった。
(あの方に近づけば……父上は決して私を許すまい)
そうわかっているのに、胸はざわついたままだった。
砂々は怜泉の心の柔らかな場所を、そのあどけない手で触れてしまったからだった。
怜泉は再び、砂々に近づくために医局へ向かった。
父帝の寵姫に想いを寄せるなど、皇太子として正気とは思えない。
けれど冷静に自分を留められないほど、もう思いは走り出していた。
医局にやって来たのは、ただ砂々の容態が知りたいからだったが、それは思わぬ事実を怜泉に与えてしまった。
何人もの医官が議論し、書き連ねた記録に、砂々の名があった。
「……これは」
怜泉はそれに目を走らせて、さっと顔色を変えた。
『つわり重度。食事摂取困難。
胎児の成長は早いが、母体の衰弱は著しく進行。
精神的錯乱あり。毒の後遺症も重く、正常な判断が困難。』
そして最後の一文は、怜泉の胸を鞭のように締め上げた。
『出産は母子共に危険。皇帝陛下には報告済。産ませよと命じられる』
怜泉は氷水を浴びたような思いで立ちすくむ。
「……命が、危ない……?」
怜泉は拳を震わせて、信じられないとつぶやく。
(こんな状態で……父上は出産を強いると……?)
砂々の錯乱は日に日に増しているという噂もある。
医官の記録と、砂々のその噂が怜泉の中で重なる。
(……あの人は、助けを求めている)
そう思ったら、怜泉はもう止まれなかった。
翌日に、怜泉は再び見習い医官の装いで翠静宮に潜り込んだ。
回廊を抜けた先、翠静宮の庭は極楽のように白い陽に包まれていた。
「あ……」
……ただその光の中で長椅子に身を沈めている少女は、重い病に憑かれて見えた。
元々華奢な少女であったが、以前よりもさらに痩せて見えた。頬はこけ、手首は折れそうに細く、衣はゆるく身体を覆うほど大きく感じる。
胸元の布が揺れるたび、砂々の呼吸が苦しげに漏れた。
怜泉の胸がみしりと軋む。
(……こんな状態で、子は、産めない……)
医官の診断を聞くまでもなく、それは怜泉に確信を抱かせた。
近くにいた侍女が席を外した隙に、怜泉はそっと歩み寄って声をかける。
「砂々さま……ご気分はいかがですか?」
砂々は顔を上げて、恐れる目で怜泉を見つめた。
少し怯えてはいるが、敵意はない。
怜泉の若い医官姿を、よくやって来る人々の一人と錯覚したのだろう。
「おくすりのひと……?」
「ええ、そうです。体の具合を見に参りました。近づいてもよろしいですか?」
そう言ってひざまずくと、砂々はこくりとうなずいた。
怜泉が膝で近寄ると、花の香りがした。そういうところまで、病にあっても天女のような人だと思った。
砂々は弱々しい笑みを浮かべ、腕に抱いた人形に頬を寄せる。
「……さな、ね……。もうすぐ、ささを……たべちゃうの……」
怜泉は息を呑んで、慎重に問い返す。
「……食べる?」
「うん……」
砂々の笑顔は、涙をこらえているかのような、儚く力ない表情だった。
「でも……いいの。さなは、ささが……おかあさま、だから……」
怜泉の胸に、鋭い痛みが走った。
恐れが背を覆うように迫って来て、ごくりと息を呑む。
(このままでは、出産を待たずに……儚くなる)
一瞬、怜泉は自分が皇太子であることを忘れた。
目の前の弱い少女を救えないのなら、男として生まれた意味さえない気がした。
皇太子の自覚はすぐに戻ってきた。ただ、同時に危機に立ち向かう決意が芽生えていた。
「……砂々さま、逃げましょう」
「え……?」
怜泉はそっと砂々の手を取った。
「ここにいたら子に殺されてしまう。危険なんです。この宮も、この妊娠も……すべて」
砂々は怯えて、椅子の上で後ずさる。
「や……おこらないで……。さな、いいこ。わるいこと、しない……!」
「すでにあなたをそんなにも苦しめた! あなたには、害でしかない……!」
怜泉は砂々の腕から、さっと布人形を奪い取った。
「元のあなたに戻るためには――これは邪魔なんです!」
怜泉は全身の力を込め、人形を池へ投げた。
白い布が弧を描き、淡い陽光を浴びて……音もなく、水面に沈んでいく。
「……あ」
砂々の声は、風にさらわれるようにかすれた。
次の瞬間、砂々は悲痛な泣き声を上げる。
「あ……あ……。さな、さな……ぁっ」
砂々はふらつく足取りで池に駆け寄って……濡れるのも構わず、中に入って行こうとした。
「砂々さま!!」
悲鳴を聞きつけたのか、宮から侍女たちが駆け付ける。必死に砂々を抱き留める。
砂々はその腕を解こうともがながら、引き裂かれたように泣き続けた。
「やめて、いかせて……! さな、しんじゃう……しんじゃう……っ」
その絶望に満ちたうめき声に、怜泉の胸は潰れそうだった。
けれどたとえ後悔したとしても、もう戻れない。
侍女たちの視線が怜泉に向いた瞬間、怜泉は顔を伏せて、そのまま翠静宮を離れた。
逃げる背に、砂々の泣き声が刺さる。
「……ごめ、なさい」
最後の一言はあまりに細く、唐突に途切れた。
「急ぎ床を。気を失われています……」
怜泉は遠くから侍女たちの声を聞いた。振り返ることはできなかった。
できるのはただ、胸に垂れこめる痛みに耐えることだけだった。
(……自分は……何をしてしまった……?)
初めての恋が痛みと罪に変わっていく。
怜泉はひとり、白い宮をあとにした。



