その名君は破滅的な愛をささやく

 黒耀帝は、毒の後遺症で幼い心に戻った妃を偏愛し、政務の場を除けば片時も彼女の側を離れないと、もはや王宮の隅々にまで聞こえていた。
 それはもちろん、若き皇太子の耳にも届いていた。
 皇太子の怜泉(れいせん)は、十五歳。
 黒耀帝が乳母の子ともうけた最初の皇子であり、幼い頃から英邁と称されてきた少年だった。
 優美な面差しに、理知の宿る深い漆黒の瞳を持っていて、その姿は父帝に生き写しだと言われていた。
 母の身分が低かったため正妃の養子として宮に上がり、幼少より帝王学を叩き込まれてきた。
(父上は、変わってしまわれたのか……それとも、今まで宝物を隠すように手の内に入れていただけなのか)
 父帝は、政務ではなお名君として燦然と宮廷に君臨している。
 しかし一歩後宮に戻れば、寵愛する妃に狂おしいほど執着しているという。
 怜泉の胸には、どうしようもない猜疑と焦燥が渦巻いていた。
(……砂々妃が、ご懐妊か。男児を生めば、臣下たちは皇位の行方を危ぶむだろう。私も、いずれは……)
 怜泉はふっと視線を伏せた。
 自分の未来を危うくするかもしれない相手――義母のように、危害を加えてでも退けなければならない存在、それが砂々であるはずだった。
 ただ怜泉が英邁と言われるゆえんは、つらい事実であっても直視し、真実を見定めようとする力強さにあった。
 砂々は毒に侵され、まるで童女のようになってしまったと聞いた。
 義母である正妃の暴虐が日ごとに増すのを見て、怜泉は失望していた。
 同じ毒を受けながら、別人のように優しく扱われている彼女は、本当に帝国を揺るがすような恐ろしい存在なのだろうか?
(……この目で確かめなければ)
 怜泉は皇太子としての使命感を胸に、心を決めて動き出した。

 
 怜泉は医務庁に通う見習い医官の衣を借り、身分を隠して翠静宮へ向かった。
 医官の往来は多く、侍衛の目も緩んでいたため、若い医官を装えば宮に入ることは難しくなかった。
 黒耀帝はその日、政務のため王宮に戻っていると聞いていた。
 怜泉は王宮から続く薄暗い回廊を歩き……ふいに広がった光景に、驚いていた。
(白く華奢な……吉祥鳥のような宮殿だ)
 そこは父帝が愛し妃のために、壁の色も宮に敷くじゅうたんも、庭の花々まで彼女に似合うように整えさせたと言われている。
 それは噂ではなく真実だったのだ。白亜の壁に琥珀色のじゅうたんが敷かれ、気品あふれる白梅が咲き誇っている。
 王宮からうかがったときは鉄柵に覆われているというのに、ひとたび足を踏み入れればどうか。……そこは天人の里のように、空気さえ甘く感じられた。
 怜泉の心に、猜疑心と共に暗い思念が落ちる。
(このような輝かしい宮に住まう妃だ。自らの栄華に酔い、義母のように暴虐になってもおかしくあるまい……)
 怜泉は、いっそ引き返したいとさえ考えた。それほど幼い日から、栄華ゆえに醜く歪んでいった義母の姿が焼き付いていた。
 少年らしい潔癖さと、それに似合わないほどの大人びた諦念。怜泉はその両方を抱えていて、小さな憂いがその面差しを端正に見せていた。
 そのとき庭の方から、風に揺れる薄絹の衣の音がした。
 怜泉はそっと視線を向けて……そして息を失った。
 そこにいたのは、白い陽光に溶けるような小さな影だった。
 童女のように布人形を胸に抱き、庭の木陰で、ひとりで風を受けながら首をかしげている。
 その姿は折れそうなほど華奢で、青白い頬をしているのに……天に愛されたように、髪もまつげさえも、輝いて見えた。
「……さな、きょうは、あったかいね……」
 ふわりとこぼれた声は、ひどく幼い。
 けれどその横顔は、この世のものとは思えぬほど儚く、透明だった。
 怜泉は完全に言葉を失った。
 そこにいたのは、噂に聞くような狂気の妃ではなかった。
 むしろ天女のようで……見る者の心を優しく沈め、穏やかに狂わせるような美しい少女だった。
(……暴虐な、妃?)
 一度はそう考えた自分を嗤いたくなる。
 軽やかな風が吹き、砂々の髪が揺れた。
 白い首筋、かすかに微笑む唇、小鳥のように小さな肩を見ていたら、怜泉は胸をさらわれるような感覚に立ちすくんだ。
 父を奪われた――そんな怒りも嫉妬も、いまは一片もなかった。
 ただ見惚れて、時が止まってほしいとさえ思った。
 そこにいるのは、皇帝の寵愛を奪った妃ではなく、どうしようもなく護りたくなる、小さな少女だった。
 ふいにそんな少女に、気づかわし気な声がかけられる。
「……砂々さま。もうお部屋に戻りましょう。風が冷えて参ります」
 宮から近づいて来た侍女らしき声に、怜泉は慌てて柱の陰に身を隠した。
 砂々はこくりと頷き、あどけない仕草で人形を抱きしめた。
「……うん。さな、さむかったね……ごめんね」
 その言葉に怜泉の胸がずくりと痛んだ。
 侍女たちは気づかず砂々を伴って奥へと消えていく。
 怜泉は息を止めたまま、しばらくそこから動けなかった。
(……あの瞳を見たら……誰だって、心を奪われる)
 そう思った途端、頬が熱くなる。
 怜泉の胸に膨らんだのは……十五歳の少年として初めて知る、甘い衝撃だった。
(父上が、あの方を離せないわけだ)
 怜泉の胸は初めての恋のようにざわめき、痛み、抑えようのない熱を宿し始めていた。