砂々が懐妊を告げられてから、翠静宮は静かな祝福に包まれた。
妃が皇帝の御子を授かるのは喜び以外の何物でもない。けれど侍女の中では、砂々に近ければ近い者ほど、複雑な感情をかみしめていた。
――御子は、無事に生まれるのだろうか?
そう不安に駆られるほど、その母である砂々の体は弱く、心は幼い。
砂々は喜びよりも戸惑いと怯えの方が強く、懐妊を告げられたその夜からもたびたび体調を崩し、黒耀が近づくと不安げな目をしていた。
黒耀はそれに気づいていながらも、決して砂々を離すまいとする執着を隠さなかった。
「砂々、熱はないようだね。胸は苦しくない?」
黒耀が寝台の横に座ってたずねると、砂々は布団の端を握りしめて、小声で問う。
「……ささ、びょうき……?」
「戸惑っているのだね。でも、大丈夫だ。私がついている。何も怖くないよ……」
砂々の怯えは毒の後遺症によるものだとわかっていても、黒耀にはどうしようもない渇望があふれるときがある。
触れれば触れるほど愛おしく、離れようとするそぶりを見せれば、固く封じ込めるように抱き込んでしまう。
砂々の精神は大人と子どもの境を揺れている。黒耀の性急な行為が、砂々を恐れさせるときもあった。
ただ黒耀はもう砂々と離れるなど考えることもできず、生まれてくる子を側から離すことも断じて認めるつもりはなかった。
「ささ、げんきでいるから……。さなを……どこにもやらないで……」
「ああ」
黒耀は人形の髪を撫でて、もう片方の手で砂々の頭を抱いた。
「さなと砂々は、どちらも私の大切な宝物だ。……決して、離さないよ」
それを聞いて、砂々もおずおずと人形の頭に頬を寄せた。
さなの名を口にするそのときだけは、砂々は自分でも気づかないうちに母親の顔をする。それが黒耀にはたまらなく、満たされる心地にさせられた。
砂々が懐妊したと知れ渡ると、後宮には翠静宮とは違う激しい動揺に満ちた。
「陛下の御子が、翠静宮に……」
「でも、あのお妃さまは毒の後遺症で心を病んでいて……」
「生まれる御子は、どうなるの……?」
声を潜めながら侍女たちはささやく。
皇帝には男児が三人、女児が二人いて、皇太子も既に決まっている。砂々が懐妊したからといって、ただちに皇位が揺らぐことはなかった。
「……けれど、もし男児だったら」
ただ後宮の者たちは、黒耀の執着を思えば、ひと言たりとも余計なことは口にできなかった。
侍女長は若い侍女たちの噂話を聞きとがめて、低く言い含めた。
「御子は、女児であられても……男児であられても。どのような御子でも、惜しみない祝福でお包みするのです」
侍女たちはその言葉に息を呑み、揺れたまなざしで互いをみつめる。
「……そう、陛下は後宮中にお告げになっておられます」
侍女たちは深く頷き、胸の奥に秘かに生まれた不安を飲み込んだ。
砂々の懐妊から十日が経つ頃だった。
黒耀は政務を終えると、疲れを見せぬまま翠静宮の寝所に向かい、静かに砂々の手を取った。
「砂々、今日は顔色がいい。日中、何をしていたの?」
「さなに……ね」
砂々はかすかに得意そうな顔をしてみせた。黒耀が首を傾げると、砂々はたたっと部屋を横切って、机の上から縫いかけの布の沓を見せてくれる。
「くつをね、ぬっていたの……」
それは人形用の沓で、人の子どもが履いて使えるようなものではなかったが、黒耀は胸が締め付けられる思いがした。
微笑んだ砂々の表情が幼い母親のようで、黒耀は喜びに震えた。
(……砂々は、私が望んだ以上に母親になろうとしている)
胸の奥で、愛しさと恐ろしいほどの満足が同時に湧き上がる。
砂々自身は何も理解していない。それでも体の奥には確かに自分の子が宿っている。
黒耀は喜びににじんだまなじりを拭うと、砂々の頬に手を添えて言う。
「えらいな……砂々は。なんて立派な母親だろう。生まれる前からこんなにも待っているのだから」
黒耀は砂々を膝の上に抱いて、後ろから抱き込んで笑う。
「私も、衣装や侍従や……沓も、もう何十とそろえさせているが。砂々に負けないくらい、お父様はさなを愛していると教えてやるつもりだ」
砂々はまだ不思議そうに黒耀を見上げてつぶやく。
「……こくようさま、おとうさま……?」
「そうだよ。砂々と前世から結ばれている縁が、さなを呼んだんだよ」
黒耀の声は甘く、深く、そしてどこまでも危うかった。
砂々の心は揺れ、時にしぼむように弱弱しく変わった。
その夜、砂々は寝台で眠れず、小さくすすり泣きを漏らしていた。
「……こわいよ……。さな、いなくなったら……やだ……」
黒耀は寝台に腰を下ろし、砂々の肩を抱き寄せる。
「誰にも奪わせない。……ここは私たちだけの世界だ」
砂々は人形と、無意識に自分の腹を同時に守るような仕草を見せた。黒耀はそれを見て微笑み、いい子だねというように砂々の頭をなでる。
「……こくようさま……どこにも、いかない……?」
「行かないよ。砂々が呼べば、どこにいてもすぐ戻ってくる」
黒耀は砂々を抱きながら、そっと腹に手を添えた。
温かな掌の下で、小さな命が静かに息づいている。
「君がいれば……世界が暗黒に覆われても、そこが極楽だと笑んでみせよう」
そのささやきは、誓いであり、告白であり、そして狂気でもあった。
砂々はその意味を理解しないまま、涙をぬぐい、人形を抱いて黒耀に身をすり寄せた。
「……ねむると……ゆめ、みる。こわい……」
「ではずっと包んでいてあげよう。もし怖い夢を見ていたら、引き戻してあげる」
黒耀の呼吸が砂々の耳にかかり、砂々の小さな体は次第に緩んでいく。
その夜、翠静宮には母になるとは知らぬ幼い妃と、彼女に全てを捧げる皇帝の、静かで歪んだ抱擁が続いていた。
妃が皇帝の御子を授かるのは喜び以外の何物でもない。けれど侍女の中では、砂々に近ければ近い者ほど、複雑な感情をかみしめていた。
――御子は、無事に生まれるのだろうか?
そう不安に駆られるほど、その母である砂々の体は弱く、心は幼い。
砂々は喜びよりも戸惑いと怯えの方が強く、懐妊を告げられたその夜からもたびたび体調を崩し、黒耀が近づくと不安げな目をしていた。
黒耀はそれに気づいていながらも、決して砂々を離すまいとする執着を隠さなかった。
「砂々、熱はないようだね。胸は苦しくない?」
黒耀が寝台の横に座ってたずねると、砂々は布団の端を握りしめて、小声で問う。
「……ささ、びょうき……?」
「戸惑っているのだね。でも、大丈夫だ。私がついている。何も怖くないよ……」
砂々の怯えは毒の後遺症によるものだとわかっていても、黒耀にはどうしようもない渇望があふれるときがある。
触れれば触れるほど愛おしく、離れようとするそぶりを見せれば、固く封じ込めるように抱き込んでしまう。
砂々の精神は大人と子どもの境を揺れている。黒耀の性急な行為が、砂々を恐れさせるときもあった。
ただ黒耀はもう砂々と離れるなど考えることもできず、生まれてくる子を側から離すことも断じて認めるつもりはなかった。
「ささ、げんきでいるから……。さなを……どこにもやらないで……」
「ああ」
黒耀は人形の髪を撫でて、もう片方の手で砂々の頭を抱いた。
「さなと砂々は、どちらも私の大切な宝物だ。……決して、離さないよ」
それを聞いて、砂々もおずおずと人形の頭に頬を寄せた。
さなの名を口にするそのときだけは、砂々は自分でも気づかないうちに母親の顔をする。それが黒耀にはたまらなく、満たされる心地にさせられた。
砂々が懐妊したと知れ渡ると、後宮には翠静宮とは違う激しい動揺に満ちた。
「陛下の御子が、翠静宮に……」
「でも、あのお妃さまは毒の後遺症で心を病んでいて……」
「生まれる御子は、どうなるの……?」
声を潜めながら侍女たちはささやく。
皇帝には男児が三人、女児が二人いて、皇太子も既に決まっている。砂々が懐妊したからといって、ただちに皇位が揺らぐことはなかった。
「……けれど、もし男児だったら」
ただ後宮の者たちは、黒耀の執着を思えば、ひと言たりとも余計なことは口にできなかった。
侍女長は若い侍女たちの噂話を聞きとがめて、低く言い含めた。
「御子は、女児であられても……男児であられても。どのような御子でも、惜しみない祝福でお包みするのです」
侍女たちはその言葉に息を呑み、揺れたまなざしで互いをみつめる。
「……そう、陛下は後宮中にお告げになっておられます」
侍女たちは深く頷き、胸の奥に秘かに生まれた不安を飲み込んだ。
砂々の懐妊から十日が経つ頃だった。
黒耀は政務を終えると、疲れを見せぬまま翠静宮の寝所に向かい、静かに砂々の手を取った。
「砂々、今日は顔色がいい。日中、何をしていたの?」
「さなに……ね」
砂々はかすかに得意そうな顔をしてみせた。黒耀が首を傾げると、砂々はたたっと部屋を横切って、机の上から縫いかけの布の沓を見せてくれる。
「くつをね、ぬっていたの……」
それは人形用の沓で、人の子どもが履いて使えるようなものではなかったが、黒耀は胸が締め付けられる思いがした。
微笑んだ砂々の表情が幼い母親のようで、黒耀は喜びに震えた。
(……砂々は、私が望んだ以上に母親になろうとしている)
胸の奥で、愛しさと恐ろしいほどの満足が同時に湧き上がる。
砂々自身は何も理解していない。それでも体の奥には確かに自分の子が宿っている。
黒耀は喜びににじんだまなじりを拭うと、砂々の頬に手を添えて言う。
「えらいな……砂々は。なんて立派な母親だろう。生まれる前からこんなにも待っているのだから」
黒耀は砂々を膝の上に抱いて、後ろから抱き込んで笑う。
「私も、衣装や侍従や……沓も、もう何十とそろえさせているが。砂々に負けないくらい、お父様はさなを愛していると教えてやるつもりだ」
砂々はまだ不思議そうに黒耀を見上げてつぶやく。
「……こくようさま、おとうさま……?」
「そうだよ。砂々と前世から結ばれている縁が、さなを呼んだんだよ」
黒耀の声は甘く、深く、そしてどこまでも危うかった。
砂々の心は揺れ、時にしぼむように弱弱しく変わった。
その夜、砂々は寝台で眠れず、小さくすすり泣きを漏らしていた。
「……こわいよ……。さな、いなくなったら……やだ……」
黒耀は寝台に腰を下ろし、砂々の肩を抱き寄せる。
「誰にも奪わせない。……ここは私たちだけの世界だ」
砂々は人形と、無意識に自分の腹を同時に守るような仕草を見せた。黒耀はそれを見て微笑み、いい子だねというように砂々の頭をなでる。
「……こくようさま……どこにも、いかない……?」
「行かないよ。砂々が呼べば、どこにいてもすぐ戻ってくる」
黒耀は砂々を抱きながら、そっと腹に手を添えた。
温かな掌の下で、小さな命が静かに息づいている。
「君がいれば……世界が暗黒に覆われても、そこが極楽だと笑んでみせよう」
そのささやきは、誓いであり、告白であり、そして狂気でもあった。
砂々はその意味を理解しないまま、涙をぬぐい、人形を抱いて黒耀に身をすり寄せた。
「……ねむると……ゆめ、みる。こわい……」
「ではずっと包んでいてあげよう。もし怖い夢を見ていたら、引き戻してあげる」
黒耀の呼吸が砂々の耳にかかり、砂々の小さな体は次第に緩んでいく。
その夜、翠静宮には母になるとは知らぬ幼い妃と、彼女に全てを捧げる皇帝の、静かで歪んだ抱擁が続いていた。



