その名君は破滅的な愛をささやく

 その日から、黒耀の訪れは昼夜の区別がなくなった。
 政務の合間がほんのわずかに空くたび、黒耀は必ず翠静宮へ向かう。
 だが砂々が毒に伏していた頃と違うのは、黒耀が寝所で人払いをし、ほとんどの時間を砂々と二人きりで過ごすようになったことだった。
 衝立の外に控える侍女たちは、寝所から聞こえてくる声に、胸を塞がれる思いで耳をすませるしかなかった。
「や……いや……こわいよ……っ」
 怯えた砂々の声に手を差し伸べられないのは、皇帝に固く立ち入りを禁じられていたからだ。
「大丈夫、大丈夫だよ。砂々、愛しているよ。君にさなの命を結んでやりたいんだ。ね……? 私を、父親にしてほしい」
 砂々の怯えの後には、必ずなだめるような、甘くささやく黒耀の声があった。
 侍女たちはお互いに目を合わせることなく、複雑な表情を浮かべていた。
 また、まだ陽も上りきらぬ時間に、黒耀がシーツに包んだ砂々の身体をそっと抱き上げ、湯殿へ向かうことが何度もあった。
 砂々はまるで幼子のように黒耀の首にしがみつき、泣きながら肩に顔を埋めている。
「どう……して、こわい、こわいよ……」
「怖くないよ、砂々。綺麗にしてあげるから……ほら、さなもいるよ」
 黒耀は一歩ずつ、まるで宝物を運ぶように慎重に歩いた。
 祝福すべき光景のはずなのに、その背に落ちる影はどこか薄暗い。
 侍女たちは胸の奥でひそやかに願う。どうか陛下のご恵愛を受け入れてくださいますよう、と。
 ただ自分に起きていることを理解できず、か細く泣く砂々には、それは遠いことのように思えた。



 砂々は以前にも増して熱を出すようになった。
 黒耀の足音だけで怯え、時には涙をぽとぽとこぼす。
「ひっ……く、また、こわいこと、する……?」
 しかし黒耀が人形を砂々の腕に抱かせてやると、その怯えは嘘のように消える。とろりと空虚な瞳が、少しだけ穏やかになる。
「さな……まもらないと……」
「そうだよ。砂々はえらい。小さい子を守ってあげる、優しい子だ」
 黒耀は砂々を腕に抱き、頬を寄せながら微笑んだ。
「……もうすぐ、生きたさなに会えるよ」
 その声音には異様な確信があった。
 砂々は意味が分からないまま、ただ人形に頬を寄せた。
「さな……お話し、してくれる……?」
「ああ。歩いて、泣いて、笑って……たくさん、お話ししてくれる」
 黒耀の腕の中の砂々は、少しの安らぎと、迷子のような孤独を同時に漂わせていた。
「だから今夜も……ね? 君に触れるたび、愛しさが募ってあふれそうになるんだ」
「さわる……ささの」
 砂々はまたとろりとした空虚な瞳に戻って、黒耀に引き寄せられた。
 



 砂々が毒から快癒してちょうど二月が経つ日のことだった。
 その日は夜であることが嘘のように、翠静宮には祝いの灯りがまぶしいほど灯された。
「砂々、よくがんばったね。体調がよくなってきた祝いだ」
 黒耀の計らいで、その日の膳は贅を尽くしたものとなった。
 色とりどりの花びらのように飾られた果実たち、香草をふんだんに使った薬膳の汁、希少な魚介の酒蒸し……食が細っていた砂々には、しばらく遠ざかっていた饗宴だった。
 黒耀も砂々の隣に座り、優しいまなざしで彼女をうながす。
「砂々が口に出来たものばかり集めた。どれでも好きなだけ食べていいんだ。全部砂々のものだよ」
「うん……」
 砂々は幼く小さく頷き、匙を手にした。
 しかし湯気の立つ器を口元に近づけた途端、苦しそうに顔を歪める。
「……っ……ぇ、う……」
 砂々は口元を押さえ、蒼白になってえずいた。
「砂々!」
 黒耀はすぐに砂々を抱き上げ、膳を蹴飛ばすほどの勢いで寝台へ向かう。
 背をさすり、震える身体を支え、砂々の額を何度も何度も撫でた。
「医官を呼べ……今すぐだ!」
 慌ただしい足音のあと、医官が駆け込み、砂々の脈をとり、瞳を見つめ……何かに気づいたように、腹に手を当てる。
 そして――深く頭を垂れた。
「……おめでとうございます」
 その言葉に真っ先に反応したのは侍女たちで、彼女らは急ぎ床に平伏する。
 医官は一度言葉を切って、うやうやしく告げた。
「砂々さまは……ご懐妊でございます」
 室内の時間が止まったかのようだった。
「……いま……なんと?」
 黒耀の声は震え、笑う一歩手前のようにかすれた。
「間違いございません。砂々さまは……陛下のお子を……」
 次の瞬間、黒耀は狂ったように砂々を抱きしめた。
「砂々……砂々! 私たちはやはり運命だった。命絶えるまで解けない縁で、結ばれていた……!」
 震える腕で砂々を自分の胸に押し付ける。
 砂々は何が起こったのかわからず、涙目で黒耀を見上げた。
「……こくよう……さま? ささ……わるい、ことした……?」
「いいや……良きこと、この上ない喜びだよ、砂々……! 君は母になるんだ……私に子を与えてくれるんだよ……!」
 黒耀は砂々の頬を何度も撫で、額に口づけ、腕に強く抱き締める。
 砂々は混乱したまま、頼りなく黒耀の胸に手を添えた。
「……さな……?」
「そうだよ。砂々と私のさなだ。君が……君が生んでくれるんだよ……!」
 砂々の怯えた瞳の奥に、小さな光が灯った。
 それは理解ではなく――本能的な母性の影だった。黒耀はそれを見逃さなかった。
 砂々はすぐに怯えを思い出したのか、すすり泣きを始める。そんな彼女も愛おしいとばかりに、黒耀は甘くささやいた。
「砂々……愛しているよ。これで君は私から、離れられない……」
 その夜、翠静宮には、皇帝の歓喜と砂々のかすかな泣き声が、長く長く漂っていた。