夕闇が降りる後宮の回廊裏で、砂々はそっと胸を押さえた。
まだ息が上がっていて、心臓は忙しなく音を立てている。それでも怪我をしなかっただけよかったのかもしれない。
つい先ほど、砂々は下級吏官の部屋から逃げ戻ってきたばかりだった。
「……どうしよう、どうしよう……!」
あの男は、砂々の婚約者の借金を返してやった代わりに、砂々の身体を求めてきた。拒めば、婚約者を罰すると脅してのしかかってきた。
いけないとわかっていた。自分が我慢すれば済むことだと思い込もうとした。けれどどうしても怖くて、心が悲鳴を上げて――砂々は逃げてしまったのだ。
(李澄さまが罰せられてしまう……だめ、早く戻らなければ。早く……)
忙しなく胸の辺りをつかんでは、止まりそうな息を繰り返す。
婚約者の李澄は借金で身を立てられなくなり、今は都の外れで寝込んでいる。
砂々に返済の術もなく、あの吏官にすがるしかなかったのだ。
子どもの頃から仕えてきた後宮にとっさに戻ってしまったものの、ここは元々そういう場所であるように、女性に逃げ場のないところだ。
静寂の後宮は、どこか恐ろしい迷宮のようにも見えた。砂々は迷い子のような足取りで、ある部屋の扉を押し開けた。
――そこに、人影があった。
ゆらりと揺れる香炉の煙の向こうで、一人の男が卓に肘をつき、静かに香を楽しんでいる。
濡れたような黒髪、理知の光に満ちた瞳がまぶしい。柔らかな陽光を受けた横顔はあまりにも整っていて、この世のものと思えなかった。
「……砂々?」
子どもの頃、そう優しく話しかけて頭をなでてもらうのがうれしかった。けれど大人になった今は、畏れと共に平伏することに変わった。
「陛下……!」
慌ててひざまずいた砂々に、彼が困ったなというように息をつく呼吸が聞こえた。
黒耀帝は、誰にとっても、また砂々にとっても、心酔するように平伏する存在だった。
身分の上下に関わらず広く民の声を聞き、慈愛をもって臣下に接する君主だった。時には厳しい面も持つが、決して激情に流されることのない、名君と称えられていた。
ただ、子どもの頃の砂々にとっては――身分も低く、いじめられることも多かった砂々を、ひそかに助けてくれた「あにうえさま」のような人だった。
「あにうえさまとは、もう呼んでくれないのだね」
「無礼をお許しください……。幼さゆえの、あやまちにございます……」
黒耀は肩をすくめ、微笑んだ。
「怒ってはいないよ。子どもの頃から教えておけばよかったと思うだけだ。私の名前をね」
穏やかな声音に、砂々の緊張が少し和らぐ。
だがその瞬間、香炉の煙がふわりと漂い、砂々は喉を押さえた。
「……っ、けほっ……」
咳き込む砂々に、黒耀はすぐに香炉の前へ手を伸ばし、香を焚く火を指先でつまむようにして消した。
「昔から、煙に弱かったね」
香炉は高貴な人々のたしなみで、まして皇帝が決して遠慮するようなものではないのに、彼は砂々の前ではいつも香炉を消してくれた。
いつの日か春の野花を摘んで、そっと差し出してくれた記憶が蘇る。
……優しい、慈愛に満ちた、あにうえさま。幼い日には恋心すら抱いたその存在に、砂々は微笑んでいた。
「陛下の膝元で過ごした後宮の日々は……本当に、幸せでございました……」
砂々が心に迫った感謝を述べると、黒耀の瞳がゆらりと揺れた。
そのわずかな変化に、砂々は不思議そうな顔をする。
「さて。……砂々、何があった?」
ふいに黒耀の声が真剣味を帯びる。
砂々は思わず自分の服の乱れを確かめた。逃げてきたときに直したつもりだが、陛下の前で見苦しい格好をしていたのではないかと恐れる。
「私は宮中のことをよく見ているつもりだ。……先ほど、砂々は泣きそうな顔をしていた。どうしたの?」
「あ……」
子どもの頃から、彼の前で嘘をつくことはできなかった。きっと今回もそうなのだろうと思うと、焦りのような……打ち明けてしまいたいような、相反する心に襲われる。
砂々はごくんと息を呑んで、戸惑いながら唇を開いた。
「婚約者の借財が……ありまして。明日には後宮を出て、返済のために……」
「返済のために?」
黒耀の目が細くなる。砂々はその続きを口にするのをためらった。
黒耀は波のない口調で、けれど鋭く追及する。
「何を……差し出すつもりだったの」
胸の奥を見透かすような声で、おそらくもう答えを見抜かれているのだと思った。
砂々がうつむくと、黒耀は長い睫毛を伏せ、ひとつ息をついた。
「砂々。それはだめだよ。ここにいて……今まで通り、仕えていてほしい」
「も、もったいないお言葉です。ですが……私のように貧しい者には、他に、道はないのです……」
砂々は深く頭を下げて言った。
「子どもの頃から誓った婚約者のためにも……私は、行くべきところへ行きます」
その諦めを帯びた言葉を聞いたとき、黒耀の瞳が、優しさとは別の色に変わった気がした。
黒い瞳に、妖しく深く、底知れない光が這い上る。
黒耀は長く息をついて、独り言のようにつぶやく。
「自ら留まりたいと言ってほしかったのだが……残念だ」
「陛下……?」
砂々がその変化に戸惑ったとき、黒耀は何気なく問いかける。
「私の名を覚えているか?」
「も、もちろんです。この世を統べる方の名を忘れるはずがありません」
「……忘れても構わない。何度でも教える」
黒耀は踵を返して扉に歩み寄ると、静かに続けた。
「いずれその名しか呼べなくなる。……巣立ちはさせないよ、私のひな鳥」
暗い支配に似た声音でつぶやくと、黒耀は去って行った。
砂々だけが取り残された部屋で、香炉の香りだけが、淡く消えていく。
その夜、後宮から外に続く門を無期限で閉ざすよう皇帝から命が下ったのを、まだ砂々は知らなかった。
まだ息が上がっていて、心臓は忙しなく音を立てている。それでも怪我をしなかっただけよかったのかもしれない。
つい先ほど、砂々は下級吏官の部屋から逃げ戻ってきたばかりだった。
「……どうしよう、どうしよう……!」
あの男は、砂々の婚約者の借金を返してやった代わりに、砂々の身体を求めてきた。拒めば、婚約者を罰すると脅してのしかかってきた。
いけないとわかっていた。自分が我慢すれば済むことだと思い込もうとした。けれどどうしても怖くて、心が悲鳴を上げて――砂々は逃げてしまったのだ。
(李澄さまが罰せられてしまう……だめ、早く戻らなければ。早く……)
忙しなく胸の辺りをつかんでは、止まりそうな息を繰り返す。
婚約者の李澄は借金で身を立てられなくなり、今は都の外れで寝込んでいる。
砂々に返済の術もなく、あの吏官にすがるしかなかったのだ。
子どもの頃から仕えてきた後宮にとっさに戻ってしまったものの、ここは元々そういう場所であるように、女性に逃げ場のないところだ。
静寂の後宮は、どこか恐ろしい迷宮のようにも見えた。砂々は迷い子のような足取りで、ある部屋の扉を押し開けた。
――そこに、人影があった。
ゆらりと揺れる香炉の煙の向こうで、一人の男が卓に肘をつき、静かに香を楽しんでいる。
濡れたような黒髪、理知の光に満ちた瞳がまぶしい。柔らかな陽光を受けた横顔はあまりにも整っていて、この世のものと思えなかった。
「……砂々?」
子どもの頃、そう優しく話しかけて頭をなでてもらうのがうれしかった。けれど大人になった今は、畏れと共に平伏することに変わった。
「陛下……!」
慌ててひざまずいた砂々に、彼が困ったなというように息をつく呼吸が聞こえた。
黒耀帝は、誰にとっても、また砂々にとっても、心酔するように平伏する存在だった。
身分の上下に関わらず広く民の声を聞き、慈愛をもって臣下に接する君主だった。時には厳しい面も持つが、決して激情に流されることのない、名君と称えられていた。
ただ、子どもの頃の砂々にとっては――身分も低く、いじめられることも多かった砂々を、ひそかに助けてくれた「あにうえさま」のような人だった。
「あにうえさまとは、もう呼んでくれないのだね」
「無礼をお許しください……。幼さゆえの、あやまちにございます……」
黒耀は肩をすくめ、微笑んだ。
「怒ってはいないよ。子どもの頃から教えておけばよかったと思うだけだ。私の名前をね」
穏やかな声音に、砂々の緊張が少し和らぐ。
だがその瞬間、香炉の煙がふわりと漂い、砂々は喉を押さえた。
「……っ、けほっ……」
咳き込む砂々に、黒耀はすぐに香炉の前へ手を伸ばし、香を焚く火を指先でつまむようにして消した。
「昔から、煙に弱かったね」
香炉は高貴な人々のたしなみで、まして皇帝が決して遠慮するようなものではないのに、彼は砂々の前ではいつも香炉を消してくれた。
いつの日か春の野花を摘んで、そっと差し出してくれた記憶が蘇る。
……優しい、慈愛に満ちた、あにうえさま。幼い日には恋心すら抱いたその存在に、砂々は微笑んでいた。
「陛下の膝元で過ごした後宮の日々は……本当に、幸せでございました……」
砂々が心に迫った感謝を述べると、黒耀の瞳がゆらりと揺れた。
そのわずかな変化に、砂々は不思議そうな顔をする。
「さて。……砂々、何があった?」
ふいに黒耀の声が真剣味を帯びる。
砂々は思わず自分の服の乱れを確かめた。逃げてきたときに直したつもりだが、陛下の前で見苦しい格好をしていたのではないかと恐れる。
「私は宮中のことをよく見ているつもりだ。……先ほど、砂々は泣きそうな顔をしていた。どうしたの?」
「あ……」
子どもの頃から、彼の前で嘘をつくことはできなかった。きっと今回もそうなのだろうと思うと、焦りのような……打ち明けてしまいたいような、相反する心に襲われる。
砂々はごくんと息を呑んで、戸惑いながら唇を開いた。
「婚約者の借財が……ありまして。明日には後宮を出て、返済のために……」
「返済のために?」
黒耀の目が細くなる。砂々はその続きを口にするのをためらった。
黒耀は波のない口調で、けれど鋭く追及する。
「何を……差し出すつもりだったの」
胸の奥を見透かすような声で、おそらくもう答えを見抜かれているのだと思った。
砂々がうつむくと、黒耀は長い睫毛を伏せ、ひとつ息をついた。
「砂々。それはだめだよ。ここにいて……今まで通り、仕えていてほしい」
「も、もったいないお言葉です。ですが……私のように貧しい者には、他に、道はないのです……」
砂々は深く頭を下げて言った。
「子どもの頃から誓った婚約者のためにも……私は、行くべきところへ行きます」
その諦めを帯びた言葉を聞いたとき、黒耀の瞳が、優しさとは別の色に変わった気がした。
黒い瞳に、妖しく深く、底知れない光が這い上る。
黒耀は長く息をついて、独り言のようにつぶやく。
「自ら留まりたいと言ってほしかったのだが……残念だ」
「陛下……?」
砂々がその変化に戸惑ったとき、黒耀は何気なく問いかける。
「私の名を覚えているか?」
「も、もちろんです。この世を統べる方の名を忘れるはずがありません」
「……忘れても構わない。何度でも教える」
黒耀は踵を返して扉に歩み寄ると、静かに続けた。
「いずれその名しか呼べなくなる。……巣立ちはさせないよ、私のひな鳥」
暗い支配に似た声音でつぶやくと、黒耀は去って行った。
砂々だけが取り残された部屋で、香炉の香りだけが、淡く消えていく。
その夜、後宮から外に続く門を無期限で閉ざすよう皇帝から命が下ったのを、まだ砂々は知らなかった。



