探偵事務所の扉が、からんと鳴った。
 朝の珈琲を淹れていた背中に、美波の明るい声が飛んできた。

「マイクさん、おはようございます」

 試験勉強と称しながら、半分は喫茶店のつもりで通ってくるやつだ。

 その後ろに、そっと覗きこむ影がついてきた。
 白いブラウスの女の子——麻衣。緊張で肩がすこし上がっている。
 どうやら美波について、そのまま入ってきてしまったらしい。

「え、ここ……カフェじゃないんですか……?」

「まぁ、カフェみたいなとこさ」

 美波がくすりと笑い、店員みたいに珈琲を差し出した。
 麻衣は一口飲み、ふう、と細く息を落とした。

「……あの、料理が上手になりたくて……。
 彼が、ぜんぜん褒めてくれなくて……」

「話してみなよ」

 そこから、せきを切ったように言葉があふれた。
 レストラン、カフェ、SNSのレシピ。
 挑戦しては失敗し、落ち込み、また挑む。
 それでも彼の感想は、いつもひとこと。

「うん、普通」

 麻衣はうつむいた。

「どうしたら“おいしい”って言ってもらえるんでしょうか」

「日本中の家庭の料理人が、みんな料理学校に通ってるわけじゃねぇ。
 必要なのは、“舌の育て方”だ」

 煙草の火を消し、俺はカウンターに肘をついた。

「まずは味わい方からだ。料理はな、朝飯前で判断するもんじゃねぇ」

 麻衣の目が丸くなる。

「よし、いっちょやるか」

 紙を引き寄せ、十軒ぶんの店名を書き出した。

「この和食と洋食の店を回れ。
 食べるときは、皿に残った汁をすくって飲め。
 そこに“宝”が眠ってる」

「はい……」

「美波、ノート渡してやれ」

「どうぞ」

 麻衣は胸に抱えるように受け取った。

「ありがとう。行ってきます」

 麻衣は一日一軒ずつ、丁寧に巡ったらしい。
 最初の数日はノートに、こう書いてあった。

「しょっぱいです……」

 ところが、五軒目あたりから文字が変わる。

「なんか……奥に広がる味があります。
 しょっぱさの向こう側に、静かな層みたいな……」

“だしの気配”に気づき始めたのだろう。

 十軒を終えた麻衣は、分厚いレポートを抱えて戻ってきた。

「お疲れ。どうだった」

「どのお店も、おいしかったです〜」

「よし。じゃあ次は、“だし”がかくれんぼしてるか意識して、もう一周してこい」

「えぇ〜、またですか〜?」

「はい……。
 行ってきます……」

「だしだぞ」

「はいっ」

 俺は事前に店へ連絡し、
「麻衣が行ったら、一言だけでいいから質問に答えてやってくれ」
 と頼んでおいた。
 どの店も快く受け入れてくれた。

 麻衣は真面目に、もう一巡すべて回った。

 そして——ある日、舌が真実に触れる瞬間がきた。

 ノートには震える字でこうあった。

「女子会で、いつものオシャレなパスタ屋に行ったんです。
 そしたら……ただ塩辛いだけで……。
 あんなにおいしいと思っていたのに」

 自分の舌が、世界を裏返した瞬間だった。

 それは——“わかり始めた証拠”。

 味覚は成長するとき、いったん景色が変わる。
 霞を食って生きてきたみたいに、急に現実の味が鋭くなるのだ。

 その数日後。
 麻衣は、どこか沈んだ表情で事務所に来た。

「おう。元気ないじゃん」

「はい……」

 自分の舌の変化に、まだ心が追いついていなかった。

 ひとしきり話を聞き、俺は麻衣を連れ出し、ついでに美波も呼んだ。

「高崎にパスタを食べに行くぞ。
 餅は餅屋って言うだろ。
 洋食も、具材の記憶を抱いてる。行って確かめようぜ」

「た、高崎……?」

「お任せします」

 高崎遠征の後、数日して扉が弾けるように開いた。

「マイクさん!
 食べた瞬間、具材の映像が頭に浮かぶんです!
 昆布、しいたけ、カツオ!
 玉ねぎの甘さとか、ベーコンの脂身の旨味とか……」

 完全にスイッチが入ったようだ。
 味に輪郭が宿ると、人は饒舌になる。

「わかった、わかった。落ち着け」

「すみません!……」

 油を売る暇もないほど興奮していた。

 翌日。
 麻衣は小さなお弁当箱を抱えて現れた。

「……作ってきました。
 だしのこと、考えながら」

 蓋を開ける。

 派手さはないが、静かな香りが立ちのぼった。
 卵焼きには昆布のぬくもり。
 きんぴらには、まだ粗いが“かつおの流れ”がある。

「……うまいじゃねぇか」

 麻衣はノートを抱きしめた。
 黒く埋まった文字が、努力の時間を物語っていた。

「よく越えたな。
 料理ってのは、“優しさの行き先”が形になるんだ」

 麻衣はそっと涙を拭った。

「でも……まだまだ修行したいです。
 もっと上手くなりたい。
 彼に、誰かに、ちゃんと作れるように」

 俺は笑い、頭をぽんと叩いた。

「食べてくれるやつの顔を想像して作りゃ、だしなんて要らねぇ」

「えぇ〜! だし、だしってずっと言ってたじゃないですか〜!」

「じょうだんだよ」

 そして静かに言った。

「料理人が長年修行する理由、もうわかるだろ」

「……料理を楽しむこと、ですね」

「そうだ。
 深く楽しめ。
 楽しく作れ」

「はい」

「幸せになれよ。
 料理は、その一歩の先にある」

 麻衣は深くうなずいた。
“だし香る境界線”を、確かに越えた人間の表情だった。