“喫茶店のかたちをした探偵事務所”は、朝の光の中でゆっくりと温まりはじめていた。
豆を挽く音よりも、椅子に縛られた男の荒い息だけが、店内の空気をざらつかせていた。
スーツの袖は乱れ、靴は片方だけ転がっている。
投資詐欺の末端。千香子の息子の依頼で、俺の事務所に誘導した。
入り口の喫茶店じみた看板は手作りだ。
「……マイクさん、本当に……すみません」
震えた声が、カウンターの上に落ちた。
千香子は立ちつくし、視線だけが沈んでいる。
「謝るのは、お前じゃねぇよ」
火をつけた煙草の先が、ゆっくり赤くなる。
煙が天井へすっと昇った。
その薄い線を目で追いながら、俺は千香子へ向き直る。
「あ、あ、今回かじ取りを任されました、マイクです」
「いいか。
過去も現在も未来も、全部“同じ場所”にある。
どれも切り離せねぇ」
泣いていた千香子の目が、俺の声に反応した。
縛られた男は意味をつかめず、壁のほうへ視線を逃がした。
「ある男の話をする。
健康診断の数値が悪くて、なんとなく走り始めた。
夫婦で走るようになり、大会に出るようになり、いつしかホノルルを走ってた」
煙を一口吐きながら続ける。
「検査結果を見て“走るか”って思った瞬間、ホノルルを走ってる未来も同時に生まれてたんだよ」
少し間を置き、男を見やる。
「逆に、大学生が軽い気持ちでオレオレ詐欺に手を出した瞬間、
逮捕されて人生が折れる未来も、その場に生まれる」
男の前に煙を流してやった。
「“選ぶ”ってのはそういうことだ。
一秒の揺らぎが、未来のかたちを作る」
千香子の肩が小さく震えた。
長く閉じていた記憶が、胸の底で軋いている。
「なぁ、千香子」
名を呼ぶと、彼女は息を止めた。
「昔、誰にでも香典を配った日があったろ。
ねずみ講のセミナーに行った午後も、
劇場の暗がりに逃げた夜も。
あれも全部、お前が“選ばなかった思考”の続きだ」
千香子は言葉を失ったまま、目だけで答えた。
その目に、久しぶりに“考える”表情が灯った。
俺は三つのカップにコーヒーを注いだ。
ひとつは千香子に。
ひとつは息子に。
もうひとつは俺に。
男の分は作らない。
「優しさから離れると、人は簡単に間違える。
考えるってのは、誰かを傷つけないために、自分を止める力のことだ。
お前はそれを何度も逃した。
だから“今日泣く未来”を、自分で作った」
男が声を荒げる。
「関係ねぇだろ! 帰せ!」
「人間なら、黙って聞け」
静かな声だったが、空気を切った。
「お前が千香子を餌にした瞬間、
ここで拘束されてる未来も同時に生まれたんだよ。
ちなみに、お前ら全員の顔と写真、被害者数名の署名もここにあるから」
男は口をつぐんだ。
千香子の過去
千香子は“制限される”のが嫌いだった。
見た目、流行、どう見られるか。
外側ばかり磨き、内側は置き去りだった。
それなのに、公務員という枠を選んだ。
安定という静かな檻。
心は最初から重かった。
パソコンが苦手なのに、できるふりばかり磨き、
朝早く出てテーブルを拭き、
人前で話す仕事だけは積極的に取り、
本来向き合うべき仕事から逃げ続けた。
見栄と不安を埋めるように、香典や見舞いを配った。
高い服を買い、店員と食事に行き、飲み会で笑い続けた。
「できる女」を演じた。
家庭では料理もせず、思考を止めた日々の末、
家は家庭内離婚へ沈んだ。
その寂しさに、遊び人の男の影が入り、
千香子はそのまま浮気へ足を踏み入れた。
振り返れば、
千香子の過去は“選択から逃げ続けた歴史”だった。
千香子の現在
時間は静かに積もり、
選んだものだけが形になる。
家族とは距離ができ、
貯金は底をつき、
見栄を支える外食のほかは、
夜にコンビニのおにぎり一つ。
逃げてきた仕事も、
遊びに流れた夜も、
三次会の行き先も、
すべて周囲に知られていた。
誰も言わないだけだった。
偏った食事で病気になり、入院もした。
空調が壊れた暑い家に帰りたくなくて、
コンビニの明かりに逃げこんだ夜もある。
年齢とともに判断力が落ちた頃、元同僚に誘われてねずみ講に入り、
仮想通貨の詐欺にも遭い、
退職金すら消えた。
元公務員らしくないアルバイトまで始め、
それすら「私はオシャレだから」と言い訳した。
そしていま。
息子が泣きながら俺のところへ来て、詐欺師を捕らえた今日がある。
調べるうちにわかったことがある。
千香子には、昔から静かに心配し、助言をくれた友人がいた。
「気づいてほしい」と願い続けていた人が、ずっとそばにいた。
その存在は、いまも小さな灯のように、未来を照らしている。
未来
「未来は二つだ。
誰かに優しくした未来と、
しなかった未来。
それだけで分かれる」
人は互いに支え合って生きている。
けれど千香子は、自分の誇りを守るために思考を止めていった。
逃げる一瞬が、未来の滅びを静かに連れてくる。
「優しい思考がどこかにあれば、その瞬間から未来は変えられる」
「優しさの向かったさきに、優れているがある」
「『優しい』と『優れている』についてでも息子と話しな。
勘違いした時間を、ゆっくり取り戻せ」
「まっ、ハナから給料をもらってるなら、
仕事に向き合ってれば、どこかに光は生まれたはずだぜ」
俺は千香子の息子に、
学生時代からの千香子の友人の連絡先を渡した。
「お母さんを心配してた人だ。連絡してみな」
「ありがとうございました……」
男を車に押し込み、警察署へ届け、
事務所へ戻る途中、ハンドルを叩いた。
「……前が見えねぇじゃん」
小さく漏れた声は、力不足を感じた。
店へ戻ると、表札を見て迷い込んだギャルの二人が
店内を覗いていた。
「え、ここ喫茶店?」
「なんか、あったのかな……?
目が赤いよー」
「お嬢ちゃん、ここは珈琲しかないのよ。大丈夫?」
「はーい」
「ヨーソロー」
軽く笑って、俺は新しいコーヒーを淹れた。
事務所の空気がゆるく温度を取り戻していく。
世界は、とっさの選択に、
未来の種を静かに抱えている。
大海原への旅立ちの千香子に、
どうか穏やかな未来が訪れますように
──そう願った。
豆を挽く音よりも、椅子に縛られた男の荒い息だけが、店内の空気をざらつかせていた。
スーツの袖は乱れ、靴は片方だけ転がっている。
投資詐欺の末端。千香子の息子の依頼で、俺の事務所に誘導した。
入り口の喫茶店じみた看板は手作りだ。
「……マイクさん、本当に……すみません」
震えた声が、カウンターの上に落ちた。
千香子は立ちつくし、視線だけが沈んでいる。
「謝るのは、お前じゃねぇよ」
火をつけた煙草の先が、ゆっくり赤くなる。
煙が天井へすっと昇った。
その薄い線を目で追いながら、俺は千香子へ向き直る。
「あ、あ、今回かじ取りを任されました、マイクです」
「いいか。
過去も現在も未来も、全部“同じ場所”にある。
どれも切り離せねぇ」
泣いていた千香子の目が、俺の声に反応した。
縛られた男は意味をつかめず、壁のほうへ視線を逃がした。
「ある男の話をする。
健康診断の数値が悪くて、なんとなく走り始めた。
夫婦で走るようになり、大会に出るようになり、いつしかホノルルを走ってた」
煙を一口吐きながら続ける。
「検査結果を見て“走るか”って思った瞬間、ホノルルを走ってる未来も同時に生まれてたんだよ」
少し間を置き、男を見やる。
「逆に、大学生が軽い気持ちでオレオレ詐欺に手を出した瞬間、
逮捕されて人生が折れる未来も、その場に生まれる」
男の前に煙を流してやった。
「“選ぶ”ってのはそういうことだ。
一秒の揺らぎが、未来のかたちを作る」
千香子の肩が小さく震えた。
長く閉じていた記憶が、胸の底で軋いている。
「なぁ、千香子」
名を呼ぶと、彼女は息を止めた。
「昔、誰にでも香典を配った日があったろ。
ねずみ講のセミナーに行った午後も、
劇場の暗がりに逃げた夜も。
あれも全部、お前が“選ばなかった思考”の続きだ」
千香子は言葉を失ったまま、目だけで答えた。
その目に、久しぶりに“考える”表情が灯った。
俺は三つのカップにコーヒーを注いだ。
ひとつは千香子に。
ひとつは息子に。
もうひとつは俺に。
男の分は作らない。
「優しさから離れると、人は簡単に間違える。
考えるってのは、誰かを傷つけないために、自分を止める力のことだ。
お前はそれを何度も逃した。
だから“今日泣く未来”を、自分で作った」
男が声を荒げる。
「関係ねぇだろ! 帰せ!」
「人間なら、黙って聞け」
静かな声だったが、空気を切った。
「お前が千香子を餌にした瞬間、
ここで拘束されてる未来も同時に生まれたんだよ。
ちなみに、お前ら全員の顔と写真、被害者数名の署名もここにあるから」
男は口をつぐんだ。
千香子の過去
千香子は“制限される”のが嫌いだった。
見た目、流行、どう見られるか。
外側ばかり磨き、内側は置き去りだった。
それなのに、公務員という枠を選んだ。
安定という静かな檻。
心は最初から重かった。
パソコンが苦手なのに、できるふりばかり磨き、
朝早く出てテーブルを拭き、
人前で話す仕事だけは積極的に取り、
本来向き合うべき仕事から逃げ続けた。
見栄と不安を埋めるように、香典や見舞いを配った。
高い服を買い、店員と食事に行き、飲み会で笑い続けた。
「できる女」を演じた。
家庭では料理もせず、思考を止めた日々の末、
家は家庭内離婚へ沈んだ。
その寂しさに、遊び人の男の影が入り、
千香子はそのまま浮気へ足を踏み入れた。
振り返れば、
千香子の過去は“選択から逃げ続けた歴史”だった。
千香子の現在
時間は静かに積もり、
選んだものだけが形になる。
家族とは距離ができ、
貯金は底をつき、
見栄を支える外食のほかは、
夜にコンビニのおにぎり一つ。
逃げてきた仕事も、
遊びに流れた夜も、
三次会の行き先も、
すべて周囲に知られていた。
誰も言わないだけだった。
偏った食事で病気になり、入院もした。
空調が壊れた暑い家に帰りたくなくて、
コンビニの明かりに逃げこんだ夜もある。
年齢とともに判断力が落ちた頃、元同僚に誘われてねずみ講に入り、
仮想通貨の詐欺にも遭い、
退職金すら消えた。
元公務員らしくないアルバイトまで始め、
それすら「私はオシャレだから」と言い訳した。
そしていま。
息子が泣きながら俺のところへ来て、詐欺師を捕らえた今日がある。
調べるうちにわかったことがある。
千香子には、昔から静かに心配し、助言をくれた友人がいた。
「気づいてほしい」と願い続けていた人が、ずっとそばにいた。
その存在は、いまも小さな灯のように、未来を照らしている。
未来
「未来は二つだ。
誰かに優しくした未来と、
しなかった未来。
それだけで分かれる」
人は互いに支え合って生きている。
けれど千香子は、自分の誇りを守るために思考を止めていった。
逃げる一瞬が、未来の滅びを静かに連れてくる。
「優しい思考がどこかにあれば、その瞬間から未来は変えられる」
「優しさの向かったさきに、優れているがある」
「『優しい』と『優れている』についてでも息子と話しな。
勘違いした時間を、ゆっくり取り戻せ」
「まっ、ハナから給料をもらってるなら、
仕事に向き合ってれば、どこかに光は生まれたはずだぜ」
俺は千香子の息子に、
学生時代からの千香子の友人の連絡先を渡した。
「お母さんを心配してた人だ。連絡してみな」
「ありがとうございました……」
男を車に押し込み、警察署へ届け、
事務所へ戻る途中、ハンドルを叩いた。
「……前が見えねぇじゃん」
小さく漏れた声は、力不足を感じた。
店へ戻ると、表札を見て迷い込んだギャルの二人が
店内を覗いていた。
「え、ここ喫茶店?」
「なんか、あったのかな……?
目が赤いよー」
「お嬢ちゃん、ここは珈琲しかないのよ。大丈夫?」
「はーい」
「ヨーソロー」
軽く笑って、俺は新しいコーヒーを淹れた。
事務所の空気がゆるく温度を取り戻していく。
世界は、とっさの選択に、
未来の種を静かに抱えている。
大海原への旅立ちの千香子に、
どうか穏やかな未来が訪れますように
──そう願った。
