浦和の公園。夜の光がゆっくりと街路を染めていた。
　缶コーヒーのプルタブをそっと起こし、煙草に火をつけようとしたときだった。
　風に押されるように、架純が俺の横へ腰を下ろした。

　黒いマスク。派手なパーカー。耳を塞ぐイヤホン。
　歩いてきたというより、別の世界から落ちてきたような気配だった。
　俺は火をつけるのをやめた。

「また同じ夢……推しが急に引退する夢」

　細い声だった。胸に、深く刺さった。
　俺は煙草をしまい、静かに言った。

「怖いのは夢か。 それとも、本当に目を覚ますほうか」

　架純は片耳のイヤホンを外した。
　ようやく、その瞳に人の温度が戻る。
　それが、架純との出会いだった。

　スマホにはきらめくライブ映像。
　指先が名前をなぞり、唇は歌詞を追う。
　目尻には、うっすら涙が光っていた。

「ライブ見てると落ち着くんです。もう……これが普通で」

　その声には現実を遮断する冷たさが含まれていた。

　しばらくして、画面を滑らせながら小さくつぶやいた。

「生配信、喫茶店で見たいんだけど……どこがいいんだろ」

「探してるなら、うちでもいいぜ」

　その夜、架純は探偵事務所の扉を押した。

「あ……ここ、カフェじゃないんですか」

「迷える客がよく来る。ほとんどカフェみたいなもんだ」

　推しのトートバッグが静かに揺らめいた。

「珈琲でいいか」

「へい」

　生配信が終わるころ、架純は少しだけほぐれた顔をしていた。

「その推し、相当好きなんだな」

　言葉を重ねるほど、架純の生活の形が見えてきた。
　朝はDVDとトースト。
　通勤中も音楽。
　帰り道もイヤホンを外さず、夜は動画とSNSの波に飲まれて眠る。

「仕事はちゃんとしてます。でも……現実って、疲れるんですよ。
　誰かに何聞かれても、“知らない”って言えば済むし」

　架純の目は、現実をノイズとして扱っていた。

「充電ありがとうございました」

「気が向いたらまた寄りな」

　扉が閉まったあと、俺は妙な疲れとともに胸の奥にかすかな違和感を覚えた。
　架純の“原点”が気になったのだ。

　翌日の夕刻前、架純はまた現れた。

「こんばんは」

「よく来たな。今日は温かいのを入れておいた」

　湯気の向こうで、架純の睫毛が少しそよいだ。
　俺はタブレットを置き、昔のSNS投稿を開いた。

　海辺の夕暮れ。防波堤に伸びる影。風に押された髪。
　そして、一文が残っていた。

　――今日の空、誰かに見せたかったな

　架純は長い沈黙に沈んだ。
　その沈黙は、過去まで潜るための深呼吸だった。

「覚えてます。友達が引っ越す日で……最後に見た空でした。
　泣きそうで。でも空がきれいすぎて、泣いたら、もったいない気がして」

　 声の奥に、波のような旋律の余韻が残っていた。

　俺は煙草をつけずに静かに言った。

「好きなものに夢中になるのはいい。
　だけど、誰かと笑った日をなかったことにしちゃいけない。
　あの日の続きは、今のあんたでも、再び潮騒を聴きに行ける」

　架純の視界がゆっくり澄む。
　曇ったガラスが一拭きで透明になるように。

「……私、時間を止めてたんですね。
　泣かなかった日のことまで閉じ込めて、“知らない”って言い続けて……」

　そのあと、社会人になった架純の苦労も、少しだけ話してくれた。
　過去の心の傷、距離の取り方を失ったこと、けれど踏ん張ってきたこと。

「あんなことがあったのによく乗り越えたな。
　推しに全部預けるのも悪くねぇが……もう立ち直ってきてるじゃないか」

　架純はその言葉を胸に置くように息をした。

「推しに支えてもらったなら、推しからも支えてもらえ。
　そして、自分のことも大事にしろ」

　架純の瞳がわずかに光る。
　その涙は、終わりのものではなく、始まりの雫だった。

「マイクさんのことも……推しにしていいですか。マイク推し！」

「やめとけ。メンタルやられるぞ」

　架純は小さく笑った。

　外に出ると、茜色の空が沈みかけていた。
　あの日の写真と同じ色だった。

「途中まで送る」

　架純は少しためらい、頷いた。

　浦和の街は静かに広がる。
　止まった時計の針に、もう一度そっと触れるような空気だった。

　今日もまた、架純を取り巻く時間が、小さな音色のようにそっと息づきはじめていた。
　その音色は、どこか懐かしく、透明だった。