夕方の浦和駅東口には、日暮れののこり香のように淡い光がただよっていた。夜にはまだ少し早い。けれど、帰る人々の気配が立ちはじめるほどの明るさでもない。喫煙所のあたりだけ、空気がわずかに軽く、時間からひとつだけ外れた場所のように見えた。
その境目に、まさみが立っていた。背すじはまっすぐなのに、肩だけが居場所を探すようにわずかに揺れている。一日をどうにかやり過ごした人だけが持つ、静かな重みがあった。
「やだ、です」
そのひと言は、胸の奥で固まっていたものがそっとこぼれ出たように聞こえた。小さな声だが、深い思いの跡がにじんでいた。
「……おい。その一言、流行語大賞に出したら通るんじゃねぇの」
軽く声をかけると、まさみはゆっくりとまばたきした。そのかすかな動きに、長年つみ重ねた気づかいの疲れが透けて見えた。人を傷つけまいとする配慮が、呼吸まで細くしている──そんな種類の疲れだ。
まさみは視線を落としたまま、指先で自分の袖口をぎゅっとつまんだ。生地がしわになるほど力をこめているのに、手は小さくふるえていた。
駅前のざわつきが、まさみの腰から上に静かに降り積もっていく。すぐそばを通りすぎた学生たちの笑い声に、まさみの体がわずかにびくりとする。人混みを避けたいのに、避けかたを思い出せない──そんなふうに見えた。その様子が気になって、俺はそっと息をのみこんだ。
「場所を変えよう。少し歩くか。息が動くくらいでいい」
まさみは迷いながらも、俺の横へ来た。足どりは細く、頼りない。それでも数歩ごとに、呼吸がかすかにほどけていく。歩くたび、空気のかたちが少しずつ変わった。
沈黙に薄いひびが入った。
「言えないんです。本当は“嫌”って言ったほうがいいのに、傷つける気がして…… でも言わないでいると、今度は自分が苦しくて……どうにもならなくて、気づけば“やだです”になってしまうんです」
やわらかく落ちる影のような声だった。誰かへの配慮が、長い時間をかけて積み重なり、言葉を細くしている。
「悪くねぇさ。波を立てないように生きてきたんだろ」
言うと、まさみは背をほんの少し伸ばした。人を思う気づかいは悪くない。けれど、それが自分を苦しめるほど深くなるなら、代わりに誰かが肩を貸してやらなきゃならない。
路地。
奥に、小さな木の扉が見えてきた。手描きで『萬屋マイク探偵事務所』と書かれている。喫茶店に間違えられるほど、外観はどこか穏やかだった。
「入るか。黙ったままでもいい。帰りたくなったら、すぐ帰れ」
まさみはうつむいたまま、小さくうなずいた。前からの癖が染みついた仕草だった。
扉を押すと、焙煎した豆の香りが淡くひろがった。書類も地図も積みっぱなしで雑然としている。それでも、この部屋だけは息がつまらない。誰かの重荷をしばらく預かれる場所でありたいと、俺はひそかに思っている。
「練習しようか。お前の声を、お前自身のために使う練習だ」
まさみは椅子に腰を下ろし、両手を膝にそろえた。その姿には、誰にも迷惑をかけまいとしてきた気づかいの結晶が見えた。
「まずは……これだ。“今日は帰りたいです”」
「今日は……帰りたい、です」
「次。“無理です”」
「む、無理……です」
言葉が震えたが、それは弱さではなく、自分に届いた証のようだった。
「最後。一番大事なやつだ」
俺は声を少し落とした。
「助けてほしいです」
その言葉が空気に触れた瞬間、まさみの奥で縮こまっていたものが、静かに形を取りはじめた。涙がひと粒、机に落ちる。その小さな音が、部屋の空気をふわりとやわらげた。
「助けて……ほしい、です……」
ふた粒、みっつと涙が続くたび、空気のかたさがほどけていく。
「よく言えたな。助けてって言える人は、もう変わりはじめてる」
まさみは涙をぬぐい、かすかに笑った。
「ありがとう、です」
「どういたましてぇ。君には守る価値がある。気づかいで疲れる人には、俺みたいな味方が必要なんだなぁ」
しばし、静かに時が過ぎた。
外へ出ると、夜の装いが街を薄く包んでいた。まさみは扉を振り返り、ショーウィンドウに映る自分へそっとつぶやいた。
「やだです……でも、少しは進めるです」
声には淡い温度と、小さな前向きさが宿っていた。
駅が近づいたころ、まさみが言った。
「マイクさん……仮面ライダーの蒼汰君に、ちょっと似てます……です」
「似てねぇよ。……まぁ、“変身っ!”くらいなら考えとくぜ」
風が二人の間をやわらかくすり抜け、まさみの髪がふわりと揺れた。指先が一瞬、俺の腕に触れる。その短い時間は、不安ではなく、前へ進むための合図のようだった。
まさみはもう一度、静かに笑った。夜の街に、ひとつだけ明るさが増えた気がした。
未来は、急がず、しかし確かに開きはじめていた。
その境目に、まさみが立っていた。背すじはまっすぐなのに、肩だけが居場所を探すようにわずかに揺れている。一日をどうにかやり過ごした人だけが持つ、静かな重みがあった。
「やだ、です」
そのひと言は、胸の奥で固まっていたものがそっとこぼれ出たように聞こえた。小さな声だが、深い思いの跡がにじんでいた。
「……おい。その一言、流行語大賞に出したら通るんじゃねぇの」
軽く声をかけると、まさみはゆっくりとまばたきした。そのかすかな動きに、長年つみ重ねた気づかいの疲れが透けて見えた。人を傷つけまいとする配慮が、呼吸まで細くしている──そんな種類の疲れだ。
まさみは視線を落としたまま、指先で自分の袖口をぎゅっとつまんだ。生地がしわになるほど力をこめているのに、手は小さくふるえていた。
駅前のざわつきが、まさみの腰から上に静かに降り積もっていく。すぐそばを通りすぎた学生たちの笑い声に、まさみの体がわずかにびくりとする。人混みを避けたいのに、避けかたを思い出せない──そんなふうに見えた。その様子が気になって、俺はそっと息をのみこんだ。
「場所を変えよう。少し歩くか。息が動くくらいでいい」
まさみは迷いながらも、俺の横へ来た。足どりは細く、頼りない。それでも数歩ごとに、呼吸がかすかにほどけていく。歩くたび、空気のかたちが少しずつ変わった。
沈黙に薄いひびが入った。
「言えないんです。本当は“嫌”って言ったほうがいいのに、傷つける気がして…… でも言わないでいると、今度は自分が苦しくて……どうにもならなくて、気づけば“やだです”になってしまうんです」
やわらかく落ちる影のような声だった。誰かへの配慮が、長い時間をかけて積み重なり、言葉を細くしている。
「悪くねぇさ。波を立てないように生きてきたんだろ」
言うと、まさみは背をほんの少し伸ばした。人を思う気づかいは悪くない。けれど、それが自分を苦しめるほど深くなるなら、代わりに誰かが肩を貸してやらなきゃならない。
路地。
奥に、小さな木の扉が見えてきた。手描きで『萬屋マイク探偵事務所』と書かれている。喫茶店に間違えられるほど、外観はどこか穏やかだった。
「入るか。黙ったままでもいい。帰りたくなったら、すぐ帰れ」
まさみはうつむいたまま、小さくうなずいた。前からの癖が染みついた仕草だった。
扉を押すと、焙煎した豆の香りが淡くひろがった。書類も地図も積みっぱなしで雑然としている。それでも、この部屋だけは息がつまらない。誰かの重荷をしばらく預かれる場所でありたいと、俺はひそかに思っている。
「練習しようか。お前の声を、お前自身のために使う練習だ」
まさみは椅子に腰を下ろし、両手を膝にそろえた。その姿には、誰にも迷惑をかけまいとしてきた気づかいの結晶が見えた。
「まずは……これだ。“今日は帰りたいです”」
「今日は……帰りたい、です」
「次。“無理です”」
「む、無理……です」
言葉が震えたが、それは弱さではなく、自分に届いた証のようだった。
「最後。一番大事なやつだ」
俺は声を少し落とした。
「助けてほしいです」
その言葉が空気に触れた瞬間、まさみの奥で縮こまっていたものが、静かに形を取りはじめた。涙がひと粒、机に落ちる。その小さな音が、部屋の空気をふわりとやわらげた。
「助けて……ほしい、です……」
ふた粒、みっつと涙が続くたび、空気のかたさがほどけていく。
「よく言えたな。助けてって言える人は、もう変わりはじめてる」
まさみは涙をぬぐい、かすかに笑った。
「ありがとう、です」
「どういたましてぇ。君には守る価値がある。気づかいで疲れる人には、俺みたいな味方が必要なんだなぁ」
しばし、静かに時が過ぎた。
外へ出ると、夜の装いが街を薄く包んでいた。まさみは扉を振り返り、ショーウィンドウに映る自分へそっとつぶやいた。
「やだです……でも、少しは進めるです」
声には淡い温度と、小さな前向きさが宿っていた。
駅が近づいたころ、まさみが言った。
「マイクさん……仮面ライダーの蒼汰君に、ちょっと似てます……です」
「似てねぇよ。……まぁ、“変身っ!”くらいなら考えとくぜ」
風が二人の間をやわらかくすり抜け、まさみの髪がふわりと揺れた。指先が一瞬、俺の腕に触れる。その短い時間は、不安ではなく、前へ進むための合図のようだった。
まさみはもう一度、静かに笑った。夜の街に、ひとつだけ明るさが増えた気がした。
未来は、急がず、しかし確かに開きはじめていた。
