昼下がりの晴れた日だった。
事務所の前で一服していた俺の影に、ふいに誰かが立った。
「ねえ、そこで吸わないでくれます?」
その声はまっすぐで、迷いがなかった。
顔を上げると、腕を組んだ女がこちらを見下ろしていた。
「あなた、探偵なんですよね? 看板を掲げているなら、マナーは守らないと」
言葉はきついが、筋が通っている。
俺は煙草の火をつまんで消し、軽く頭を下げた。
「中で吸えって言われたのは初めてだな」
「外の方が迷惑ですから」
「珈琲でも飲んでいくか」
「お断りします」
理屈は、彼女の中で完全に組み上がっているようだった。
──これが淳子との出会いだった。
淳子は、自分が世界の中心にいないと納得できないような気質を持っていた。
しかし、それは傲慢というより、責任感の強さが行き過ぎた結果でもあった。
バスで押されれば眉をひそめるが、弱い者にはためらいなく席を譲る。
カフェで店員の段取りの悪さに舌打ちをし、ため息をつく。
だが、落ちたトレーは素早く拾ってやる。
曲がったことがあれば即座に指摘し、会議の資料が少しでも読みづらければ、
「これ、直した方がいいです」
と淡々と言う。
嘘、ごまかし、些細な間違い、人の怠慢を許さない。
イタズラ程度の軽いことでも必ず正す。
損な役回りばかりの人生で、
「こんな職場で頑張りたくない」
と声に出してしまう。
仕事が遅い上司には、
「なぜまだ終わらないんですか?」
と責める。
上司に対しても平然と異議を唱えた。
空気を読むより正しさを優先し、その結果、上司は胃潰瘍で倒れた。
だが淳子は、その原因の一端が自分にあるとは思っていない。
後輩の面倒見はいい。
黙って自分が残業し、仕事を仕上げて帰す。
帰っても一人だからこそ、誰かの役に立つ時間に淳子自身が救われていた。
だが、出世の話は断った。
「責任が伴うなら、私じゃなくていいです」と。
潔癖は徹底しており、机の上の道具の向きまで揃える。
「こうでないと気持ち悪いでしょ?」と本気で言う。
飲み会では必ず、
「割り勘ね、PayPayで」
と率先して仕切り、後輩には優しく肉を取り分ける。
その一方で、場の中心には自分が立とうとする。
どこでも自然と“お山の大将”になっていた。
運転中も怒りを隠さない。
「ウインカー出さないとか、ありえないでしょ!」
と怒鳴る。
会議で、退職者への寄せ書きを廃止しようという案が出た瞬間、
「今年、私が退職なんですけど、あった方がいいと思います」
ときっぱり言った。
傲慢にも見えたが、気持ちが強かっただけだ。
周りは退職日に、たくさんのプレゼントを用意することになった。
今でもその職場の再雇用を利用して存在している。
誰もが、淳子を“正義の女”だと思っている。
それは確かに、淳子の“表の顔”だった。
俺は事務所で身震いした。
例の読み聞かせの練習に来ていた貴美子は、ソファーに座っている。
窓の外の光がしとやかに肩に落ちていた。
「あら、マイクさん。体調の方、大丈夫でしょうか」
「風邪かな。くわばらくわばら」
「いま、貴美さんの読み聞かせを一番聴かせたいお姉さんがいるのよ……」
裏側の淳子は、七つの大罪をそのまま抱えた女だった。
努力は最低限しかせず、台所の洗い物は週に一度。
「食器を減らすのはSDGsなの」と胸を張る。
怠惰を堂々と正当化していた。
風呂掃除は面倒だからシャワーのみ。
趣味の道具は部屋の隅に積まれたまま。「すぐ使うから」と。
二十年以上続く親密な男がいるが、嫉妬と怒りは隠さなかった。
「私が美人なのに、なんであんな醜女を選んだの? おかしいでしょ」
美醜への傲慢。
彼を責めながら関係を続ける背徳。
嫉妬、怒り、色欲がごちゃまぜだ。
家に呼べないため、会うのはいつも外。
ホテルに行くために止めるスーパーなどへの違法駐車も気にしない。
「ちょっとくらい、いいじゃん!」
と笑って済ませる。
飲み会では人より先に皿を空にし、
「肉! 肉!」
と平気で食べ続け、
誰かが注意すると、
「なんなん!」
と怒鳴る。
割り勘を主張するくせに、誰かが「おごるよ」と言えば、
「ごちになります! あざっす!」
と即座に態度を変える。
強欲なのか愛嬌なのか、境界が曖昧だった。
寂しがり屋で、一年中後輩や友人を飲みに誘った。
断られればしばらく黙り込み、不満を抱えたまま帰る。
カフェの席にもこだわり、
「この席じゃなきゃイヤです」
と平気で言う。
だが、誰かが機嫌を取ると、すぐに笑顔に戻る。
お米は買わず、親戚から送ってもらう。
強欲にも見えるが、本人は生活の工夫だと思っている。
運転中の怒りはさらに激しい。
「なんでそのタイミングで割り込むのよ!
運転マナー、どうなってんのって!」
と叫ぶが、自分の割り込み運転は、
「ごめんねごめんねー」
と歌うようにかわしてしまう。
淳子という女は、
正義と背徳、責任と怠惰、傲慢と甘え──
矛盾のかたまりだった。
声が大きく、存在感が部屋を占拠する。
人には厳しく、自分には驚くほど甘い。
……なぜ俺がこれほど淳子の裏側を知っているのか。
それは、淳子からストーカー被害の相談を受け、
身の安全を確保するために深く関わったからだ。
淳子は目立つ。
家でも窓を開けて大笑いするから、近所中に声が響く。
「ガハハッ……。
うっひょっひょっ……」
すだれは隙間だらけで、夜は道から中が見えていた。
風呂場のすりガラスも薄く、外から肌色がわかるほどだった。
その隙を突かれ、ストーカーが張りついていた。
かわいそうになって、俺は協力して男を捕まえた。
「ま、淳っちゃん。
てごわさを全部抱えて生きてる人間なんて、そう多くないぜ」
「あら、そうお」
俺は淡々とカーテンを取りつけ、
風呂場にも専用のカーテンで目隠しした。
「これはサービスね」
そう言うと、淳子は照れたような、少しだけ素直な表情で笑った。
「そういやさ」
「いくっいくっ、は卒業しろよな。
一日中言ってんぞ」
「あらやだ。言ってないわよ」
「いやだからさー。
ランチ行こう。
いくいくっ」
「何月何日、飲み会ね。
いくいくっ」
「この企画でいきましょう。
いくいくっ」
「あのな。
向かおう、参加する、出る、寄る、出発する……言葉はたくさんあるだろうが。
今日1日だけでも、ひどいぜ」
「ごめんなさい」
「ごめんなさいじゃねーよ。
ちぃーと頑張んな。いい女が台無しだぜ」
「ありがと」
「淳っちゃんよ。お父さんの思い出はあるかい?」
「そりゃありますよー。なんですか、急に」
「お父さんは今の淳っちゃんを想像できたかね」
「えぇ?」
「天国で見てんぞ……」
「うっせいわ。黙ってろ。余計なお世話だ。おとといきやがれ。ちくしょう。このやろう。めんどくせー。
淳子語録も少し控えめにな」
「マイクちゃん……」
俺はしんみりするのも照れくさく、気持ちを切り替えるために食事に誘った。
「淳っちゃん、めし…食いにいこうぜ」
初めて会った日のまっすぐな視線を思い出す。
真面目で、頑固で、寂しがり屋で、愛嬌がある。
正しいようで正しくなく、
間違っているようでどこか優しい。
矛盾を抱えたまま、淳子は今日も生きている。
窓の外の街並みに目を細め、
誰かを叱り、誰かに甘え、
人の分まで食べ、
自分なりの“正しさ”で世界を進んでいく。
少しのわがままを胸に、
それでも、どこか愛されながら。
“To happiness!”
俺は珈琲カップを胸の前に持ち上げた。
事務所の前で一服していた俺の影に、ふいに誰かが立った。
「ねえ、そこで吸わないでくれます?」
その声はまっすぐで、迷いがなかった。
顔を上げると、腕を組んだ女がこちらを見下ろしていた。
「あなた、探偵なんですよね? 看板を掲げているなら、マナーは守らないと」
言葉はきついが、筋が通っている。
俺は煙草の火をつまんで消し、軽く頭を下げた。
「中で吸えって言われたのは初めてだな」
「外の方が迷惑ですから」
「珈琲でも飲んでいくか」
「お断りします」
理屈は、彼女の中で完全に組み上がっているようだった。
──これが淳子との出会いだった。
淳子は、自分が世界の中心にいないと納得できないような気質を持っていた。
しかし、それは傲慢というより、責任感の強さが行き過ぎた結果でもあった。
バスで押されれば眉をひそめるが、弱い者にはためらいなく席を譲る。
カフェで店員の段取りの悪さに舌打ちをし、ため息をつく。
だが、落ちたトレーは素早く拾ってやる。
曲がったことがあれば即座に指摘し、会議の資料が少しでも読みづらければ、
「これ、直した方がいいです」
と淡々と言う。
嘘、ごまかし、些細な間違い、人の怠慢を許さない。
イタズラ程度の軽いことでも必ず正す。
損な役回りばかりの人生で、
「こんな職場で頑張りたくない」
と声に出してしまう。
仕事が遅い上司には、
「なぜまだ終わらないんですか?」
と責める。
上司に対しても平然と異議を唱えた。
空気を読むより正しさを優先し、その結果、上司は胃潰瘍で倒れた。
だが淳子は、その原因の一端が自分にあるとは思っていない。
後輩の面倒見はいい。
黙って自分が残業し、仕事を仕上げて帰す。
帰っても一人だからこそ、誰かの役に立つ時間に淳子自身が救われていた。
だが、出世の話は断った。
「責任が伴うなら、私じゃなくていいです」と。
潔癖は徹底しており、机の上の道具の向きまで揃える。
「こうでないと気持ち悪いでしょ?」と本気で言う。
飲み会では必ず、
「割り勘ね、PayPayで」
と率先して仕切り、後輩には優しく肉を取り分ける。
その一方で、場の中心には自分が立とうとする。
どこでも自然と“お山の大将”になっていた。
運転中も怒りを隠さない。
「ウインカー出さないとか、ありえないでしょ!」
と怒鳴る。
会議で、退職者への寄せ書きを廃止しようという案が出た瞬間、
「今年、私が退職なんですけど、あった方がいいと思います」
ときっぱり言った。
傲慢にも見えたが、気持ちが強かっただけだ。
周りは退職日に、たくさんのプレゼントを用意することになった。
今でもその職場の再雇用を利用して存在している。
誰もが、淳子を“正義の女”だと思っている。
それは確かに、淳子の“表の顔”だった。
俺は事務所で身震いした。
例の読み聞かせの練習に来ていた貴美子は、ソファーに座っている。
窓の外の光がしとやかに肩に落ちていた。
「あら、マイクさん。体調の方、大丈夫でしょうか」
「風邪かな。くわばらくわばら」
「いま、貴美さんの読み聞かせを一番聴かせたいお姉さんがいるのよ……」
裏側の淳子は、七つの大罪をそのまま抱えた女だった。
努力は最低限しかせず、台所の洗い物は週に一度。
「食器を減らすのはSDGsなの」と胸を張る。
怠惰を堂々と正当化していた。
風呂掃除は面倒だからシャワーのみ。
趣味の道具は部屋の隅に積まれたまま。「すぐ使うから」と。
二十年以上続く親密な男がいるが、嫉妬と怒りは隠さなかった。
「私が美人なのに、なんであんな醜女を選んだの? おかしいでしょ」
美醜への傲慢。
彼を責めながら関係を続ける背徳。
嫉妬、怒り、色欲がごちゃまぜだ。
家に呼べないため、会うのはいつも外。
ホテルに行くために止めるスーパーなどへの違法駐車も気にしない。
「ちょっとくらい、いいじゃん!」
と笑って済ませる。
飲み会では人より先に皿を空にし、
「肉! 肉!」
と平気で食べ続け、
誰かが注意すると、
「なんなん!」
と怒鳴る。
割り勘を主張するくせに、誰かが「おごるよ」と言えば、
「ごちになります! あざっす!」
と即座に態度を変える。
強欲なのか愛嬌なのか、境界が曖昧だった。
寂しがり屋で、一年中後輩や友人を飲みに誘った。
断られればしばらく黙り込み、不満を抱えたまま帰る。
カフェの席にもこだわり、
「この席じゃなきゃイヤです」
と平気で言う。
だが、誰かが機嫌を取ると、すぐに笑顔に戻る。
お米は買わず、親戚から送ってもらう。
強欲にも見えるが、本人は生活の工夫だと思っている。
運転中の怒りはさらに激しい。
「なんでそのタイミングで割り込むのよ!
運転マナー、どうなってんのって!」
と叫ぶが、自分の割り込み運転は、
「ごめんねごめんねー」
と歌うようにかわしてしまう。
淳子という女は、
正義と背徳、責任と怠惰、傲慢と甘え──
矛盾のかたまりだった。
声が大きく、存在感が部屋を占拠する。
人には厳しく、自分には驚くほど甘い。
……なぜ俺がこれほど淳子の裏側を知っているのか。
それは、淳子からストーカー被害の相談を受け、
身の安全を確保するために深く関わったからだ。
淳子は目立つ。
家でも窓を開けて大笑いするから、近所中に声が響く。
「ガハハッ……。
うっひょっひょっ……」
すだれは隙間だらけで、夜は道から中が見えていた。
風呂場のすりガラスも薄く、外から肌色がわかるほどだった。
その隙を突かれ、ストーカーが張りついていた。
かわいそうになって、俺は協力して男を捕まえた。
「ま、淳っちゃん。
てごわさを全部抱えて生きてる人間なんて、そう多くないぜ」
「あら、そうお」
俺は淡々とカーテンを取りつけ、
風呂場にも専用のカーテンで目隠しした。
「これはサービスね」
そう言うと、淳子は照れたような、少しだけ素直な表情で笑った。
「そういやさ」
「いくっいくっ、は卒業しろよな。
一日中言ってんぞ」
「あらやだ。言ってないわよ」
「いやだからさー。
ランチ行こう。
いくいくっ」
「何月何日、飲み会ね。
いくいくっ」
「この企画でいきましょう。
いくいくっ」
「あのな。
向かおう、参加する、出る、寄る、出発する……言葉はたくさんあるだろうが。
今日1日だけでも、ひどいぜ」
「ごめんなさい」
「ごめんなさいじゃねーよ。
ちぃーと頑張んな。いい女が台無しだぜ」
「ありがと」
「淳っちゃんよ。お父さんの思い出はあるかい?」
「そりゃありますよー。なんですか、急に」
「お父さんは今の淳っちゃんを想像できたかね」
「えぇ?」
「天国で見てんぞ……」
「うっせいわ。黙ってろ。余計なお世話だ。おとといきやがれ。ちくしょう。このやろう。めんどくせー。
淳子語録も少し控えめにな」
「マイクちゃん……」
俺はしんみりするのも照れくさく、気持ちを切り替えるために食事に誘った。
「淳っちゃん、めし…食いにいこうぜ」
初めて会った日のまっすぐな視線を思い出す。
真面目で、頑固で、寂しがり屋で、愛嬌がある。
正しいようで正しくなく、
間違っているようでどこか優しい。
矛盾を抱えたまま、淳子は今日も生きている。
窓の外の街並みに目を細め、
誰かを叱り、誰かに甘え、
人の分まで食べ、
自分なりの“正しさ”で世界を進んでいく。
少しのわがままを胸に、
それでも、どこか愛されながら。
“To happiness!”
俺は珈琲カップを胸の前に持ち上げた。
