夜のビルには、昼のざわめきがすっかり消えていた。
空調のひくい機械音と、蛍光灯のうすい照りだけが、広いフロアのすみずみまで静けさを満たしている。
遠くで、モップが床をゆっくりとなぞる音がした。
その軌道はきちんとしていて、どこか祈りのような調子があった。
俺はしばらく、その一定のリズムを見つめていた。
彼女──美波。
耳から入ったものを深いところへ沈めていき、時間が経っても形がくずれないまま覚えているらしい。
作業をしながら大学の公開講座をよく聴いていた。
音をたよりに世界を組みたててきた少女が、いま、淡い明るさの中に立っていた。
「こんばんは。清掃のお嬢さんかな」
美波は手を止め、そっとこちらを見て、かすかにうなずいた。
その仕草には、用心と好奇心と、少しの不安が入りまじっていた。
「俺は萬屋マイク。人を待ってるだけなんだ」
探偵と名乗る必要はなかった。
ここにいるという事実のほうが、大切だった。
「ていねいな手つきだな。床がよく息をしてる」
おだてたつもりはなかった。
それでも、美波の肩がすこしゆるんだ。
「ちょっと休憩所で話さねぇか。無理にしゃべらなくていい」
迷いの影がひとつ動き、彼女は静かにうなずいた。
休憩所は、自販機の明かりだけがぽつんと浮いている、小さな空間だった。
俺は缶コーヒーを置き、美波が口をひらくのを待った。
「……人と話すの、苦手で。
頭のなかでは言えるのに、声にすると薄くなってしまうんです。
夜は誰にも急かされないから、ここが好きで」
声は小さくゆれていたが、どこか芯は残っていた。
「美波。お前は音で世界をつくる子だ。
まだ現実の手ざわりに慣れてないだけさ。
覚える力は立派なものだ。あれはちゃんと使える」
その言葉が、小さなぬくもりとなって彼女の胸に触れたようだった。
「よければ、いちどうちの事務所に来てみな。
黙っててもいいし、珈琲くらい出すぜ。
未来を見ようぜ」
俺は名刺を渡した。
美波は指先がほんの少し震えた。
戸惑いの奥に、かすかな明るさの気配が見えた。
数日後。
手描きの看板を下げた萬屋マイク探偵事務所は、喫茶店のような柔らかい光に包まれていた。
美波は小さなバッグを握りしめ、扉を押した。
「よく来たな。ウェルカム」
その声音に、美波の表情がゆっくりほどけた。
「まあ、座りなよ。今日は聞くだけでも十分だ」
ソファーに腰をおろした美波は、手を重ねたまま、かすかな声を落とした。
「勉強……好きでした。覚えるの、得意で。
でも高校をやめてしまって。ああいう道は、もう無理かなって」
その言葉には、長い時間のなかで固まった迷いがあった。
俺は机の端に置いていた紙を一枚、そっと差し出した。
高卒認定試験の案内だ。
美波の目がゆれて、小さな息が漏れた。
沈んでいた心に、細いけれど明るい筋がさしたようだった。
「……私でも、挑戦できますか」
「もちろんだ。
お前の頭には、まだのびる余地があるし、
先を見わたす力もちゃんとある。
あとは道すじと、弱気になる夜をどう越えるかだけだ。
その部分は、俺がすぐそばで見てる」
それは励ましというより、約束に近い響きだった。
「マイクさん……
勉強、教えてください。
気持ちが沈んだ日も、来てほしい。
計画がくずれたら、一緒に……直してほしい」
「任せろ。
俺の仕事は、人を見失わねぇことだ。
お前の行き先だって、必ず見届ける」
美波は声を出さず、唇だけでそっと笑った。
その笑みには、かすかな前ぶれのような明るさがあった。
翌日から、掃除を終えた美波は、小さなバッグに参考書を入れて事務所に来るようになった。
俺は問題集を選び、時間割を組み、生活の流れまで整えた。
くじけそうな夜も、言葉が出ない日も、美波を見失わない。
やがて美波は高卒認定試験を取り、その先の道まで、うっすらと形を見せはじめた。
「美波。人にはそれぞれ、ふさわしい役割がある。
誰かを守る人もいれば、知識をわける人もいる。
大事な生産者、それを届ける人もいる。
お前にも、ちゃんとした役割がある。
それを探せばいい」
美波は静かにうなずいた。
掃除の仕事から始まった日々が、いつのまにか未来へつづく階段になっていた。
夜はゆっくり深まり、
事務所のページは次の章へ向けて静かに準備をはじめる。
彼女の歩む道もまた、まだ静かだが、確かな明るさを宿して動き出していた。
空調のひくい機械音と、蛍光灯のうすい照りだけが、広いフロアのすみずみまで静けさを満たしている。
遠くで、モップが床をゆっくりとなぞる音がした。
その軌道はきちんとしていて、どこか祈りのような調子があった。
俺はしばらく、その一定のリズムを見つめていた。
彼女──美波。
耳から入ったものを深いところへ沈めていき、時間が経っても形がくずれないまま覚えているらしい。
作業をしながら大学の公開講座をよく聴いていた。
音をたよりに世界を組みたててきた少女が、いま、淡い明るさの中に立っていた。
「こんばんは。清掃のお嬢さんかな」
美波は手を止め、そっとこちらを見て、かすかにうなずいた。
その仕草には、用心と好奇心と、少しの不安が入りまじっていた。
「俺は萬屋マイク。人を待ってるだけなんだ」
探偵と名乗る必要はなかった。
ここにいるという事実のほうが、大切だった。
「ていねいな手つきだな。床がよく息をしてる」
おだてたつもりはなかった。
それでも、美波の肩がすこしゆるんだ。
「ちょっと休憩所で話さねぇか。無理にしゃべらなくていい」
迷いの影がひとつ動き、彼女は静かにうなずいた。
休憩所は、自販機の明かりだけがぽつんと浮いている、小さな空間だった。
俺は缶コーヒーを置き、美波が口をひらくのを待った。
「……人と話すの、苦手で。
頭のなかでは言えるのに、声にすると薄くなってしまうんです。
夜は誰にも急かされないから、ここが好きで」
声は小さくゆれていたが、どこか芯は残っていた。
「美波。お前は音で世界をつくる子だ。
まだ現実の手ざわりに慣れてないだけさ。
覚える力は立派なものだ。あれはちゃんと使える」
その言葉が、小さなぬくもりとなって彼女の胸に触れたようだった。
「よければ、いちどうちの事務所に来てみな。
黙っててもいいし、珈琲くらい出すぜ。
未来を見ようぜ」
俺は名刺を渡した。
美波は指先がほんの少し震えた。
戸惑いの奥に、かすかな明るさの気配が見えた。
数日後。
手描きの看板を下げた萬屋マイク探偵事務所は、喫茶店のような柔らかい光に包まれていた。
美波は小さなバッグを握りしめ、扉を押した。
「よく来たな。ウェルカム」
その声音に、美波の表情がゆっくりほどけた。
「まあ、座りなよ。今日は聞くだけでも十分だ」
ソファーに腰をおろした美波は、手を重ねたまま、かすかな声を落とした。
「勉強……好きでした。覚えるの、得意で。
でも高校をやめてしまって。ああいう道は、もう無理かなって」
その言葉には、長い時間のなかで固まった迷いがあった。
俺は机の端に置いていた紙を一枚、そっと差し出した。
高卒認定試験の案内だ。
美波の目がゆれて、小さな息が漏れた。
沈んでいた心に、細いけれど明るい筋がさしたようだった。
「……私でも、挑戦できますか」
「もちろんだ。
お前の頭には、まだのびる余地があるし、
先を見わたす力もちゃんとある。
あとは道すじと、弱気になる夜をどう越えるかだけだ。
その部分は、俺がすぐそばで見てる」
それは励ましというより、約束に近い響きだった。
「マイクさん……
勉強、教えてください。
気持ちが沈んだ日も、来てほしい。
計画がくずれたら、一緒に……直してほしい」
「任せろ。
俺の仕事は、人を見失わねぇことだ。
お前の行き先だって、必ず見届ける」
美波は声を出さず、唇だけでそっと笑った。
その笑みには、かすかな前ぶれのような明るさがあった。
翌日から、掃除を終えた美波は、小さなバッグに参考書を入れて事務所に来るようになった。
俺は問題集を選び、時間割を組み、生活の流れまで整えた。
くじけそうな夜も、言葉が出ない日も、美波を見失わない。
やがて美波は高卒認定試験を取り、その先の道まで、うっすらと形を見せはじめた。
「美波。人にはそれぞれ、ふさわしい役割がある。
誰かを守る人もいれば、知識をわける人もいる。
大事な生産者、それを届ける人もいる。
お前にも、ちゃんとした役割がある。
それを探せばいい」
美波は静かにうなずいた。
掃除の仕事から始まった日々が、いつのまにか未来へつづく階段になっていた。
夜はゆっくり深まり、
事務所のページは次の章へ向けて静かに準備をはじめる。
彼女の歩む道もまた、まだ静かだが、確かな明るさを宿して動き出していた。
