山間の小国・百峯(ももみね)——。昔から妖怪被害が後を絶たないこの国では、退魔師が重宝されていた。
 羽月(はつき)つばめが暮らす宝条(ほうじょう)家もまた古い退魔師の一族で、山裾に広がる広大な屋敷は、重厚さと威圧感を備えている。
 白壁と深い瓦屋根、長い回廊——格式あるその佇まいは、宝条家の権力の大きさを静かに物語っていた。

 この日、つばめは膝をついて廊下を拭いていた。
 雑巾を絞り、時折息を吹きかけ手のひらを温める。
 春の盛りとはいえ山国の朝は冷え込み、桶の水は指先を刺すように冷たかった。

「ねぇ、まだ終わらないの?」
 背後からかかった声は甘い鈴音のようでいて、刺のある響きを帯びていた。
 振り返ると、従妹のひまりが立っていた。華やかな衣を身に纏い、不機嫌を隠すことなく眉根を寄せている。

「も、申し訳ありません。もう少しで……」
 つばめが頭を下げると、ひまりはふん、と鼻で笑った。
「本当に使えない子ね。そんなに時間かけて掃除するなんて、どれだけ要領悪いのよ」

 ひまりはつかつかと歩み寄り、つばめの横に置かれた桶に視線を落とす。
 その瞬間——つばめは嫌な予感がして身体を固くした。
「あら、ごめんなさぁい? 足がぶつかっちゃった」
 笑い声とともに、桶がひっくり返された。
 冷たい水が、ばしゃっとつばめの身体を打ち、裾を濡らしていく。
 身体の冷えよりも、胸の奥がじんと痛かった。

「廊下、余計に汚れちゃったわね? ほら、早く拭き取りなさいよ」
 ひまりは満足げに笑い、ゆらりと袖を揺らして踵を返す。
 その背中は、幼い頃から変わらず〝自分が上で、つばめは下〟ということを当然のように語っていた。

「はい……」
 俯いたまま、つばめは冷たい水を雑巾に吸わせる。
 両親を亡くしたあの日から、叔父の家に身を寄せて以来、ずっと使用人として扱われている。
 宝条家の娘であることすら認められず、母方の姓——羽月を名乗るよう強いられていた。
 退魔師の名家でありながら“〝無能力〟と烙印を押されたつばめには、反論する権利すら与えられなかった。

 ◇

鬼柳(きやなぎ)家から、縁談……ですって?」
 午後、ひまりの困惑した声が廊下まで届いてきた。
 洗濯物を運んでいたつばめは、思わず襖の陰から覗き込む。

 居間では、叔父と叔母がひまりの前に手紙を広げていた。
 混血退魔師の名門——鬼柳家。
 その現当主・鬼柳理人(りひと)から、ひまりへの正式な縁談が届いたというのだ。

 ひまりの顔がみるみる青ざめる。
「……嫌よ」
 その声はひどく小さかったが、居間の空気が一瞬で冷え込むほど強い拒絶だった。
 叔父が宥める。
「気持ちは分かるがひまり、そう悲観するな。国で最も力のある混血退魔師に嫁げば今以上に良い暮らしが——」

「それでも嫌!」
 ひまりは叫ぶように言った。
 震えている指先。怯えのにじむ眼差し。

「鬼柳家の当主って、鬼の血を引く化け物じゃない! 父さん達も見たでしょう? 幼い頃家に来たときの、あの人が暴走した姿。……あんなの、人じゃないわ」
 両腕を抱き寄せ、記憶を振り払うように身を震わせる。

 混血退魔師とは、妖怪の血を引くことで強大な力を持つ退魔師のこと。
 中には血の濃い個体が生まれ、理性を失って暴走することもある。
 鬼柳理人はその稀な一人——だからこそ国に頼りにされながら、同時に深く恐れられていた。

 つばめも、使用人としてだが面識がある。
 今も記憶に鮮明に残る、満月の夜の短いやりとり——。

 ひまりが続ける。
「わたし、あんな人の妻なんて絶対に無理! ——そうだわ」
 ひまりはゆっくりと視線を移し、襖の隙間に気付いたようにつばめの方を見た。
 つばめは慌てて身を隠すが——遅かった。

「……つばめが行けばいいじゃない」
 その言葉に、叔父と叔母が目を瞬かせる。
「ひまり……だが、それは」

「いいじゃない。鬼柳家の人なんて、どうせ幼い頃に一度会ったきりだわ。顔なんて覚えていないはず。髪の色も黒で同じだし、つばめでもばれやしないわ」

 ひまりが微笑む。
 その笑みは、幼い頃からつばめを追い詰めてきたときと同じものだった。
「どうせこの先つばめに縁談なんてあるわけないし。だったら私の代わりに行けばいいのよ」

 叔父夫婦の表情が、徐々に肯定へと変わっていく。
 ひまりを溺愛する二人にとって、娘の気持ちが何よりも大事だった。
「そうね……確かに、つばめが行けば丸く収まるわ」
「無能の厄介払いも出来て、一石二鳥だ」

「そんな……」
 胸が痛かった。
「じゃあ決まり。つばめを連れて行きましょう」

 つばめが何か言うより早く、叔母が手首を掴んでどこかへと連れて行く。
「ま……叔母様、お待ちください……! 私……」
「黙りなさい! 今まで養ってやったんだから、文句は言わせないわ!」

 そのまま華やかな着物に着せ替えられ、反論する隙など与えられなかった。
 普段は使用人同然の服で過ごしているつばめにとって、豪奢な衣は重すぎた。
 絹の感触は慣れないほど滑らかだ。
 
 けれど——。
 こんな状況で喜べるはずもない。
 つばめは震える手を握りしめた。
 怖い。けれど、抗う術がない。

 ◇
 
 数時間、駕籠に揺られて山道を進む。
 鬼柳家までの道中、つばめの胸はずっと不安でざわついていた。
 ひまりの代わりに行くことへの恐怖、混血退魔師への畏れ、そして自分の未来への絶望が渦巻く。

 山道が深くなるにつれ、周囲の気配が変わった。
 突然、木の影から妖怪が飛び出した。駕籠を担ぐ者たちが悲鳴を上げ、つばめは駕籠ごと地面に転がり落ちる。
「——ッ!」
 妖怪がこちらへ狙いを定めた、そのとき——。

 赤い影が風を裂いた。
 人ならざる絶叫とともに、妖怪が塵となる。

 現れたのは、髪も目も——そして肌も、薄い紅に染め、頭頂に二本の角を生やした異形の男。
 太刀を持つ手には鋭い爪が生え、圧倒的な捕食者の気配を漂わせていた。
 つばめは凍りつき、声すら出せない。

 男は太刀を鞘に納めると、ゆっくりとつばめの方へ歩み寄る。
 そして——引き戸を開けると、彼は一瞬だけ動きを止めた。

「……大丈夫ですか?」
 微かに低く、驚くほど優しい声だった。
 次の瞬間、男の肌が象牙色に変わり、角が消え、爪が縮んでいく。
 異形が溶けるように引き、赤髪の青年の姿が現れた。
 理知的な雰囲気と涼しい眼差し——先ほどの怪物じみた姿とはまるで別人だ。

「貴方は……」
 分かってはいる。だが、どうしても確認したくて言葉が漏れる。

 青年は微笑みながら、静かに名乗った。
「鬼柳家当主、鬼柳理人と申します。……すみません、驚かせてしまいましたね」

 つばめは幼い頃の暴走の記憶と、目の前の穏やかな青年の姿が結びつかず、ただ困惑するしかなかった。

 ◇
 
 妖怪に襲われた騒ぎが収まった後、つばめは深々と礼を述べ、理人と共に鬼柳家を目指すこととなった。
 再び駕籠に揺られると、理人がその横を歩く形で同行する。

 一人だけ駕籠に乗っていることへの申し訳なさが胸を刺す。だが、駕籠は一人用。加えて鬼柳家までまだ距離がある。つばめの足で歩こうものなら、途中で足を痛めて足手まといになるだけだ。むしろ理人達に迷惑をかけてしまう。

 理人の足並みは崩れることなく、駕籠の横にぴたりと寄り添うように歩いていた。
 つばめはそっと駕籠の戸越しから、外の気配を窺うふりをして理人を見つめる。

 ——理人様、随分と大きくなられて……。
 幼い頃に見かけたときは、当時のつばめとさほど変わらぬ背丈だった。だが今の理人は、同年代の中でも一際目立つほど背が高い。

 ——背だけじゃなく、雰囲気も……。
 身体は大きいのに、不思議と威圧感がない。幼少期の荒々しさはどこにもなく、静かで落ち着いた空気を纏っていた。むしろ、風が吹けば消えてしまいそうなほど澄んだ印象すらある。
 
 つばめがじっと見つめていると、ふと理人がこちらに顔を向けた。
「あ……」
 慌てて目を逸らす。
 ——じろじろ見てしまった……不快に思われたかもしれない。
 頬に熱が集まるのを自覚しながら、視線を膝の上へ落とした。

 ◇

 やがて、山の中腹に広がる巨大な屋敷が姿を現した。
 つばめは思わず息を呑む。
 宝条家も地方ではそれなりの大きさを誇るはずだ。だが——。
 ——……広い。宝条の……何倍あるの……?

 百峯でも屈指の名門と言われている鬼柳家。
 その言葉が、目の前の景色で現実味を帯びて迫ってくる。
 石畳が果てしなく続き、庭だけでも宝条家一棟がすっぽり入りそうな広さ。
 幾つもの建物が回廊で複雑に繋がり、まるでひとつの城のようだった。

 駕籠が止まり、つばめが足をつけると、一人の男がすぐに歩み寄ってきた。
「お帰りなさいませ、理人様。——こちらの方は?」
 男がちらりとつばめに視線を向ける。

「宝条家のご令嬢です。宝条さん、こちらは側近の(がい)です」
 理人の紹介を受けて、男——凱の目がほんの一瞬だけ細められた。
 訝しむような光が走り、つばめの心臓が跳ねる。
 ——……ひまり様じゃないって、気づかれた?

 身体が固まりかけた、しかし——。
「……鬼澤(きざわ)凱と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
 返ってきたのは、ただの礼儀正しい挨拶だった。
「あっ……こ、こちらこそ……!」
 つばめは胸を撫で下ろしながら深く頭を下げる。

「お部屋にご案内いたします。侍女を呼んでまいりますので」
 促されるまま、つばめは侍女とともに廊下へと歩き出した。
 背後では、理人と凱が小声で話す気配がしたが、内容までは聞こえなかった。

 ◆◆◆

 侍女につばめを預けた後——。
 凱は理人のそばに寄り、声を潜めて言った。
「……理人様。あの方、ひまり様とは人相が違うように見えましたが……」

 理人の横顔は微塵も揺るがなかった。
 むしろ、穏やかで確かな笑みがゆっくりと浮かぶ。
「知っています」
 その声音には一片の迷いもない。

 凱の眉が微かに動く。
 では何故迎え入れたのか——そう問いたげな目だ。

 理人はふと、つばめが連れて行かれた方角へ視線を投げた。
「——まさかまた会えるなんて」
 その呟きは小さく、けれど胸の底から込み上げる喜びに満ちていた。

 ◆◆◆

 鬼柳家での新しい生活は、つばめにとってあまりに別世界だった。
 毎食ごとに並ぶ豪華な料理。広々とした部屋に置かれた立派な調度品。撫でるだけで質の良さが分かる衣服。
 そして何より——ここでは誰一人として、つばめを蔑む者がいない。暴言も叱責も、怯えて身をすくめる必要もない。

 胸の奥からじんわりと温かいものが込み上げてくる。
 だが、それ以上に戸惑いを覚えたのは、やはり理人の存在だった。

 理人は穏やかで、丁寧で、誰に対しても声を荒げることがない。
 つばめに対しても距離を詰めることなく、けれど決して突き放しもしない。
 必要以上に踏み込まず、しかし困っていればさりげなく手を差し伸べてくれる。
 その優しさに触れるたび、つばめはかえって身体を縮こまらせてしまった。

 ——こんなふうに普通に接してもらえるなんて、どうしていいかわからない……。それに……。

 自分がひまりでないとばれたら。
 そのことを考えると、気が気でなかった。



 ある日の午後。
 中庭に面した縁側で、つばめは理人から呼ばれ、茶を飲みながら並んで腰を下ろしていた。

「ここでの生活には慣れましたか?」
「は、はい。あの……とても、皆さん良くしていただいて……」
「良かった。何か困り事や、欲しい物があればいつでも言ってくださいね。遠慮はいりませんから」
「い、いえそんな……! お手を煩わせるわけには……」

 おろおろと手を振るつばめを、理人はくすりと笑う。それはつばめの心をそっと掬い上げるような、柔らかな笑みだった。

「緊張しなくていいんですよ。貴女は、いずれ僕の妻となる方なのですから。ここでは遠慮する必要はありません」
「……ありがとうございます」
 心地良さと同時に、心臓が早鐘を打つ。
 もし、偽物だと気付かれたら——。

 やがて理人は、ふと空を見上げる。
 その横顔はどこか張り詰めていて、つばめは思わず背筋を伸ばした。
「宝条さん、ひとつ、お伝えしておくことがあります」
「な……なんでしょう?」

 理人の声はいつになく真剣だった。
「もうすぐ満月が近付きます」
「満月?」
「はい。満月の夜だけは——絶対に部屋から出ないでください。どんな音がしても、誰に呼ばれても、決して外へ出てはいけません」

 静かだが、どこか切迫した声音。
「どうしてですか?」
 理人は少しの間言葉を選ぶように目を伏せ、ゆっくりと告げた。

「満月の夜は、妖怪の血が最も活性化する時間帯です。僕のように血が濃い個体は、自分の意思に関係なく妖怪の姿に変じ、人を襲う危険があります。だから屋敷の者には必ず部屋に籠もるよう命じています。部屋には強力な結界が張ってありますから、そこなら安全です。……僕は、誰も傷付けたくない。ですから——どうか貴女にもそのようにお願いしたい」
 
 つばめはその真剣さに飲み込まれるように頷くしかなかった。
「……分かりました。絶対に出ません」
「ありがとうございます」

 理人が微笑む。
 けれどその笑みの奥に、深い孤独の影が揺れたのを、つばめは気付かずにいた。

 ◇

 そして、満月の夜が来た。
 屋敷全体にぴんと張り詰めた空気が満ちる。
 水を打ったような、不気味な静けさ。
 家人たちは皆、理人の言いつけどおり自室に閉じこもっている。

 ——理人様……大丈夫かな……。

 つばめもまた、自室の布団に身を沈めていた。
 胸の奥がざわざわして落ち着かず、何度も寝返りを打つ。
 理人の言葉を思い出すたび、心臓がきゅっと痛んだ。けれど、どうにもできない。ただ祈るしかなかった。

 そのまま不安を抱いたまま、いつしか微睡みに引き込まれていく。

 ——どん。

 どこか遠くで何かが鳴った気がして、つばめははっと目を開けた。
 耳を澄ますと、廊下から足音がする。
 近づいてくる、重く、不規則な足取り。

 その直後、障子越しに影が揺れた。
 ——あれは……。
 助けてもらったときに見た、鬼化した理人の影だった。
 ぐらつくように立ち、息は荒く、肩が大きく上下している。影の輪郭は歪み、人外の気配が滲んでいた。

 バンッ!
 理人の手が障子を叩いた。
 強烈な衝撃音が部屋に響く。しかし障子は破れない。彼が言っていた通り、結界が張られているのだ。

「っ……!」
 つばめの身体がびくりと跳ねる。
 影はしばらくその場に留まり、荒い呼吸を繰り返していた。
 次第に力なく障子から離れ、ふらふらと歩き出す。その際に、喉を押しつぶすような苦しげな呻き声が漏れた。

 ——どうしよう、とても苦しそう……。
 つばめの胸は張り裂けそうだった。
 気付けば彼女は立ち上がっていた。
 震える手でそっと障子戸を開け、静かな廊下に一歩踏み出す。
 月光が白く床に差し込み、どこかひどく冷たく感じられた。

 理人の姿は、目の前の廊下にはもうなかった。
 しかし——。
 曲がり角の先から、低く押し殺した声が聞こえてくる。

 つばめは喉を鳴らしながら、そっと足を向ける。
 月光が差し込む廊下の先に、苦しげにうずくまる理人の姿があった。
 片手で柱を掴み、爪を深く食い込ませ、今にも木を裂きそうな力で耐えている。

「……理人様?」
 思わず声をかけると、理人の肩がびくりと震えた。
 ゆっくりと、ぎぎ、と首を巡らせる。

 その眼差しは——。
 普段の理性を(たた)えたものではなかった。
 獲物を見つけた獣のように、ぎらぎらと光っている。
「……部屋から出るなと……言ったはずですが……」

 掠れた声。
 押し殺した息遣いの奥に、何かを堪えている気配が滲む。
「す、すみません……! 苦しそうな声がしたので……その、具合が悪いのかと……」

 つばめが言い終えるより早く、理人は顔をしかめた。
「……僕の気配を追って出てくるなど……軽率です……。今の僕は……人ではない」

 軋むような声だった。
 今にも理性が崩れ落ちそうな危うさを孕んでいる。
「あ、あの、大丈夫ですか? お部屋に戻った方が……歩くのが辛いなら、私……少しでもお力になれたらと思って——」
「近寄らないでください」
 低く唸るような制止。
 しかしつばめは、足を止めきれなかった。

「でも……こんなに苦しそうで……放っておけません……」
 その一歩。
 わずか一歩、近付いたその瞬間——。
 ばさり、と影が跳ねた。
 理人の身体が、稲妻のような速さでつばめに迫る。
 気付いたときには、背中が床に叩きつけられていた。

「いっ——!」
 視界の上には理人。
「……ああ、本当に——」
 荒く熱い息を吐き、獣のように喉を鳴らしながら、つばめの肩を押さえつけている。
「貴女は優しい人ですね」
 理人は月光の下で笑った。笑みの形だけを真似たような、冷たく歪んだ表情だった。声にもどこか嘲るような響きが交じっている。

「いや、気弱なだけか? そんなんだから身代わりになんてされるんだよ」
「え——」
 つばめの胸が強く掻きむしられたように痛んだ。
 驚きのあまり喉の奥がきゅっと縮まり、声が出ない。

「貴女、あの家の使用人だろ? 分かってたよ、最初から」
 ——どうして。
 頭が真っ白になる。
 ——どうしよう……!
 血の気が引いていく。

「な、なら何故出会ったときに言わなかったのですか……っ!?」
 声は震え、息が上手く続かない。

 理人はその怯えた反応を見て、喉の奥でくつくつと笑い声を漏らした。
「家同士の繋がりとか、そんなつまらない事情を気にするのは周りの連中だけだ。俺自身は……次代を産む母胎さえ手に入れば、誰でも構わない」
 
 ぞくり、と背筋を氷が伝った。
 理人の手が、つばめの下腹部を掠めるように降りてくる。
 触れてはいない。だが、触れる寸前の距離が、何より恐ろしい。
 つばめはガタガタと全身を強張らせた。

「あーあ可哀想に、こんなに震えて。同情しますよ、誰だって、化け物の子なんか生みたくない」
 ハハハ、と狂気じみた笑い声が響く。
 ——怖い。
 けれど、同時に胸が締め付けられた。
 化け物と自嘲する声には、諦めや絶望が滲んでいて——痛ましい。

 つばめは、迷いながらもそっと理人の腕に触れた。
「——っ。何を……」
 理人が目を見開く。狂気を宿した瞳に、驚きが揺らめいた。
「……化け物なんかじゃ、ありません。理人様は……そんな方じゃ——」
 言葉は震えていた。
 怖くて、今すぐ逃げ出したくて、それでも——己を化け物と呼んでしまう彼自身の声が、あまりにも苦しそうで。

「……どうして」
 低く掠れた声。
 彼は理解できない、とでも言いたげに眉を寄せる。
 その表情には、怒りでも嘲りでもなく——戸惑いが滲んでいた。

「適当なことを——っ」
「適当なんかじゃありません」
 つばめの指は微かに震えていたが、そのまま理人の手首を包み込むように添え続けた。
 理人の身体が震え、喉から押し殺したような唸りが漏れる。
 
「私は……理人様に、助けてもらいました。優しく……してもらいました。だから……化け物なんかじゃありません」
 理人の表情が更に歪む。
 痛みと、迷いと、どう扱っていいか分からない感情が混ざった顔だった。

「……あんなのは、建前だ。善人のふりをしていただけです。僕は……そんな立派な人間じゃない」
「それでも……わたしには救いでした。ふりでも……嘘でも……優しくしてもらえたことが、嬉しかったんです」
「な——」
 掠れた声が途切れる。
 荒かった呼吸が、少しずつ、ほんの少しずつ、浅く、静かになっていった。

 つばめの手は、その変化を確かに感じ取る。
 荒れ狂っていた理人の中の鬼の血が、ゆっくりと波を引くように鎮まり始めているようだ。
 やがて理人の瞳から、狂気の光が薄れていく。

「…………」
 理人は俯き、つばめに覆いかぶさる体勢のまま動かなくなった。
 荒い呼吸が完全に落ち着き、肩の震えも徐々に収まっていく。

「……理人様?」
 つばめがそっと声をかけると、理人は微かに頷いた。
「……すみません、今どきます」
 爪を立てていた手が、力を失ったようにゆっくりとほどけていく。

 鬼の姿のままではあるが、そこに先ほどの獣の気配はなかった。
「怖い思いをさせましたね。身体は……痛むところはありませんか?」

 その声音は震え交じりで、ひどく弱々しかった。
 つばめは慌てて首を振る。
「大丈夫です。どこも……怪我なんてしていません。それより……理人様こそ、お辛くないですか?」
 理人は短く息を呑んだ。
 その問いかけが意外だったかのように。

「……僕は、貴女に酷いことを言いました」
 低い声。
「気遣いは不要です。全ては僕の弱さのせい、理性を保てず感情のままに、貴女を傷付けてしまった」
 つばめは首を横に振る。
「傷付いてなんていません。理人様が苦しかっただけだと、分かります。だから、自分を責めないでください」

 彼の喉が微かに震えた。
 まるで何か堪えるように、拳を膝の上で握りしめる。
 しばらく沈黙が落ちた(のち)——。
「……貴女が嫌でなければ」
 静かに、というより、躊躇いを含んだ声で続ける。
「少し……外の空気を吸いませんか。縁側からなら、月がよく見える」

 つばめは一瞬だけ驚き、それから小さく微笑んだ。
「はい……行きたいです」
 理人は安堵の息を漏らし、ほんのわずかに目を細めた。
 鬼の姿はまだ完全に戻っていなかったが、その表情にはもう、あの獰猛な色はない。

「……ありがとう」
 二人は夜気の流れ込む縁側へと向かった。
 満月の光は静かで、まるで荒れ狂ったものすべてを優しく洗い流すように、白く庭を照らしていた。

「……こうして満月を眺めるのは、あの時以来です」
 つばめは少し驚いたように瞬きをする。
 理人は横顔を僅かに綻ばせ、つばめの方へ視線を向けた。

「覚えていますか? 宝条の屋敷で……こうして一緒に月を見たこと」
「——はい。覚えています。まさか、理人様も覚えていただなんて」

 理人は小さく息をつき、月を見上げる。
「幼い頃の僕は、今よりもずっと鬼の血に引っ張られて……ひどく情緒不安定だったんです」
 どこか懐かしさを含んだ声音だった。
 月光が彼の横顔を淡く照らす。
「でも、あの時は……貴女と一緒にいた時だけは、不思議と穏やかな気持ちでいられた」

 つばめの胸の内に、きゅっと温かいものが広がった。
 今まで役立たずだの、無能だの言われてきた身からしてみれば、自分がそんな存在だったなんて——信じられない。
 でも、嬉しくてたまらない。

「——名前を……教えてくださいませんか」
 不意に理人が向き直り、真っ直ぐにつばめを見つめる。
 囁くように、静かな声で続けた。
「貴女の……本当の名前を」

 その眼差しは誠実そのもので、つばめは胸の奥が熱く満たされていくのを感じた。

「……羽月つばめ、です」
「……つばめ。つばめさん……」
 理人はゆっくりとその名を口にする。
 その声音には、どこか愛おしむような柔らかさが宿っていた。
「とても……良いお名前ですね」

 つばめの頬がほんのりと熱を帯びる。
 理人は静かに少し、彼女へ近づいた。
 月光を背に、その目は真剣で、どこまでも深い。

「つばめさん——」
 息を呑むほど穏やかで、それでいて決意に満ちた声音で告げる。
「僕の……伴侶になっていただけませんか。貴女となら……僕は、人間でいられる」

 胸が震えた。
 自分を必要としてくれる人がいる。
 信じられないほど優しい言葉に、つばめの視界がにじむ。

「……はい」
 震える声で、それでもはっきりと答える。
「私でよければ……喜んで、お傍に」

 満月の下でそっと微笑むつばめを、理人が深い安堵と共に受け止める。
 二人の影が静かに寄り添い、夜風が柔らかく庭を渡っていった。