雨脚は少しずつ強まり、空のどこか遠くで雷が低く唸った。
アスファルトに跳ねる水は、まるで世界のざわめきが形になったようで、美羽は肩をすくめながら早足になった。

「大丈夫かな……あの人……」

 グレーのパーカーの青年の顔が脳裏に浮かぶ。
濡れた睫毛、琥珀色の瞳、かすれた「天使」という声。

(あんなに濡れてて……本当にちゃんと帰れたかな)

 考えれば考えるほど不安が広がる。
そんな気持ちを抱えながら家に着くと――。

「ちょっと美羽!?傘持って行ってなかったの!?なんでそんなにびしょ濡れなの!」

 母が目を丸くする。

「え、あ……友達に貸しちゃったから!」

 美羽は慌てて笑って誤魔化し、差し出されたタオルで頭を拭いた。
階段を上がる前に鈴へ「雨、大丈夫だった?」とメールを送る。

 すぐに返事がきた。

『うん!お兄ちゃん迎えに来てくれたから大丈夫〜!』

「そっかぁ……よかった……」

 安心したと同時に、
“お兄ちゃん”の文字に胸がドキンと跳ねた。

(椿くんも鈴ちゃんも無事でよかった……
 でも、お迎えに行く椿くん……かっこよ……)

 そんな気恥ずかしさを誤魔化すように、「お風呂お風呂!!」と声に出して美羽は逃げるように浴室へ向かった。



 翌朝。
カーテンの隙間から差し込む光は明るいのに、身体はずっしりと重かった。

「ん……寒……っ」

 布団の中で震えながら体温計を見て、美羽は絶望の声を漏らした。

「38度!? うそぉおおお……
 ……これは……休むしかない……」

 そこに母の顔がのぞき込む。

「ほら見なさい!昨日の雨のせいよ。学校には連絡しとくから、今日はゆっくり寝ときなさいね。」

「はーい……」

 美羽は莉子にも連絡した。

『風邪ひいちゃったから休むねー』

 すぐに返事が返ってくる。

『えええ!?美羽大丈夫なの!?お見舞いこうか!!?』

『すぐ治るからいいよ〜ありがと、莉子』

 返信してからママが作ってくれたお粥を食べ、薬を飲んでそのまま布団に潜り込んだ。

 どれくらい眠っただろう。
外はすっかり昼すぎで、自分の身体とは反対に、カーテンから見える景色は晴れ晴れとしていた。
――ちょうどそんな時。

「きゃあああああああ!!?」

 家中に響く母の悲鳴。

「なに!?強盗!?!?」

 美羽は重たい身体を無理に引き起こし、
壁に手をつきながら階段を降りていく。

「ママ!?大丈夫!?」

 息を切らせて階段を降りた美羽が見た光景は――

 玄関で固まる母と、
その横に立つ、黒薔薇学園の制服姿の――

北条椿。

「……え?!つ、椿…くん……!?!?!?!?」

 美羽はその場にしゃがみ込んだ。

(うそっ……なんで椿くんが……私の……家に……!?
 てか……熱で幻覚見てる?)

 だが、母はすでに暴走していた。

「ちょっと美羽ーーー!?
 なによ、こんなイケメンの彼氏がいるのを隠してたなんてどういうことぉ!!
 ママにだけ秘密だなんてひどいじゃない〜〜!!」

「い、いや、えっ?えっ?」

(待ってママ!?状況が飲み込めないんだけど!!)

 母は完全に舞い上がり、

「えっと、椿くん?って呼んでいいのかしら?!もう入って入って!!」

 と椿の腕を引っ張り、べたべた触り始めていた。

「はぁ……どうも……」

 椿は困ったように笑った。
美羽は顔を覆いたくなる。

(なんでこういう時だけコミュ力高いのママ……!!)

 その瞬間――眩暈が一気に押し寄せた。

「っ……」

「美羽!?」

 椿が一気に駆け寄り、美羽の身体を抱きとめた。

「ご、ごめん……椿くん……」

 声も弱く震えている。

「無理すんな。熱、あんだろ。」

 椿は迷いなく美羽を抱え上げる。

「きゃーーーーーーー!!!
 リアルお姫様抱っこーーーー!!
 椿くん!!あとは美羽のことお願いね!!!」

 母の歓声が家中に響いた。

(もう……やだ……恥ずかしさで死ぬ……)

 椿は軽くため息をつきながら、美羽をしっかり抱えたまま階段を上がった。

「ちょ、ちょっと……!椿くん……
 私、お風呂入ってないし汚いよ?!……」

「いいから、じっとしとけ。」

 それがまたドキドキする。

「ほら。部屋、どこだ?」

「……そこ……」

 椿は美羽をベッドにそっと横たえた。
椿の額が美羽の額に触れ、眉を寄せる。

「熱、まだ高いな。」

「…つ!」
「お見舞い…来てくれたの?」

「あぁ。莉子が騒ぎまくってたからな。
 “美羽が死にかけてる〜〜!!”とか言ってよ。」

「もぅ。莉子ったら……」

「あと住所は……先生脅したらすぐ教えてくれた。」

「お、脅したって……椿くん……」

 思わず笑うと、椿も口元で笑った。

「お前が休むなんて珍しいからな。
 ……心配した。」

 その低い声は熱でぼんやりする頭に、とてもやさしく響いた。

「鈴ちゃんも……きっと心配してたよね……ごめんね」

「鈴はいい。
 それより、お前……」

 椿は美羽の髪をそっと払う。

「無防備すぎ。
 ……俺以外のやつに、こんな顔見せんなよ。」

「え……?」

「……美羽が心配でずっと頭から離れなかった。」

 視線が絡んで、心臓が跳ねる。

(なにそれ、そんな顔……反則だよ……)

 熱なのかドキドキなのかわからない。
ただ、一つだけ確かなのは――

椿の瞳が、どこまでも真っ直ぐに自分を見ているということだった。