朝の空は薄い水色に透けていて、
雲がゆっくりと流れていく。

静かな春の風。
通学路のざわめき。
いつもと変わらないはずの風景――

しかし、美羽の心はどこかざわついていた。

椿が横で歩いてくれている。
その手の温度が、まだ心を支えてくれる。

(大丈夫。椿くんがいるから……)

そう自分に言い聞かせた瞬間だった。

校門の少し手前。
電柱の影にもたれるように“誰か”が立っていた。

美羽は無意識に足を止める。
次の瞬間、その男はゆっくりと振り返った。

琥珀色の瞳。
獣じみた気配。
薄い笑み。

――神楽 怜だった。

美羽の心臓が、ひゅっと縮む。

「……え……?」

喉から、情けない音が漏れる。
昨日の痛みが首筋に蘇るような錯覚。

椿は瞬時に美羽の前へ出て、
まるで獲物を守る獣みたいに身構えた。

「神楽ッ!!」

怒鳴り声が空気を震わせる。

怜は、相変わらず不敵な笑みで言った。

「これはこれは――
 黒薔薇の王、椿くんではないですか。」

目が笑っていない。
獲物を嬲るような、底のない視線。

椿は、美羽を庇うように腕を伸ばし、低く唸る。

「……何しにきやがった。」

怜は肩をすくめ、
そのまま椿の後ろ――美羽に視線を向けた。

「手紙の返事をもらいにね。
 後ろに隠れている……僕のお姫様?」

ニヤァ……と口角が上がる。

美羽の背筋が凍りついた。

だけど、逃げちゃだめだ。

美羽は一歩前に出た。

「私は……あなたの物じゃない。
 銀狼にも入らない。
 黒薔薇を抜けたりしない!!」

震えていたけれど、声は確かだった。

椿はその瞬間、美羽の肩をぐっと引き寄せた。

「美羽は俺の女だ。
 手を出すんじゃねぇ。」

ギロリ、と睨むその眼は本気の殺気を含んでいた。

怜は楽しそうに笑う。

「そうかぁ、残念だなぁ。
 でも……僕は君のすべてが欲しいんだ。」

次の瞬間――怜の声色が甘く濁った。

「椿くんの女なんて勿体ない。
 僕なら君を……全部、ドロドロに愛してあげられるよ?」

美羽の顔が真っ青になる。

怜は、更に舌舐めずりをして続ける。

「君の美しい白い肌……あの日噛みついた感触、忘れられない。
 早く……もう一度味わいたいなぁ。」

ぞわり――!!

美羽の身体から血の気が引いた。

「っ……気持ち悪い!!最っ低!!」

震える声で叫んだ。

椿は完全にブチ切れた。

「……おい、それ以上言うと殺すぞ。」

声の圧力が、空気を押し出すほどだった。

怜は楽しげに笑う。

「傷つくなぁ。
 でも、君は僕が必ず手に入れる。」

そう言って、くるりと背を向ける。

そして振り返らずに告げた。

「明日の12時。
 第5北◯◯倉庫。
 ――天使をかけた決闘といこうじゃないか。」

風が怜の制服の裾を揺らす。
そのまま影が消えるように歩き去っていく。

静寂。

美羽の指先が微かに震えている。

椿は……眉間に深い皺を刻み、怒りのまま拳を握りしめていた。

「……くそが。」

ボソッ、と低く呟いたかと思うと――

突然、

「俺だって噛んだことねぇのに!!」

と叫んだ。

「……………………は?」

美羽は盛大に目を見開いた。

「って、えぇ!?そこ!?
 今の流れでそこなの椿くん!?」

椿は真っ赤な顔で怒鳴る。

「当たりめぇだろ!?
 美羽は俺の女だ!!
 他の男に噛まれるとか許せるか!!」

「いやいやいや!
 私もイヤだけども!
 今シリアスだったよね!?今超シリアスだったよね!?!?」

「シリアスでもなんでも関係ねぇ!!
 俺は嫌なんだよ!!」

(なにこの人……
 怒りの方向が完全に独占欲……!!)

美羽は頭を抱えたが――

心のどこかで、
少しだけ嬉しくなっている自分がいた。

椿は美羽の手をぎゅっと握り、
低い声で言った。

「……絶対守る。
 明日、俺がアイツを潰す。」

その声は、震えない強さで満ちていた。

美羽の胸に、熱いものがこみ上げてくる。

(……椿くん。)

空は少しずつ青さを増していく。

風が二人の髪を揺らし、
新しい戦いの幕が、静かに上がろうとしていた。