足が震える。

椿に嘘をついた。
怜のことも隠した。
傷までつけられた首も隠している。

どんな顔をして会えばいいのか分からなかった。

「美羽、入るぞ。」

ノックと同時に、ドアが静かに開いた。

光の差し込む入り口に、
黒い制服の影が立っていた。

椿。

その目は、普段の無愛想な鋭さではなく、
深く、陰りを帯びていた。

「……椿くん……」

美羽が名前を呼んだ瞬間、
椿は近づくでもなく、しばらく立ち止まって美羽を見た。

何かを探すように。
何かを確かめるように。

その視線だけで、美羽は涙がこぼれそうになった。

「……美羽。」

低く、抑えた声。

次の瞬間——

椿は美羽のベッドに近づき、
何も言わずに、 ぎゅっと抱きしめた。

「っ……!」

美羽は驚いて、固まってしまった。

「……心配したんだぞ、馬鹿。」

耳元で、小さく震える声がした。

椿の腕の力はいつもより強くて、
胸の中に閉じ込められたみたいに、
逃げ道がない。

でも、それがどこか安心した。

「……ご、ごめん……」

美羽が謝ると、
椿は顔を寄せて、囁く。

「謝るな。
……何があった?」

その一言が、
胸の奥の堰を壊した。

「……っ……椿くん……」

涙が、ぽろぽろ流れた。

椿は、涙の意味を問わず、
背中に手を回し、頭を優しく撫でた。

「泣くな、美羽。
何を隠してる?」

「え…?」

「でなきゃ、こんな顔にはなんねぇだろ。」

そう言って、
椿は美羽の頬を親指でそっと拭った。

優しすぎて、また涙が出そうになった。

「銀狼に……会ったの。」

美羽は震える声で言った。

椿の目が細くなる。

「誰だ。」

「神楽怜……って人……」

椿の指がぴくりと止まった。
けれど、美羽の話を遮らず、続けるよう促した。

「前に鈴ちゃんと遊んだ帰りに…
雨の日に公園で助けた人で……
私、ほんとに知らなかったの!!
それで、定期券を落とした事に気付いて
……昨日、公園で探してたら…神楽くんが来て…」

言えば言うほど、喉が震えた。

「黒薔薇を抜けろって……
椿くんを……殺すって……言われた……」

その瞬間、
椿の腕から、静かな殺気が漏れた。

でも美羽を抱く手だけは乱れなかった。

「美羽。」

「う……うん……」

椿は美羽の髪に指を入れ、
そっとかきあげた。

そのまま、首に視線を滑らせる。

美羽は反射的に身をすくめた。

「だめ!!……椿くん、これは!!……」

「美羽。」

声が優しくて、逆らえない。

ゆっくりと、椿の指が首元に触れる。

美羽はぎゅっと目を閉じた。

椿は目を見開き息を呑んだ。

「…っ、あいつに、噛まれたのか。」

その声は震え、怒りを噛み殺すようだった。

「違うの、わざとじゃ……っ」

「美羽。」

椿は美羽の両肩をつかみ、
そっと顔を上げさせた。

「もう……俺に隠すな。」

美羽は、息が詰まった。

「だって……見られたら……
椿くん、怒るでしょ……
嫌われるかもしれないって……
私、怖くて……!」

「なんで俺がお前を嫌うんだよ。」

椿は言いながら、
悔しそうに眉を寄せた。

「……俺はそんな信頼されてねぇのか?」

「ち、違う……違うよ……」

美羽は首を横に振り、
涙をこらえきれず声を震わせた。

「毎日ね……
椿くんが優しくしてくれる度に……
どんどん好きが大きくなって……
苦しいの……
怖いくらい……
椿くんが……私の中で大きくなって……
だから……巻き込みたくなくて……
失いたくなくて……私っ……」

これが全部だった。

胸につかえていた不安も、恐怖も、
椿への想いも全部。

「……美羽。」

椿は、美羽の言葉をしばらく黙って聞いていた。

そして次の瞬間——
美羽の泣き顔を包むように顔を寄せ、

そっと、深くキスをした。

唇の触れ方は優しいのに、
その奥にある気持ちは強くて熱い。

「…っふ、…っん!」

美羽は、呼吸が止まったみたいに胸が高鳴った。

離れたあと、椿は美羽の額に自分の額を重ねた。

「美羽。」

低い声が胸の奥に直接響く。

「何があっても、俺はずっとお前が好きだ。」

美羽の目が大きく見開かれた。

椿は続けた。

「銀狼がどうだろうと、
誰が何をしようと、この先、
俺の気持ちは変わらねぇ。」

「……椿くん……」

「怖いなら言え。
不安なら全部話せ。
俺は、お前を守るためにここにいるんだ。」

椿の言葉は、
美羽の傷ついた心を優しく包み込んだ。

涙がまた溢れたが、
今度の涙は、痛みではなかった。

「…椿くん、…好き。大好きなの……」

「はっ、知ってる。」

椿は微笑んで美羽を抱きしめ直し、
背中を何度も優しく撫でた。

「ありがとう、椿くん…」

外は、ゆっくり夕暮れが近づいていた。
部屋の中は静かで、
ふたりの鼓動だけが聞こえる——

まるで世界にふたりきりになったように。