美羽の身体から、足の力がすうっと抜けていく。
胸は激しく上下し、
喉の奥がひゅっと鳴った。
「はぁ……はぁ……っ……」
震える指先が、首の後ろへ触れた瞬間、
「いっ……!」
鋭い痛みが走った。
怜に噛まれた痕。
その中心には、薄く血がにじんでいた。
(嘘……でしょ。
あれを……“冗談”みたいに言えるの……?)
床にへたり込んだ美羽は、
震える両手で首元を押さえたまま、
必死に呼吸を整えようとした。
けれど、怜の低く冷たい声は、
耳の奥にへばりついて離れない。
"北条椿を殺すのもありかな。"
ぞくり。
心臓の奥に氷柱のような恐怖が刺さった。
(椿くんに……危害が……?
そんなの、ダメ……絶対……!!)
涙が滲む。
けれど――
怜のもうひとつの声が脳裏にこびりついていた。
"君が欲しい。
僕のお姫様になってほしい。"
(なんで……
どうして、私なんか……?)
あの日の怜は、雨の下で震えていて、
弱々しくて、放っておけなくて。
(なのに……今日の怜くんは……
まるで別人みたいで……)
獣みたいな目で、
獲物を狙うみたいに美羽を見ていた。
(“黒薔薇の姫”だから……?
それとも……最初から私を狙って……?)
首筋がズキッと痛み、
熱い涙がぽたりと落ちた。
美羽は膝を抱え、
額をぎゅっと押しつける。
「どうしたら……
どうしたらいいの……?」
怜の言った“取引”。
黒薔薇に危害を加える。
椿を殺す。
(あれ……冗談じゃなかった。
怜くんの目、完全に“本気”だった……)
震える肩を抱きしめながら、
頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。
(……椿くんに話したら……
絶対、怜くんと戦う……!
そんなの……怖い……!
椿くんが傷ついたら……もっと怖い!!)
――その瞬間だった。
スマホが震え、
静かな部屋に電子音が響く。
美羽はびくっと肩を揺らし、
震える手でスマホをとる。
画面には――
『家、ついたか?』
椿からだった。
ドクン、と心臓が跳ねる。
(会いたい……
椿くんに今すぐ会いたい……)
けれど――
鏡の中の自分の首を思い出す。
真っ赤に噛まれた跡。
それを見た椿の反応を想像した瞬間、
胃の奥がぎゅっと締めつけられた。
(見られたら……絶対怒るよね……
椿くん、私のこと嫌になっちゃうかも……)
頬を伝う涙が、ぽたぽたとスカートを濡らす。
「……こんな……ちょっとしたことで……
怖いって、思うなんて……」
椿の笑顔が浮かぶ。
いつも美羽の名前を呼ぶ声。
優しく頭を撫でる手。
照れたときの横顔。
思い出した瞬間、
胸がぎゅうっと締めつけられた。
「私……椿くんのこと……
こんなに好きになってたんだ……」
ぽつりと落ちた言葉は、
部屋の空気に溶けて消えた。
少し考えたあと、
震える指でメッセージを打つ。
『うん、着いたよ!
大丈夫!ありがとう、椿くん♪』
送信ボタンを押したあと、
胸の奥がきゅっと痛む。
本当のことなんて言えない――
言ったら、椿が壊れてしまいそうで。
*
お風呂場の湯気に包まれながら、
美羽はゆっくりシャワーを浴びた。
「っ……痛っ……」
水が首筋の傷に触れるたび、
ヒリヒリと焼けるような痛みが走る。
(首の痛みより……
心のほうが……ずっと痛い……)
シャワーの音に紛れて、
涙が頬を伝っていく。
(恋って……
こんなに弱くなるものなの……?
私……今までこんなだったっけ……?)
椿の顔を思い浮かべた瞬間、
涙はさらに溢れた。
(会いたい……
でも怖い……椿くんに嫌われるのだけは……イヤ……)
美羽は両手で顔を覆い、
しばらく泣き続けた。
*
どれだけ布団を被っても、
怜の言葉と椿の顔が頭から消えなかった。
気づけば窓の外が明るくなり、
鳥が鳴いている。
「……学校なんて行けないよ……」
重たい身体を起こし、
階下へ降りていく。
母親は心配そうに、
「美羽?大丈夫?」
「う、うん……ちょっと……頭痛くて……
きょう休む……」
「また風邪?しょうがないわねぇ。
明日は行きなさいよ?」
「……うん。」
自室に戻った美羽は、
スマホを取り出し、莉子にメッセージを書く。
(本当のことなんて絶対言えない……
言ったら……大騒ぎになる……
椿くんだって気づく……)
しばらく悩んでから、打ち込む。
『莉子、女の子の日でしんどいから今日は休むね。
椿くんには絶対言わないで。』
送信。
(……これなら、椿くんも来ないはず……
気まずいし……顔、合わせたくない……)
美羽は布団に潜り込み、
胸を押さえた。
(どうしよう……
こんなに椿くんが好きなのに……
こんな時に限って、会うのが怖いなんて……)
涙がまた一粒、枕に落ちた。



