朝の光は、まだ少しだけ冬を引きずったみたいに冷たくて、でも空気の端っこには、確かに春の匂いが混じっていた。

美羽は、ベッドから勢いよく起き上がった拍子に少しふらついたが、
「とりあえず、治ってる……よね?」
と自分に言い聞かせるように呟いた。

昨日までの熱の名残はほとんどなく、体温計の数字も平熱に戻っていた。
鏡の前に座って髪を結びながら、美羽はひとつ息をつく。

(昨日……椿くん、急に帰っちゃったけど……)
(やっぱり、あの会話、気まずかったのかな……?)

熱でぼんやりした頭で口にした言葉。
椿の耳が、ほんのり赤くなった瞬間。
そして――

『……治ったら覚えとけよ』

あの情熱的すぎる囁き。

思い出した瞬間、美羽の耳まで熱くなる。

「っ、ああああ!思い出すだけで恥ずかしいってば……!」

そんな美羽の叫びが家の廊下に響いたが、
リビングにはもっと大きな“問題児”がいた。

「うう……俺の……俺の可愛い美羽が……」

美羽の父が。
会社のスーツ姿のまま、新聞を涙でずぶ濡れにしながら座り込んでいた。

「パパ、泣きすぎ。新聞が溶けちゃうよ?」

「だってぇぇぇ……美羽に彼氏がぁ……!初恋の相手はパパって言ってたのにぃ……!!」

「言ってないよそんなの!」

真剣な悩みモードの父を放置して、美羽は鞄の中身を確認した。

「あれ?定期券が……ない……」

何度見直しても、やっぱりない。

財布の隙間も、いつも入れるポケットも全部確認したが、影も形もなかった。

「あー……これ、絶対あの日に落としたんだ……」

雷が鳴る中、雨に濡れて倒れていた青年にハンカチを差し出した、あの公園のベンチ。
あのとき、急いで帰って――定期券が落ちた可能性は十分すぎるほどある。

「うっそ、やばい。これはママに怒られる案件だよね……!?」

そんなわけで、美羽は父を置いて早めに家を出た。


公園につくと、朝の柔らかい光に草の雫が光っていた。
昨日までの雨が嘘みたいだ。

「どこ……?絶対この辺なんだけど……」

しゃがみ込みながら必死に探すが、定期券は見つからなかった。

「はああ……どうしよう。ほんとに無いじゃん……」

額に手を当て、美羽は天を仰ぐ。

(それにしても……一昨日のあの人……大丈夫だったかな)

傘もささず、雨に濡れて震えていた青年。
「天使?」なんて意味不明なこと言ってたけど、きっと熱とか怪我とかで朦朧としてたのだろう。

心配しながらも、公園に長居もできず、仕方なく駅に向かった。

階段を上がると――そこに椿がいた。

今日も黒薔薇王は、世界の彩りを変えてしまうほど眩しい。

「おはよう!椿くん!」

思わず駆け寄ると、椿は美羽を見て、ふっと優しく目を細めた。

「はよ。……もう平気なのか?」

その声音が、昨日の心配を全部溶かしてくれるみたいで。

美羽は胸の奥がじんわり熱くなる。

「うん!熱も下がったし、元気だよ!」

「……そっか。良かったな。」

そう言うと、椿は当たり前みたいに美羽の手を取った。

美羽の心臓は、当然のように跳ねる。

(なんでこう……自然にできるの……?)

通学路を歩く二人の姿を見て、後輩たちがざわざわしているのが聞こえる。

「椿先輩!今日もかっこよ……うわ、手繋いでる……!」
「雨宮先輩……めっちゃ可愛い……」
「リア充爆発しろぉ……」

美羽は耳まで真っ赤になりながら、学校へ向かった。


教室に入ると、莉子が勢いよく駆け寄ってきた。

「美羽〜!大丈夫だったの?心配したよぉ!」

「ありがとう、莉子。ほら、熱もすっかり下がったし、大丈夫だよ。」

莉子は急に顔をニヤつかせ、

「で?黒薔薇王子のお見舞いはどうだったの?」

「な、なんで知ってるのよ!?」

「だってぇ〜遼くんが言ってたもん。椿くん、放課後ダッシュで帰ったって!」

美羽は真っ赤になり、机に突っ伏した。

「も〜普通のお見舞いだからっ!もうやめて!」

「はいは〜い。でもねぇ、椿くんが美羽の家に行ったってだけで、もうご飯三杯いけるわ~。」

「ご飯のおかずにしないでよ!」

莉子は「ふふん」と笑って席に戻った。




美羽はしばらく心臓の鼓動を落ち着かせ、昼休みになったタイミングで図書室へ向かった。

休んだ分のレポート課題の資料を探すためだ。

図書室の本棚は高くて広くて、経験の浅い美羽にはまるで迷路に思えた。

「あれ〜……この辺りって書いてたのに……」

端から順番に探していくと――

「あ、あった!」

目当ての本を見つけたけれど、指先ぎりぎりで届かない。

「あと……1センチなのに……!」

その瞬間。

すっと後ろから伸びる腕。

本が取られ、そのまま美羽の前に差し出された。

「ほら。これだろ。」

低くて落ち着いた声。

美羽ははっと振り返る。

「え!ありがとうございます!……って、椿くん!?」