心の温かい毎日が続いていた。休みの日には外で会って、いつでも隣に知亮先輩がいた。
 ある日、放課後に江島先輩に呼び出された。行きたくなくて、でも知亮先輩に送り出されてしまったので渋々江島先輩のクラスに向かう。教室にふたりきりになって身体が強張る。

「おまえ、俺が好きなんだろ。つき合ってやるよ」
「……」

 なにさまだ、と思うような発言に眉を顰める。以前の俺ならば、そんなところも恰好いいと思っていたのかもしれない。

「これで倉田の悔しがる顔が見られる」

 ほくそ笑んでいる姿に吐き気がする。

「知亮先輩は悔しがったりしませんよ」
「は?」
「知亮先輩が俺とつき合っていたのは、ふりだからです」
「ふり……?」

 訝しげに顔を歪める江島先輩が、俺のずっと好きだった人だと思うと胸くそ悪い。江島先輩の目を見ずに答える。

「知亮先輩とつき合ってるふりをすれば江島先輩が奪いに来るだろうから結果としてつき合える。自分を利用してって知亮先輩に言われたんです」
「な……っ」

 江島先輩の顔がみるみる真っ赤になっていく。それが怒りからだというのはその表情の険しさでわかった。そばにある机を拳で叩き、それから笑い出す江島先輩を気味悪く感じる。

「おまえ、騙されてんだよ」
「え……?」
「倉田はずっとおまえを見てた」

 言葉の意味がわからず「まさか」と返すが、江島先輩は頭を振る。

「俺をずっと見てるおまえを倉田が見てたことを知ってる」

 自慢げに言い放たれ、信じられない気持ちになるが、同時にすっと納得できた。名前を知っていたことも、俺のことをずっと知っていたのならばおかしいことではない。

「あんな目で見てたくらいだから、倉田はよっぽどおまえが好きなんだろうな」

 強引に肩を抱かれて鳥肌が立つ。

「あいつを利用するなんておとなしい顔してやるじゃん」

 江島先輩の声が聞こえない。知亮先輩が俺を好き、まさか――そう考えて頭に浮かぶのはいつでも優しく微笑みかけてくれた姿。

「今から倉田のとこ行ってキスシーンでも見せてやろうか」

 なあ、と抱き寄せられてその手を乱暴に振りほどく。

「あなたみたいなクズを好きだった自分が情けない」

 ぽかんとしている江島先輩に言い捨てて教室を出る。自然と駆け出す足が向かう先は一か所。知亮先輩のところに行かないと。



 知亮先輩の行きそうなところを探すけれど見つからない。もう帰ってしまったのだろうか。
 廊下の窓から中庭を見おろすと、いつもふたりで昼食を食べた木陰に知亮先輩が佇んでいるのを見つける。慌てて方向転換して中庭に向かうが、そこに着いたとき、木に触れて俯いている知亮先輩になんと声をかけていいかわからなかった。ただじっと見つめていると、その視線に気づいたのか、知亮先輩が顔をあげる。

「うまくいった?」

 首を横に振ると、整った顔が驚きの表情に変わる。

「俺が江島先輩をふりました」

 信じられない、と言うように俺をじっと見つめる瞳は不安の色をたたえている。まっすぐに見つめ返すと視線が絡まり、すぐに知亮先輩が目を逸らした。

「どうして? 柚くんは江島が好きだったんでしょ?」
「答える前に知亮先輩の話を聞かせてください」
「俺の話?」

 首を傾げる知亮先輩の瞳を強く見つめる。その表情の変化のひとつも見逃さないという気持ちでただ知亮先輩だけを見る。周りの風景も霞んでいく。

「知亮先輩の目的はなんですか?」
「……」

 口を噤む姿を見ながら、問いを重ねる。

「なにが目的で俺とつき合っているふりをしたんですか?」

 知亮先輩の目をまっすぐ見て聞くけれど、もう一度交わった視線はまた一方的に絶たれた。顔を背けた知亮先輩は首を横に振る。

「俺は知りたいです。江島先輩が、知亮先輩は俺を見ていたと言ってました」
「……余計なことを」

 苦々しい表情をする知亮先輩に一歩近づいてさらに問いかける。

「知亮先輩の目的は、なんですか?」

 じっと見つめると、自分の髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた知亮先輩が負けた、と言うように俺に視線を戻してくれる。

「俺の目的は、柚くんといること」
「……」
「利用されてもなんでも、たとえたったひとときでも柚くんといたかった」

 せつなげに歪んだ表情に胸が締めつけられる。きゅっと痛む心が知亮先輩を抱きしめたいと言っていて、伸ばしそうになった腕を留める。
 知亮先輩は心細そうに微笑み、俺に触れようとしてその手をぐっと握り込む。

「あるとき、江島を見てるきみに気づいて気になっていった。注意して見てるとよく江島を見ていて、好きなんだなって思った」
「……はい」
「江島ばかり見ていて段差で躓いたり、持っているものを落としたり、あぶなっかしい子だなと思って気になって仕方なかった」
「……」

 そんなところを見られていたのか。恥ずかしさに頬がじんわり熱を持つ。

「気がつけば柚くんばかり見ていた。学年とクラスがわかったら、同じクラスの子にさりげなくきみの名前を聞いたりもした。そのうち柚くんにも俺を見て欲しいと思うようになった……好きになっていた」

 大きく息を吐き出し、苦しそうに目をぎゅっと閉じる知亮先輩から語られる真実に心臓が跳ねて暴れる。

「だから柚くんが江島に告白するところを見かけて、このチャンスを逃しちゃいけないと思った。利用してとお願いすればきっときみは断れない。柚くんといたくて、俺はずるいことをしたんだ……」
「そんな、ずるいなんて……」

 そんなふうには感じない。ただ不器用で、それだけ俺を好きでいてくれたということだ。

「柚くんといた時間は夢にまで見た幸せな時間だった。……いや、想像した以上だった。たったひとときのつもりが、ずっと江島が奪いに来なければいいと思った」
「そう言ってくれたらよかったのに……」
「言えないよ。俺がどんなに柚くんを好きでも、きみは江島が好きなんだから」

 ぎゅっと目を閉じ、唇を噛む知亮先輩の手は小さく震えている。

「なんで江島をふったの? 俺はまた柚くんといたいと思ってしまう……きみのことをもっと知りたいと思ってしまう」

 知亮先輩の中では、もう俺との時間は終わっている。自分の行く先と俺の行く先が交わらないと思っている。
 どうしたらいいだろう。どう言ったら伝わるだろう。

「……俺は知亮先輩の未来を変えられますよ」

 いつか言われた言葉を口にすると、正面に立った人は目を見開く。

「知亮先輩が終わりだと思った俺との時間を続けられるようにすることが、俺にはできます」
「……できるの?」

 信じられない、と顔に書いてある。でもその瞳は期待にゆれている。

「できます。だって俺も知亮先輩が好きだか――」

 すべて言い切る前に抱きしめられた。力強い腕の中に閉じ込められ、知亮先輩を見上げると震える手で頬を撫でられる。

「俺の未来を変えてくれるの?」
「はい。あなたの未来を変えます」

 頬を撫でる手を握ると、知亮先輩の顔が近づいてきて優しく唇が重なった。唇が離れ、泣き出しそうな微笑みが目の前にある。

「信じられない……」

 声を震わせる知亮先輩の背中に腕を回し、広い胸に顔をうずめる。

「信じてください。知亮先輩の未来には俺がいます」

 顎を持たれ、そっと目を閉じるともう一度唇が重なった。