「雨ですから、玄関で傘をお渡ししますね。返してくださる必要はありませんから、どうぞ、持って帰ってください」
景の切ない微笑みは続いた。
鬼は、自分が今どんな顔をしているのか想像もつかなかった。
操られたように、ぼうっとしながら景の後をついて長い廊下を渡り、玄関まで進む。景は約束通り玄関脇にたたんである傘の中から一本を選び、それを鬼に向かって両手で差し出した。
「どうぞ」
まるで、傘と一緒に己の心を差し出そうとしているような、景の表情と仕草だった。
他に人影は見当たらない。門まで行けば警備がいるのだろうが、ここは鬼と景のふたり以外まったくの無人だった。
殺そうと思えば一思いに殺せる。今は絶好の機会だ。
しかしそれを言えば、三日の間ずっと、機会は目の前にぶら下がっていた。鬼は自らすすんでそれを取らなかったのだ。いまさら、それを変えようとも思えない。なんとも説明しがたい重い霧のようなものが、鬼の胸のあたりにつっかえて離れなかった。
鬼は景から傘を受け取り、健気なほどまっすぐに向けられた彼女の瞳をのぞき込んで、息を止めた。
──景から、離れる。
その単純で、取るに足らない『はず』の事実が、しかし、足元の地面をすべて切り崩されたように鬼を動揺させた。
そのまま底のない暗黒の奈落の底に落ちていくような、おぞましい感覚に襲われる。
そして鬼は、どういうわけか心のどこかで、この墜落を止める唯一の方法を知っているのだ。
──景の手を取ること。
「礼を言う」
と、短く答えた鬼は、そのまま景に背を向けると静かに玄関を開けた。

