『今だけお許しください』
どれだけこの台詞が自分の心と外れたところにあるのか、景は気が付いていた。
そしてこれほどまでに鼓動がはやる理由が、今ここで、景の隣を歩いている男性だということにも、薄々気が付いていた。
義母が現れてからというもの、景の人生は色を失い、すべてが灰を被ったように重苦しいものになっていたから、こんなふうに誰かに心をそそられる体験は本当に久しぶりだった。どこの誰だか知らないが、景を襲おうとした暴漢に、ほんの少し感謝したいくらいだ。
あの時は本当に恐ろしかったが、千代を尋ねたあと、景は落ち着きを取り戻していた。
そして、鬼の存在に安らぎを見いだしていた。
暴漢そのものと同じように、鬼はまったく予想のつかないところから、いきなり稲妻のような早さで景の前に現れた。そして戦った。
景に詳しい剣術の知識はなかったが、それでも鬼が素晴らしく強いのだけは分かった。
彼の着物の衿からのぞく首はそれだけで力強く、袖から出ている腕のなんとたくましいことよ。濃い紺の着物はそれなりに上質のもののように思えたが、彼の強靭な肉体を隠しきれてはいない。
そして、彼の瞳。
彼の声。

