鬼景色



 名前だ、と鬼は理解することにした。
 ケイという響きが、過去を思い出させるからだ、と。

 鬼は静かに少女を見下ろし、「大丈夫か」と訊いた。
 少女はしばらく口をぱくぱく動かし、なにがしかを答えようとしているようだったが、声にはならず。地面についた細い手が、恐怖と緊張に震えているのが見えた。
 鬼はまったく表情を変えず、無言で彼女に片手を差し出した。

「あ……」
 と、少女は呟きながら、ゆっくりと鬼の手を取る。
「ありがとう……ございます」

 間近で聞く少女の声には、不思議な響きがあった。
 なにがどう、と聞かれても答えは無かったが、その声は鬼の耳をくすぐり、心臓のあたりに熱い焼き印を押しつけられたような圧迫を与えた。痛みといっていいかもしれない。

 そうだ。少女の声は、鬼の心臓に痛みを与えた。

 少女は鬼の手に助けられ、ふらふらと立ち上がると、鬼を見上げた。
 着物の裾からのぞく震えた足下から、鬼は少女がすぐに寄りかかってくるのではないかと予想していたが、意外にも彼女は気丈に自分を支えて立っている。

「助けて、いただいたのですね」
 鬼は答えなかった。
 確かに、今しがた鬼がとっさに取った行動は、少女の命をいくぶんか延ばしはしたのだろう。だから鬼は否定も肯定もしなかった。

 往来の人々が遠巻きにふたりを囲んでいる。
 ある者は鬼の刀さばきに驚愕して佇んでおり、またある者は、なにが起きたのかほとんど分からないで呆然と目を見開いていたりした。鬼は人の目を気にする男ではなかったが、職業柄、大勢に注目されるのは避けたい。鬼はここを去るべきだと分かっていた。

「さっさと屋敷に帰るがいい。一人で外をうろつかないことだ」

 それだけ言うと、鬼はきびすを返し、歩き去ろうとした。
 しかし、少女はハッとしたような、反射的な動きで、鬼の手をきつく握り直して追いすがった。

「ま、待ってください。お礼を……お礼をさせていただかないと」
 鬼ならたとえ少女が百人束になっても振り切ることができたはずだった。しかし現実には、鬼は少女に握られた手に反応し、足を止めていた。
「必要ない」
 その理由の説明もなく、鬼はきっぱりと言い放った。