早速彼が常行にあれこれ指示をする様を見つめながら、朱華はかすかに震える手をぎゅっと握りしめる。
何の心構えもないまま、とんでもないことに巻き込まれてしまった。風峯が企てていることは大逆であり、龍帝に対する明確な謀反だ。彼に協力することはまったく本意ではないものの、断れない状況なのだからあのように答えるより他がない。
(おそらくわたしは、このお屋敷に雇われたことが間違いだった。よそより幾分高い給金につられて来てしまったけれど、もしかしたらこの方は手駒として使える若い娘をずっと探していたのかもしれない)
母を取り巻く環境が改善されることにホッとする半面、自分が逃げられない袋小路に迷い込んだように思え、心細くなる。
そんな朱華を見つめ、風峯が上機嫌で言った。
「そなたにはこれから、この屋敷に住んでもらう。そして半年後を目途に、華綾の采女にふさわしい所作や知識を身に着けるのだ。そのあいだに私は養女として迎えるための法的な手続きや出仕の手筈を整えるゆえ、心するように」
「……はい」
「朱華。期待しているぞ」
風峯の前から退出した朱華は、家令の常行から「今日はもう帰っていい」と告げられて屋敷を出る。
赤い柱と白い壁、瓦屋根が印象的な大豪邸が軒を連ねる区画にはそれぞれの門の前に門番がおり、路はきれいに掃き清められていた。
槐の木が植えられた道を歩いた朱華は、石造りの橋を渡って市街地へと入る。夕暮れ時ということもあり、大路はまだたくさんの人々や行商人、旅人などでにぎわっていた。
その喧騒から離れて脇の路地に入り、しばらく歩いたところにある長屋の戸を開けると、そこには母の桔梗がいる。
「おかえりなさい、朱華。今日は早かったのね」
「ただいま、お母さん」
中は二部屋しかなく、入ってすぐのところに水が入った甕や竈のある土間があり、彼女はそこで何やら煮炊きをしていた。
朱華は慌てて母を押し留め、声をかける。
「お母さん、立ち動いたりしては体調を崩すわ。こういうことは、わたしが帰ってきてからするって言ったでしょう」
「あなたが外で働いてくれているのに、私が何もしないわけにはいかないわ。今日はね、ご近所から分けていただいた野菜で汁物を作ったの。市場で美味しそうな鴨の肉があったから、それを買って入れたのよ。きっといいお出汁が出てるわ」
「えっ」
わざわざ肉を買ってきたのだと知って、朱華は言葉を失う。
正直なところ、自分たちの暮らしにそんな余裕はない。できるだけ出費を切り詰めなければ家賃も払えない有様だが、桔梗の無邪気な顔を見るとそうは言えなかった。
何の心構えもないまま、とんでもないことに巻き込まれてしまった。風峯が企てていることは大逆であり、龍帝に対する明確な謀反だ。彼に協力することはまったく本意ではないものの、断れない状況なのだからあのように答えるより他がない。
(おそらくわたしは、このお屋敷に雇われたことが間違いだった。よそより幾分高い給金につられて来てしまったけれど、もしかしたらこの方は手駒として使える若い娘をずっと探していたのかもしれない)
母を取り巻く環境が改善されることにホッとする半面、自分が逃げられない袋小路に迷い込んだように思え、心細くなる。
そんな朱華を見つめ、風峯が上機嫌で言った。
「そなたにはこれから、この屋敷に住んでもらう。そして半年後を目途に、華綾の采女にふさわしい所作や知識を身に着けるのだ。そのあいだに私は養女として迎えるための法的な手続きや出仕の手筈を整えるゆえ、心するように」
「……はい」
「朱華。期待しているぞ」
風峯の前から退出した朱華は、家令の常行から「今日はもう帰っていい」と告げられて屋敷を出る。
赤い柱と白い壁、瓦屋根が印象的な大豪邸が軒を連ねる区画にはそれぞれの門の前に門番がおり、路はきれいに掃き清められていた。
槐の木が植えられた道を歩いた朱華は、石造りの橋を渡って市街地へと入る。夕暮れ時ということもあり、大路はまだたくさんの人々や行商人、旅人などでにぎわっていた。
その喧騒から離れて脇の路地に入り、しばらく歩いたところにある長屋の戸を開けると、そこには母の桔梗がいる。
「おかえりなさい、朱華。今日は早かったのね」
「ただいま、お母さん」
中は二部屋しかなく、入ってすぐのところに水が入った甕や竈のある土間があり、彼女はそこで何やら煮炊きをしていた。
朱華は慌てて母を押し留め、声をかける。
「お母さん、立ち動いたりしては体調を崩すわ。こういうことは、わたしが帰ってきてからするって言ったでしょう」
「あなたが外で働いてくれているのに、私が何もしないわけにはいかないわ。今日はね、ご近所から分けていただいた野菜で汁物を作ったの。市場で美味しそうな鴨の肉があったから、それを買って入れたのよ。きっといいお出汁が出てるわ」
「えっ」
わざわざ肉を買ってきたのだと知って、朱華は言葉を失う。
正直なところ、自分たちの暮らしにそんな余裕はない。できるだけ出費を切り詰めなければ家賃も払えない有様だが、桔梗の無邪気な顔を見るとそうは言えなかった。
