朱華の心臓が、ドクリと音を立てる。
この官人が近づいてきた目的が龍帝暗殺を急かすためだと気づき、みるみる緊張が高まった。
周囲のにぎわいの中、彼は朱華にだけ聞こえる声で言葉を続ける。
「今でも充分、陛下に接近できているはずだ。もしいつまでも実行しない場合は、お前の母の命はないと思え」
「……っ」
弾かれたように振り向いた瞬間、官人は踵を返して行き交う人の中に紛れていくところだった。
結局彼がどんな人物か確かめることができなかった朱華は、蒼白な顔でその場に立ち尽くす。
(わたしは……今まで自分が皇極殿に出仕する代わりに、風峯さまがお母さんの面倒を見てくれているのだと思ってた。わたしの働きに対する感謝なんだって……。でもその認識は間違っていたんだわ)
風峯が桔梗の面倒を見てくれていたのは親切心からではなく、朱華がなかなか計画を実行に移さないときに人質として使うためだ。
今さらながらにその事実に気づき、朱華は自分の甘さを痛感して忸怩たる思いを噛みしめる。
華綾の采女として働いているあいだは自由に皇宮から出ることは許されておらず、月に二回ある休みの日に母の様子を見にいくしかないが、その予定はまだまだ先だ。
おそらくは彼女の生活の面倒を見てくれている女中が監視を兼ねており、朱華がいつまでも暗殺を実行しなければ桔梗に危害を加えられるのは確実に違いない。
あるいは必要な薬を飲ませず、食事も満足に与えてもらえなくなるということも充分に考えられる。
ありとあらゆる悪いことを想定しながら、朱華は鋏を持つ手にぐっと力を込めた。
(どうしよう。わたしが何か行動を起こそうとしなければ、さっきの官人が風峯さまに告げ口する。だからといって、龍帝陛下を殺すなんてわたしにはできない)
そのとき少し離れたところで仕事をしていた美月が、こちらに気づいて声をかけてきた。
「どうしたの、朱華。顔が真っ青だけど、どこか具合でも悪い?」
「あの……」
言いよどんだ瞬間、そこにやって来た風花が水切りを終えた花を抱えながら淡々と言う。
「あら、朱華はきっとお疲れなのよ。自分の仕事が途中でも毎日龍帝陛下に呼ばれていって、さぞかし大変なのだと思うわ」
彼女の口調には棘があり、朱華は驚いて風花を見つめる。
美月が慌てた顔で制止した。
「そんな言い方はよくないわよ。朱華だって、陛下からお呼びがあれば断れないんでしょうし」
「ええ、そうでしょうね。采女として出仕したばかりなのに、すぐさま陛下のお気に入りになるなんて、一体どんな手を使ったの? やっぱり内蔵頭である父君のお力で、依怙贔屓してもらったってことなのかしら」
「それは……」
この官人が近づいてきた目的が龍帝暗殺を急かすためだと気づき、みるみる緊張が高まった。
周囲のにぎわいの中、彼は朱華にだけ聞こえる声で言葉を続ける。
「今でも充分、陛下に接近できているはずだ。もしいつまでも実行しない場合は、お前の母の命はないと思え」
「……っ」
弾かれたように振り向いた瞬間、官人は踵を返して行き交う人の中に紛れていくところだった。
結局彼がどんな人物か確かめることができなかった朱華は、蒼白な顔でその場に立ち尽くす。
(わたしは……今まで自分が皇極殿に出仕する代わりに、風峯さまがお母さんの面倒を見てくれているのだと思ってた。わたしの働きに対する感謝なんだって……。でもその認識は間違っていたんだわ)
風峯が桔梗の面倒を見てくれていたのは親切心からではなく、朱華がなかなか計画を実行に移さないときに人質として使うためだ。
今さらながらにその事実に気づき、朱華は自分の甘さを痛感して忸怩たる思いを噛みしめる。
華綾の采女として働いているあいだは自由に皇宮から出ることは許されておらず、月に二回ある休みの日に母の様子を見にいくしかないが、その予定はまだまだ先だ。
おそらくは彼女の生活の面倒を見てくれている女中が監視を兼ねており、朱華がいつまでも暗殺を実行しなければ桔梗に危害を加えられるのは確実に違いない。
あるいは必要な薬を飲ませず、食事も満足に与えてもらえなくなるということも充分に考えられる。
ありとあらゆる悪いことを想定しながら、朱華は鋏を持つ手にぐっと力を込めた。
(どうしよう。わたしが何か行動を起こそうとしなければ、さっきの官人が風峯さまに告げ口する。だからといって、龍帝陛下を殺すなんてわたしにはできない)
そのとき少し離れたところで仕事をしていた美月が、こちらに気づいて声をかけてきた。
「どうしたの、朱華。顔が真っ青だけど、どこか具合でも悪い?」
「あの……」
言いよどんだ瞬間、そこにやって来た風花が水切りを終えた花を抱えながら淡々と言う。
「あら、朱華はきっとお疲れなのよ。自分の仕事が途中でも毎日龍帝陛下に呼ばれていって、さぞかし大変なのだと思うわ」
彼女の口調には棘があり、朱華は驚いて風花を見つめる。
美月が慌てた顔で制止した。
「そんな言い方はよくないわよ。朱華だって、陛下からお呼びがあれば断れないんでしょうし」
「ええ、そうでしょうね。采女として出仕したばかりなのに、すぐさま陛下のお気に入りになるなんて、一体どんな手を使ったの? やっぱり内蔵頭である父君のお力で、依怙贔屓してもらったってことなのかしら」
「それは……」
