ふた月前まで、朱華には父がいた。
だが千早台で評判の金銀細工師だった彼は突然「頭が痛い」と言って昏倒し、数日後に呆気なく亡くなってしまった。
しかも店の商品や仕事道具、仕入れの金は父の一番弟子だった男にすべて持ち逃げされ、いまだ捕まっていない。
それまで何不自由ない生活をして〝お嬢さん〟と呼ばれていた朱華は病弱な母を抱え、生きていくために高価な着物や装飾品を質に入れて金を作る一方、必死で仕事を探した。
そうして見つかったのが、風峯の屋敷の下働きという職だ。しかし決して多いとはいえない給金は、日々の食費と母の薬代だけであっという間に底を尽く。
心臓に病を抱えている母は「私の薬のことは気にしないで」「無理をしなければ痛まないから、飲まなくても平気よ」と言うが、朱華は彼女のことが心配でたまらなかった。
健康そのもので風邪ひとつ引かなかった父は、突然の病で亡くなった。元々臥せりがちだった母もいつそうなるかわからず、できれば薬はずっと飲み続けてほしい。
(とはいえ、今の給金だと食費を切り詰めなければ相当苦しいわ。何か他の仕事を掛け持ちするべきなのかもしれない)
ため息をついて釣瓶を戻し、重い桶を持ち上げて運ぶ。
そして屋敷の裏口から厨房に苦労して運び込むと、ふいに古参の女中が声をかけてきた。
「どこに行っていたの、朱華。旦那さまがお呼びだから、急いで奥の間に行ってちょうだい」
「あの、でもわたしは、今汲んできたばかりの水を甕に移さなくてはならなくて」
「そんなのはあとでいいわ。ほら、早く」
いきなりそんなことを言われ、朱華は動揺しながら呼ばれた理由を考える。
もしかして自分は、何か粗相をしたのだろうか。「もう仕事に来なくていい」などと言われたら、母と二人で路頭に迷ってしまう。
そもそもこの屋敷の主である風峯とは会話をしたことがなく、雇用するに当たっての面接は家令が対応していた。つまりいきなり名指しで呼びつけられる心当たりは微塵もないため、嫌な想像ばかりが脳裏をよぎる。
磨き上げた廊下を歩いた朱華は、奥の間の前までやって来た。そして髪や着物の乱れをそそくさと直し、深呼吸をすると声を上げる。
「失礼いたします。お呼びと伺い、参上いたしました」
「入れ」
だが千早台で評判の金銀細工師だった彼は突然「頭が痛い」と言って昏倒し、数日後に呆気なく亡くなってしまった。
しかも店の商品や仕事道具、仕入れの金は父の一番弟子だった男にすべて持ち逃げされ、いまだ捕まっていない。
それまで何不自由ない生活をして〝お嬢さん〟と呼ばれていた朱華は病弱な母を抱え、生きていくために高価な着物や装飾品を質に入れて金を作る一方、必死で仕事を探した。
そうして見つかったのが、風峯の屋敷の下働きという職だ。しかし決して多いとはいえない給金は、日々の食費と母の薬代だけであっという間に底を尽く。
心臓に病を抱えている母は「私の薬のことは気にしないで」「無理をしなければ痛まないから、飲まなくても平気よ」と言うが、朱華は彼女のことが心配でたまらなかった。
健康そのもので風邪ひとつ引かなかった父は、突然の病で亡くなった。元々臥せりがちだった母もいつそうなるかわからず、できれば薬はずっと飲み続けてほしい。
(とはいえ、今の給金だと食費を切り詰めなければ相当苦しいわ。何か他の仕事を掛け持ちするべきなのかもしれない)
ため息をついて釣瓶を戻し、重い桶を持ち上げて運ぶ。
そして屋敷の裏口から厨房に苦労して運び込むと、ふいに古参の女中が声をかけてきた。
「どこに行っていたの、朱華。旦那さまがお呼びだから、急いで奥の間に行ってちょうだい」
「あの、でもわたしは、今汲んできたばかりの水を甕に移さなくてはならなくて」
「そんなのはあとでいいわ。ほら、早く」
いきなりそんなことを言われ、朱華は動揺しながら呼ばれた理由を考える。
もしかして自分は、何か粗相をしたのだろうか。「もう仕事に来なくていい」などと言われたら、母と二人で路頭に迷ってしまう。
そもそもこの屋敷の主である風峯とは会話をしたことがなく、雇用するに当たっての面接は家令が対応していた。つまりいきなり名指しで呼びつけられる心当たりは微塵もないため、嫌な想像ばかりが脳裏をよぎる。
磨き上げた廊下を歩いた朱華は、奥の間の前までやって来た。そして髪や着物の乱れをそそくさと直し、深呼吸をすると声を上げる。
「失礼いたします。お呼びと伺い、参上いたしました」
「入れ」
