夕陽が差し込む教室。

 四月の柔らかい光が机の端を染め、風で揺れるカーテンの影がゆらりと揺れる。
 
 俺、神谷優斗は、窓際の席に腰を下ろし、ぼんやりと外を眺めていた。桜の花びらが校庭の土に落ち、風に舞っては淡いオレンジ色の光の中で散る。

 (……なんだろう、胸騒ぎがする)
 
 理由はわからない。
 新学期の忙しさやクラスの雰囲気なら、まだ馴染めないせいかもしれない。
 
 ……でもそれだけじゃない。
 心の奥で、何かが欠けているような気がする。
 ……忘れたはずの何か、大切な何かを置き去りにしてしまったような――そんな感覚がする。

 「神谷ー、帰らないのか?」
 
 横の席から声がかかる。隣に座る友人が、笑顔で下校の支度をしている。優斗は小さく手を振って返事をした。

 「うん、もう少し残ってる」
 
 でも、胸のざわつきは消えない。まるで胸の奥に小さな鳥が棲んでいて、落ち着かず羽ばたき続けているかのようだった。
 
 そのとき、教室のドアが静かに開いた。
 振り返ると、そこに立っていたのは見知らぬ女子生徒。
 
 黒い長髪。
 無表情。
 長い睫毛に縁取られた瞳は、冷たく澄んでいて、何かを強く主張しているようだった。

 ……誰だ?
 
 名前も、顔も、話したこともない。同学年であること以外、何も知らない少女が、迷いなくこちらに向かって歩いてくる。

 「……?」
 
 クラスのざわめきが一瞬止まる。数名の友人が目を丸くして何事かとこちらを見つめている。
 だが少女は誰にも目もくれず、一直線に優斗の席まで歩いた。
 
 そして、止まり、静かに告げた。

 「――あなたは、私が好きだったよ」
 
 教室の空気が一瞬で凍る。
 
 「……は?」
 
 思わず口が裂けそうになった。
 声が出ない。
 頭の中が真っ白になり、心臓だけが異様に早く打っているのを感じる。
 
 「あなたは、春の公園で私を見て。名前も知らない私に、”初めて恋”をした」
 
 (……初めて……?)

 「五歳の春。桜が散り始めた頃。あなたは私を見て、きれいだと……」
 
 言葉は淡々としている。だが、胸の奥に直接触れるように、心の奥で何かが疼く。

 (なんで……この子の話、懐かしい気がするんだ……?)
 
 ……ありえない。
 この子を初めて見たはずなのに、胸の奥がなぜかぎゅっと締め付けられる。

 「ちょ、ちょっと待て。俺、そんな記憶、覚えてないんだけど」
 
 声は震え、言葉が詰まった。

 「そう。あなたは覚えていない。でも――私は覚えている」
 
 少女はゆっくりと、優斗の机の上に手を置いた。
 その瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走る。

 「これは……何だよ……?」

 「あなたの“初恋の感情データ”を私が持っているの」
 
 「は……?」
 
 意味が理解できず、頭が混乱する。だがその混乱の中で、胸の痛みだけは確かに存在した。

 「あなたの脳波から抽出された初恋データは、極めて純度が高くて、高値で裏取引されていたの」
 
 裏取引?、初恋?、データ?。
 
 どれも現実味のない単語が、目の前の少女の口から現実として飛び込んでくる。

 「俺の……初恋を、裏取引で買ったってことか……?」
 
 少女は静かにうなずいた。

 「はい。私は……あなたの初恋を買った――そして、再現してみせることができる」
 
 心臓が跳ねた。
 
 冗談なら笑う。だが少女の目には冗談の欠片もない。優斗は思わず後ずさる。

 「……なんで、俺の初恋なんだよ……?」
 
 女は静かに答えた。

 「“あなたの初恋”が、ずっと欲しかった。でも、それは私に対する”本物の恋心”じゃない。あなたの”初恋はデータ越しの恋”だから」

 胸の奥に小さな衝撃が走る。言葉の意味が、頭では理解できても、胸の奥では否定できない感覚がある。

 (……なんだ、これ……)
 
 少女はさらに近づき、声を落とした。

 「あなたの初恋は、特別だった。まっすぐで、純粋で、唯一無二の感情。誰にも渡したくない……そう思った」
 
 息が詰まる。
 
 覚えていないはずの感情が、胸の奥で小さな火を灯す。

 「……返せよ、俺の……初恋を」
 
 自然と荒々しくなる声。胸の奥のざわめきが言葉となって漏れ出る。
 
 少女は首を振る。

 「返せない。データは私の中に溶け込んでいる。だって――私はあなたの初恋相手になりたかったから」
 
 その一言で、世界が一瞬止まったように感じた。

 「……は?」
 
 「今のあなたの気持ちじゃなくても、私は……あなたの初恋を体験できる。けど、あなたが持っている本当の恋心は私のものじゃない」
 
 胸が締め付けられる。ぎゅう、と痛む。

 「……どういうことだよ……」

 「私は、”データ越しにあなたを愛している。”だけど、それは私自身の本当の感情じゃない」
 
 その言葉の裏にある、無表情の苦しみが、胸に突き刺さる。
 
 優斗のスマホが震える。
 感情ログが、微弱な恋愛反応を検出したことを知らせる。

 (なんだよ、これ……)
 
 胸の奥が熱くなる。
 少女と話しただけで、心拍数が上がるのを感じる。

 (……まさか……俺、この子に……?)
 
 だが少女の言葉をもう一度思い出す。

 「…………っ!」
 
 つまり、今の胸の高鳴りは俺自身の感情じゃなくてデータのせいかもしれない。
 ……でも、違和感だけは確かに残る。
 懐かしい痛みのような、胸を締め付ける違和感が……。

 「神谷、本当に帰らないのか?」
 
 クラスメイトの声で現実に戻る。
 
 振り返ると、少女はもう教室の出口に向かって歩いていた。声をかけようとしても、喉が詰まる。

 (……俺は、なんで……)
 
 胸の奥にぽっかり穴が空いたような感覚だけが残る。
 机の上には、夕陽に照らされるノートとペンだけが静かに置かれている。

 ♢

 校舎の外、少女は人目を避けるように歩く。

 (……覚えてないんだね、あなたは、本当に)
 
 手のひらには、まだ優斗の初恋の温もりが残っている気がする。

 (私の恋は、本物じゃない……でも、私はこれが欲しかった)
 
 矛盾した思いを抱え、少女は夕日に溶けるように校門を出ていった。
 
 優斗の胸のざわつき。
 少女の抱える”偽物の恋心”。
 
 二人の関係は、まだ始まったばかりなのに、すでに奇妙な“既視感”と切なさで絡まり合っていた。

 ♢
 
 結局、今はクラスメイトと帰るどころではなく誘いを断った。
 放課後の教室。
 窓から夕陽の光が斜めに差し込み、粉塵のように舞う光が空気を赤く染めている。どれだけ経っても胸の奥の違和感は消えず、優斗はスマホを握ったまま、ぼんやりとその光景を見つめていた。

 (……あれは本当に何だったんだろう……)
 
 教室にいたはずの少女の姿はもうない。だが、胸に残る感覚は生々しく、痛みすら伴っていた。
 
 ――なんでこんなに懐かしい気がするんだ。
 
 五歳の頃の記憶だとか、幼稚園の思い出だとか……。
 そんなものを思い出せるはずもないのに、心の奥がざわつき、胸が締めつけられる。
 
 スマホの画面に目を落とす。
 通知が1つ、来ている。

 《感情ログ:4月12日 16:43  “微弱な恋愛反応”を検出しました》
 
 優斗は眉をひそめ、画面を何度も見返す。
 心拍の上昇を感知しているらしい。
 
 しかし、対象は誰だ?
 さっき教室にいた無表情の女の子……か?

 (いやいや、まさか。今日初めて会ったばかりだろ……)
 
 だが胸の奥のざわつきは妙にリアルだった。データ越しの初恋か、それとも……自分の気持ちか。
 
 頭の中でぐるぐると考えが回る。
 そのとき、ふと、思い出した。

 (……あれ? 俺、昔……初恋って、あったっけ?)
 
 スマホを手に取り、意を決して感情ログアプリを起動する。
 これまで自分の感情データを定期的に記録していたのは、好奇心半分、日記代わり半分だった。ログのタイムラインをスクロールすると、異変に気づく。「初恋」とされる期間のデータがすべて欠損している。

 (……え? なんで……)
 
 過去の記録の空白。
 
 幼い頃に抱いたはずの、誰かに向けた恋愛感情のデータが、完全に抜け落ちている。思い出しても、感情は霧のように手の中からこぼれ落ち、形にならない。
 
 頭の中が真っ白になる。
 胸の奥で再び小さな痛みが走る。
 その瞬間、ふと思い出す。
 放課後に教室で聞いた少女の言葉。

 「あなたの初恋は、私が買った――そして再現してみせることができる」
 
 優斗の心臓が強く跳ねる。信じがたいが、現実は目の前のログが示していた。
 
 自分の初恋は、確かにどこかで“奪われた”のだ。

 (……だけど……俺の初恋は……確かに……)
 
 言葉にならない衝撃と、理解できない怒りが同時に胸を駆け巡る。
 でも怒りよりも先に、胸の奥には不思議な懐かしさと、切なさが残った。

 (……なんで、こんな気持ちになるんだ……)
 
 思わず教室の机に手を置き、拳を握りしめる。
 指先に伝わる温度が、わずかに落ち着かせてくれる。
 
 しかし、冷静になろうとしても、頭の中は混乱したままだ。まだ名前も知らない少女に、自分の初恋を語られたのだから。
 
 ――しかも、奪われた初恋の事実まで突きつけられたのだから。
 
 優斗は窓の外を見た。
 夕陽はだいぶ西に傾き、桜の花びらが最後の光を浴びて舞っている。

 (……どうすればいいんだ……?)
 
 誰に相談するわけでもなく、ただ自分の胸の奥にある不思議な痛みと懐かしさに向き合うしかなかった。だが、どこかで、わずかな期待もあった。
 
 ――あの子に、もう一度会えるかもしれない。
 
 そして、奪われたはずの初恋の謎を、直接問いただせるかもしれない。
 優斗は深く息を吸い込む。
 そして心の中で、ひそかに決意する。

 (……あの子が誰なのか、絶対に確かめる。俺の初恋は、俺のものだから……)
 
 放課後の教室は、すでに人気がなくなり、静寂だけが残っていた。
 窓の外では、夕陽に染まる桜の花びらが、ゆっくりと落ちていく。
 優斗の胸のざわつきは、まだ消えない。

 ……けれど、そのざわつきこそが、これから始まる奇妙で切ない物語の入り口であることを、彼自身はまだ知らなかった。