「猫になりたい人〜」
「ハイ」
「んじゃ佐々木でけってーい、……えっ、みんなホントにいいの?」
「いいって何が」
「イヤ猫役だよ?! 超貴重な役じゃん!? 俺演出担当だから涙呑んで譲るしかないんだけど、えっマジで佐々木だけっておかしくね?! 猫に生まれ変わり希望者一人だけ?!」
「あの、高田さん。私も、別に猫に生まれ変わりたいわけじゃ……」

 ああ。風の色がブルーベリー色だなぁ。
 晩春の季節は適度に涼しく、適度に生ぬるく、多くの生き物がのんびり昼寝をするのにちょうど良い頃合いである。
 ワイワイガヤガヤ大盛り上がりの喧騒はみーんな無視。
 暮れかけの日光が柔らかに差し込む空き教室にて、赤間美智はふわりとあくびをした。

 本日のこの騒ぎは一体何かといえば、大学公認部会ミュージカル・サークルの活動である。
 今は前期も始まったばかりで、新入部員はまず大学自体に慣れていかなければならない時期なのだが、このサークルはなかなかテンポよく活動している。
 機材の扱い方や簡単なボイストレーニングの方法の伝授はあっという間に済まし、現在夏休み明けに開催される学芸祭のパフォーマンス準備が始動。現在、役決めのまっただ中だ。

 そろそろ引退の四年。
 活動を引っ張るのは主に三年。
 最も多く劇に関わり盛りだくさんの仕事をこなすのが主に二年。
 ちょっとずつ頑張ろうねの一年。

 全員協力しなければ実現しない『ミュージカル』は、ただの照明係である赤間をも役決めの話し合いに参加させる不思議な催しである。まァ、本当に参加したくないならバックレてもいい。よって赤間がこの場にいるのは、たまたま彼女にやる気があったり他に予定がなくて暇だったりした結果でもあるのだが。

 とりあえず、赤間は配られた台本をペラペラめくった。
 一通りめくり終わって、表紙をもう一度見た。

 うーん。と、唸った。

 タイトル:
 『迷子の猫を探してください!』

 ……分類するとすれば、これはドタバタコメディの部類に入るのだろう、と赤間は思った。

 あらすじはこんな感じ。
 探し屋を営む主人公の元にさまざまな客がやってきて、「〇〇を探してくれ!」と依頼をする。
 具体的には、迷子で泣いている子供、おもちゃのミニカー、結婚式場へ到着前に紛失したケーキ、川に落ちて帰ってこれなくなったお魚消しゴム。そして最後、超絶気まぐれな飼い猫を、主人公は見つけ出すのである。

 この物語の遺失物は基本的に、持ち主の元や保護者の元へ帰りがっている。帰りたいのに帰れなくて、悲しんだり泣いたりしている。
 しかし最後の猫だけは別である。
 気まぐれなので、全く帰りたがらない。むしろ逃げる。全力で逃げて隠れて、その異様に賢い頭脳を使って主人公たちを罠に嵌めたりもする。歌って踊って大暴れ。やりたい放題のしっちゃかめっちゃか。
 結局は、猫自身が大捕物に飽きて、ご飯食べたいなァと思って自分から家に帰ってくる。
 それでようやく一件落着。

 ……だいぶ、猫役のインパクトが強い。

 このミュージカル劇は十年くらい前の代の先輩が作ったものらしいと聞く。どんな人だったのだろう? やっぱり猫好き? それならまァ、もしかすると赤間とも気が合うかもしれない。

 顔を上げた。
 急速に日が落ちていく。窓の外が暗闇に沈んでいくに従って、ここらを吹く風の味までゆらゆらと揺らめいて淡く変化していく。
 色々と考えている間に、ずいぶんと時間が激しく経過していたようだった。

 気付けば、すでに続々と役柄が決定している。

「探し屋ジャンケンはあっちでやってて! 次っ、姉と婚約者決めるよ! って婚約者希望多いな!?」
「ア、被るんなら俺ヤッパやめで」
「じゃ俺もやめ。お魚消しゴムのほうが興味ある気がしてきた」
「僕も譲ります」
「へ、平和でよろしいことだが……い、いいのか?」
「「「いいです」」」
「あァそう……」

 テキパキと仕切る部長や物分かりのいい部員のおかげか、本当に平和に役柄が決まっていく。ちなみに重要な役は大体二年生、という暗黙の了解があるのだが、やる気があるならその辺は全く関係ない。結局は先輩後輩ごっちゃまぜで、カラフルで愉快なミックスジュースが完成していく。
 赤間はその光景を眺めながらまたつまらなくなってきて、ふあぃ……と大きなあくびをした。手のひらで隠してできる限り噛み殺す努力はしたが、別に誰かに気付かれてもいいとは思っていた。どうせキャストがどうなるのか見届けて、細かい連絡事項があって。大体それだけで終わる、あまり赤間に益のない活動日なのだ。ここに来ているだけでやる気がありすぎるほどあると言える。
 というわけで赤間は、さっさと家帰ってご飯食べてお風呂入って寝よう。そういえば図書館で借りてまだ返してない本あるから、それ読んだりしてもいいかもな。などと考えながら、それからも数度あくびしつつ話し合いを聞き流す。

 そして活動は終了した。

「……ゼエ、ハァ……っ、終わり……か、解散、でっす……」
「ありがとうございましたー」
「あざっした」
「お疲れー」
「あっ、部長、これ衣装の購入についてなんすけど。ココちょっと見てもらいたくて……」
「……ゴメ、ちょい、水飲まして……叫びすぎで、喉枯れた……んぐ」
「またね」
「あ〜ユキちゃん待って、一緒に帰ろ!」
「うわやべ! バイト遅れる!」

 ここまでだいぶ長かったな、と赤間は思う。
 高田部長はどうやら叫びすぎで喉を枯らしてダウンしているらしい。順当である。活発に活動するサークルで部長などやるものではないと彼女は認識している。行事が近づいてくると目にクマがデフォルトになる役職とか嫌すぎる。彼女は将来もワークライフバランスをきちんと成立させた職に就く気満々である。
 何もせず突っ立って、たまに後輩の相談に乗ったりしながら場の成り行きを静観していただけの赤間は、よっこらしょと荷物を背負った。
 財布、ある。定期、ある。空のお弁当箱、ある。スマホ、ある。教科書類やらなんやら、揃っている。
 忘れ物、ナシ。

 よし。帰ろう。

———ツン、と。

 肩を突っつかれて、赤間は振り向いた。
 大輪の赤いダァリヤの如き笑顔があった。
 改めて確認するまでもなく、彼女は山崎灯である。彼女とは一年生の頃体育の授業で一緒になって、それから何かと話す仲となった。
 山崎は名前もイントネーションも完全な日本人だが、見た目はゲルマン系民族といったいでたちで、あまり日焼けには強そうではない。
 ほとんど愛想のない赤間にすらベタベタに絡んでくることからわかる通り、彼女は友人が多く、見るたびに全然知らないメンバーと一緒に歩きながら幸福そうに笑っている人物である。

 くるっと、振り向き、赤間は「何?」と問いかけた。山崎がニコニコと幸福そうに笑いながら、多少抑えた声で話しかけてくる。

「赤ちゃんってさっ、事故物件住んでんだよね?」
「ん、そうだけ……」

 ど。と続けようとして、赤間はかっくんと首を傾げた。

 ……どういう組み合わせなんだこれは?

 山崎灯が、佐々木春花と手を繋いでいた。というより、無理やり佐々木が手を掴まれて引きずられてきた、という調子である。
 ここで補足説明を加えると、佐々木はついさっき猫役に手をあげて無事にキャストに決まったばかりの人物だ。別に猫に生まれ変わりたいわけじゃないけど……などとオドオドしながら部長に物申していたあの子である。
 それが、山崎の手でかなり強引に赤間の前へ引き摺り出され、あわあわしながらこっちを見ている。

 ……いや、山崎が誰かと手を繋いでいること自体に、不思議はないのだ。
 彼女は基本的に毎日それをしているし、なんなら初対面の人とでもそうするのだが。

 問題は、『事故物件』の一言にある。
 何がどうなって、この二人が事故物件について話す流れになったのか? そして赤間をも巻き込もうという話の流れになったのか? なぜなぜなぜ? かっくんかっくんかっくん。首を傾げすぎて、そろそろ360°くらいは回転しそう。あ、それだと元に戻っちゃうか。くだらない脳内妄想はさておき。

 改めて赤間は彼女らに向き直った。そして佐々木に目を合わせる。

「どうした? 私、不動産屋じゃないから。安い事故物件探してるとか言われても対応できないよ?」

 一応、最初に釘を刺しておくことにしたわけだ。
 この二人がそんなつまらないことで相談してくるかな、というもっともな疑問を抱きながらも。一応。
 そしてやはり、ことはそう単純な話ではないらしい。
 佐々木の隣では山崎が赤いダァリヤの笑顔で、引っ込み思案な彼女へガンバレのサムズアップを送っている。それに励まされたように、佐々木は頷いて。

「あの、えっと。そういうことじゃなくて」
「………?」

 そういうことではなかったのか。
 赤間は頷いた。これだけでもうすでに、一気に展開が読めなくなった。これから何を言われるのか、未来を読んで確かめたいと思う。いや無理だよなァとも思う。そんなこんなで、素直に佐々木の言葉に耳を傾けることにした。

「私、文学部なんですけど」
「うん」
「事故物件小説を書こうとしていて」
「う……ん?」

 小説にそんなジャンルあったっけか、と脳内辞書を漁る。残念。赤間の脳には登録されていない。
 赤間の人生に、事故物件小説なんてものはとんと絡んでこなかった。
 よし、登録しておこう。
 これからの人生でなんらかの役に立つ時が来るかもしれない。

 佐々木はまだ一生懸命に話している。

「ちなみに私、それを今度の学祭で売ろうと思ってるんです。それで……その、さっき高田さんとかも叫んでたじゃないですか。『意外と学祭は迫っている。今から全力で頑張っても間に合うかどうかってとこなんだ!』って。……恥ずかしながら、私、それを聞くまでのんびりした気持ちでいたんです。でもやっぱり、思い立ったが吉日。今から動かなくちゃと思って、そうしたら最初にすべきなのは取材かな、と思って……」
「———つまり佐々木ちゃんは、小説を書くために、事故物件に住んでいる私にインタビューしたいと?」
「あっはい!」

 そうです! 長ったらしい私の話を要約してくれてありがとうございます! と佐々木春花が一生懸命に頷いている。
 彼女の隣で山崎灯がニコニコ。さっきから喋っていないのに彼女が目立つのはどういうわけか。ちなみに彼女はこの度のミュージカル劇において、主役である探し屋のキャストを問答無用で勝ち取っている。下手に小物の役をすると主役及びその他を全員食い尽くすので、妥当な人選である。
 ……話を佐々木の相談事に戻そう。

「その、インタビューしてもいい日時とか……お忙しくない時を教えてくださると……じゃ、じゃなくて! そもそも取材OKかどうか、まずそれを聞きたいんですけど」
「OK」
「あっはい……えっ、いいんですか? そんなあっさり!」
「あっさりOKだよ。暇だし」
「あ、ありがとうございます。じゃあ、えっと」
「そうだな———うん。佐々木ちゃん一人暮らし?」
「はっ、はい」

 なら、と。赤間は佐々木の表情をあまり見ないまま、なんならぼんやりと空気の色なんかを眺めながら、限りなく気軽に言った。

「うち泊まりにくる? 今夜」

 どうせ明日は土曜日だし。佐々木ちゃんも一人暮らしなら親御さんに連絡とかしなくて良さそうだし。とりあえず一旦家に帰ってもらってそれからこっちくれば宿泊に必要な道具は簡単に揃うだろうし。大学からうちまで徒歩圏内だから交通費も定期券以上にかかることはありえないし。などなどと赤間はつらつら思いつくままに理屈を並べていく。ぽっかんと口を開く佐々木は無視である。
 相手に考える暇を与えない。本人は意識していないが、まるで詐欺師の手口である。
 しかし本物の詐欺師ではないため、当然そこにある良心と常識がふいにそれにストップをかけた。

「……あでも、ペットの世話とか終わりそうにない課題とか溜まりすぎて大変なゴミを出すとか、そういう事情もあるだろうから。別に無理して今夜にしなくてもいいけど。ていうか、そもそも泊まりにくる必要もないね。ごめん、今の一旦全部なし……」

 我にかえって、今度はさっき言った自分の言葉を全否定する調子で喋り出す赤間。しかしそれは、相手の佐々木自身による、妙に覚悟で張った声によって遮られた。

「い、いえ」

 その、と。
 なんだか異質にギラギラした目で、佐々木が口を開いた。
 そして。

「早ければ早いほどいいです! あとただのインタビューじゃなくてちゃんと家の中を見たいという私の欲望、いえもっと言えばお泊まりしてみたいという気持ちに何も言わないまま気付いていただいたことに感謝します! 赤間さんのうちに、お泊まりに行きます! 今夜!」

 じゃっかん食い気味に、佐々木は言い切った。何なら言い切った後にゼエハアと息を切らしている。
 赤間はそんな彼女を、しばらく絶句したままに見つめていた。そしてしばらくが過ぎ去ると、少し引いたような顔で口を開いた。

「……佐々木ちゃん。防犯意識大丈夫?」
「えっ?」
「まァ私は男じゃないからそんな警戒心なかったのかもだけど……。いかに同じサークル内の同学年だとしても、ほとんど喋ったことない人に誘われて泊まりに行くのあっさり了承するなんて。いくらなんでももう少しは逡巡したほうがいいと思うよ」
「も、もしや、試した感じですか? 私を」
「ううん全然。ふと心配になっただけ」
「あっはい……」

 これ私どうしたらいいんでしょう? お泊まりすべきか、そうじゃないのか……? そんな途方に暮れた顔で、佐々木があたりを見回している。
 ふと横を見れば、山崎は両手で口を覆って必死に笑いを隠していた。隠しきれていない。バレバレだ。元々バレバレだったのがついに声が漏れ、純然たるバレバレになった。

「アッハッハ、そうそう! 赤ちゃんってこういう奴……」
「山ちゃん」
「は、はぁい、……アッハハ、あは、あっは! だ……だめだァ私! お、面白すぎて呼吸困難……っ!」
「………」

 赤ちゃん。ベイビー。
 こんなあだ名を許可した時も確か、このくらい爆笑された覚えがある。そんなに不思議だろうか? 苗字の赤間から一文字取っただけで、バカにしようとかいう悪意を感じないんだからそれでいいと思ったのだが。

 とりあえず停止ボタンの存在しない笑い人形へ変身した山崎は放っておくことにして、赤間は佐々木に向き直る。

「で、どうする?」
「えと、泊まりたいです……多分、赤間さんなら大丈夫そうだなと確信しているので」
「あっそう」

 ならおいで。
 ミュージカルサークルのトークグループメンバーから『Michi』をタップしてメッセージを送ってくれればいいから。
 そしたらマップアプリのスクリーンショットでうちの住所教えるよ。

 それだけ言うと、佐々木がじっとこちらを見つめてきた。

「……防犯意識については、赤間さんも人のこと言えないのでは?」
「うん。事故物件住んでる時点で自覚はあるよ」
「………」
「それに、理由は一緒だよ。佐々木ちゃんなら、家の場所教えても問題なさそうだからね。じゃ、またあとで」

 家に招くのも、住所を送りつけるのも、変わらない。今更個人情報の重さについて議論する気はない。トラブルが寄ってきそうなら手を引くし、大丈夫そうならそのまま進む。それだけの話である。

 ひらひらと手を振って、歩き出す。
 すっかり暗くなった夜の空に、都会でも見える星が瞬いている。白銀の針でついたようなささやかな点のいくつかへ、無造作にポケットへ手を突っ込んだ赤間はちらりと目をやった。
 街路の砂利が足の下で擦れる音を聞いて、あぁ今夜もこの街は甘くて苦い味がするなぁなどと思いながら、彼女はまるでタップダンスでもするような足取りで帰っていく。

 背中に背負ったリュックが跳ねる。
 猫のキーホルダーが跳ねる。
 キーホルダーについた鈴がチャリンと寂しげに音を鳴らす。

 曲がり角を曲がって、でも影がちょっとの間まだ見えていて、その街灯のおかげで伸びていた影もすぐに姿を消す。


 あとへ残された佐々木と山崎が、思わずといった調子で目を合わせる。

———やっぱり赤間さんって、変な人。

 少なくとも、どちらかはそんなことを思っていたかもしれない。
 まぁ妥当な評価である。
 赤間美智という人間は、大勢がお寿司のように詰め込まれた教室にいれば、絶対埋もれて目立たない。しかし面と向かっておしゃべりすれば、大体の人の心に強い印象を残す。

 小学校や中学校で彼女と関わった人間に聞いてみればいい。誰その人? とは絶対ならない。あぁ〜あのちょっと変わってた子ね、という言葉が聞ける可能性のほうがよほど高い。

 そして。
 そんな人物が住む家に招かれて、佐々木は少し緊張……というより、完全にワクワクが勝っていた。
 佐々木は、引っ込み思案なくせに妙なところで度胸があり何にでも興味を持って手を出す。よって結果だけみれば異様にアグレッシブで行動力のある女子大生に見える。
 肩書きと本人の印象が乖離している代表例であり、それでもただの怖がり少女であるとはとても言えない。
 先日二十歳になったが怖くてお酒に手を出せていないこの人物は、思わぬ縁から転がり込んできた事故物件取材に胸を高鳴らせ、山崎と別れた後に大急ぎで自宅へ帰るのであった。






 歯ブラシだの、パジャマだの、着替えだの、常備薬だの、財布だの、スマホだの、なんだのかんだの。
 それと取材ノートと筆記用具。
 準備万端の状態で、佐々木春花は大きく息を吸った。そして吸った割に、ヘニョヘニョの声が出る。「お、お邪魔しまーす……」まるでしぼむ風船である。

「みゃァあん」
「へ?」

 お出迎えは、薄茶色でもふもふの猫。———えっ、猫?
 玄関先でフリーズした佐々木を、奥から猫を追いかけるようにして出てきた人間……赤間美智が改めて出迎えた。

「いらっしゃい。あ。それうちのタマちゃん」
「なるほど。タマ……」
「略して、だけどね」

 赤間は顔色も変えずに「正式名称はタマコンニャク」などと述べる。にャァ、とタマ……ではなくて正式名称タマコンニャクも、ノリよく声をあげている。
 佐々木が困ったようにその場に立っていると、赤間がまるでお店の番をする招き猫のようにちょいちょいと手招きをした。

「こっちおいで。前に住んでた人が、お風呂場で手首切って死んだらしいんだ。詳しい事情は私も知らないし、何か発見があるとも思えないけど。とりあえず見にきたらいいよ」
「は、はい」

 佐々木は慌てて靴を脱いで部屋に上がった。靴を揃える。赤間の後を追う。

 このアパートの一室は、大学生の住居らしく狭かったが、咄嗟に人を招くスペースは確保されているようだった。
 散乱する猫のおもちゃや机に積まれた塗り絵等のグッズ、壁に無秩序に飾られたアイドルの写真などを含めてもだいぶスッキリして見える。
 佐々木が思い描いた中ではかなり珍しい部類の快適さがそこにはあった。

 しかし、と佐々木は一方で思う。
 ここの部屋の前の持ち主は、その命を絶っているのだという。
 嘘のような話だ。しかし、本当のことなのだ。赤間美智という人を佐々木はよく知らないが、こんな時に笑えない冗談を言う人ではない。
 白いプラスチックの取手を引いて、赤間はあっさりとバスルームを開放した。

「ほら。ここ」
「………」
「中、入ってみる?」
「……はい」

 するり。緊張したまま一歩を踏み入れようとした佐々木の足元を、何かがすり抜けていった。
 猫だった。

「あ。タマ、……コンニャクさんが」
「タマちゃんでいいよ」
「……タマちゃんは、お風呂場を嫌いじゃないんですね」
「そうだね」

 なんだか緊張感がほぐれてしまった。もふもふの薄茶色が、だんだんと色づいてしまったわたあめのように見えてくる。色づいてしまったわたあめに見える猫ちゃんは、佐々木たちが中を眺めている間にあっさりとまたバスルームから出てきた。

「あ。出てきちゃった」
「猫さんは気まぐれなのですよ」
「なるほど」

 タマコンニャクさんが出ていってから、ようやく佐々木たちは中へ入った。
 ごく普通のお風呂場だった。タライがあって。石鹸があって。シャンプーとリンスが置いてあって。シャワーを引っ掛けるフックが高低差をつけた二段階の場所にあって、低いほうに固定されていて。
 床は白くて。バスタブも白くて。蓋は灰色の縁取りがある白い四角が二枚で。

 何もかもが、ごく普通のバスルーム。

「発見あった?」
「……あった、かもしれないです」
「ん。そっか」
「ないのかも、しれないですけど」

 そっか。と、赤間は言った。

「まァ、そんなもんだよ」
「………」

 事故物件とは言っても、劇的な何かが起こるわけではない。死体が放置されていた状況によっては特殊清掃の後でも匂いが気になったりだとか、近所の住人に噂される可能性があるから気をつけろだとか、注意すべきなのはそのあたり。あとはほとんど、気持ちの問題。
 改めてそれを、知ったような気持ちになった。
 落胆の気持ちが分かりやすく出ていたのだろうか。赤間はおもむろに、佐々木へ声をかけた。

「でも、あれでしょ。せっかくなら、お化けが出るか試してみたいんじゃない?」

 もちろん。そうだった。
 佐々木は無言で頷いた。

 それからは、二人と一匹の時間だった。

「赤間さんって、小さい頃の夢とかありました?」
「宇宙人と結婚したかったな。今でもできればやってみたい」
「……確か、赤間さん法学部ですよね」
「うん。そうだけど」
「ニャニャン」
「もしや結婚に関する法律を改正するための知識を求めて、法学部に入ったとか?」
「いやいや、それはさすがに突拍子なさすぎるでしょ。普通に弁護士か検察官か、その辺の仕事をしようと思って入っただけだよ」
「そこは普通なんですね……」
「そこはってナニ」
「ミャアァン」

「塗り絵する?」
「します」
「ごめん。猫だけ全部塗っちゃってるけど気にしないで」
「うわァ。本当だ。全部タマちゃんの毛の色に塗られてる……」
「ミアァ」
「実は私猫好きなんだよね」
「意外です……でもめちゃくちゃ納得してます。今まさに。現在進行形で」
「………」
「あ。タマちゃん寝ちゃった」
「………。この私の隣でね」
「すごく唐突に飼い主のマウンティング発動しましたね」

「赤間さん! ギリシャ神話の神様に推しっていますか?」
「んー。私、そもそも神話をよく知らないよ。ゼウスが浮気ジジイなのとかは知ってる」
「私、ハデス推しです!」
「……派手派手な神?」
「冥界の支配者です。好きな女の子を攫ったら、地上が滅びかけたり、結果的に春夏秋冬の四季が出来上がったりした人です」
「迷惑なのかお手柄なのか?」
「いやぁ。この人、こう見えて恋愛苦手で、奥さんに浮気されちゃっても何も言えなかったりしてですね? 基本的に職務に忠実ですっごく真面目で、なのに情に絆されて死者を地上に帰してあげたくなっちゃったり、あとあと女の子を攫うと言ってもちゃんとゼウスの許可を取ったり可愛い水仙の花を咲かせたり、迎えにくるのも黒い馬にひかせた黄金の馬車でそれで……」

「……すいません。取り乱しました」
「うん。大丈夫」
「ギリシャ神話大好きなんです」
「それはもうよくわかった」
「オタクです」
「うん。私もアイドルの推しいるし、気持ちはわかるからそんな落ち込まなくていいよ」
「……赤間さん、アイドル推してるんですか?」
「ほら。同じ人の写真ばっかり壁に飾ってるでしょ。あの人がミュージカル俳優の道に進んだから、私も真似してミュージカル・サークルに入ってみたんだ」
「えっ、そんな動機が?」
「でも演技苦手すぎて絶対無理だとわかったから照明係になった」
「そうだったんですね……」


———ふわり。

 ひんやりと静かな風が肌を撫でる。
 冬はとっくに過ぎたのに、今晩はどうやらかなり涼しいらしい。気付けば夕食も取らないまま、夜が更けてゆく。
 ふいに思わずといった調子で顔を上げた赤間が、佐々木の隣で「ミントグリーン……」と呟いた。

「ミントグリーン?」
「あぁ、うん。今吹いた風の雰囲気がちょっと変で……」

 弾んでいた雑談の雰囲気が、一気に冷却される。確かに、ちょっと肌寒い。しかも、心地よいかと言われれば……全くもってそのようなこともなく。

 佐々木はふいに、ここが事故物件アパートであることを思い出した。
 いやがおうにも脳裏を過ぎる仮説。

 もしかして……幽霊?

「こ……こういうことって、よくあるんですか?」
「いや全然?」
「えっと」
「正直言って私も怖い。……ほらやっぱりそうだ、ベランダの窓ガラスが開いてる。網戸も」

 立ち上がって確認に行った赤間がはっきりとそう言った。
 ヒュウゥウウ……ヒュゥルルルゥ……。
 いかにも不気味な雰囲気をまとった隙間風が吹き込んでくる。ベランダのほうへ歩いていく赤間が、キョロキョロと左右を見回す。
 佐々木は思わずすがりつくようにして、赤間の上着の裾を掴んだ。

「こ、怖いです」
「うん、そうだね。……なんで窓開いてたんだろ。佐々木ちゃん開けてないよね?」
「ないに決まってますよぉ!」
「……あ、まさか」

 何かに思い至ったような表情を浮かべた赤間が、一気に蒼白になった。顔色が悪いを通り越して真っ白である。なんならデコレーションケーキの生クリームの色と言っても過言ではない。普段冷静な赤間が落ち着きを失うのは、こちらにとってもホラーである。佐々木はほとんど悲鳴をあげたい気持ちだった。

「ど、どど、どうかしたんですか、赤間さん?」
「タマちゃんが……」
「へ?」
「タマちゃんがいない! 窓開けたの絶対あの子だ! ベランダから落ちたかも!?」

 佐々木はぽかんと口を開けた。あまりにも予想外の方向性から言葉を投げかけられたような気持ちで、一周回って冷静になってしまったかのようだった。
 代わりに赤間が大いに取り乱し、悲鳴のような声をあげてドタバタとサンダルを履き散らかしながらベランダへ出ていく。そして赤間はまずベランダという結界そのもの全体を見渡し、そして排水路を舐めるように睨み手すりから身を乗り出して下を覗き、鳥に攫われていないか心配するかのように空をもぐるぐると見回している。
 焦っている。
 慌てている。
 そんなもんじゃないってくらいに、赤間は我を失っている。

 ああ、これは。と佐々木は思った。私の出番だと。

———ツン、と。

 佐々木は、赤間の肩を突っついた。

「ひゃっ!?」

 こんな声出すんだこの人、と思った。
 そんな心情をおくびにも出さず、佐々木は自分が言うべきことを言った。

「落ち着きましょう」
「う、うん」
 
 まるで今の赤間は猫ちゃんになったみたいだと、佐々木は思った。
 そわそわしていて、猫タワーがそこにあったらぴょこんと飛び乗ってしまいそうだし、猫じゃらしでも目の前で揺らせばシュタッと飛びつきそうに見える。
 可愛いな。そんなことを少しばかり思う。
 それはさておき。

「タマちゃんが窓を開けるのは、よくあることですか?」
「……いや、全然」
「今回が初めて?」
「うん」
「さっき手すりから乗り出して覗いてましたけど、下に落下事故起こした猫はいましたか?」
「街灯の光じゃ足りなくて……暗すぎて全然見えなかった」
「なるほど。まぁそれはしょうがないですね」

 赤間はまた不安そうな顔になって、「ほ、ほら。やっぱりタマちゃん……」などと口走り始める。佐々木はもう一度「落ち着いてください」と言った。

「要するに、タマちゃんを発見すればいいんですよね?」
「う、うん。もちろんその通りだよ」
「ではここは、本職の猫に任せてください」
「……は?」
「今度のミュージカルの猫役です! ほらっ、すっごくちょうどいいところにいましたね! 良かったです私たちこんなに幸運で! オーディションする流れになった時のため徹底気的に台本を読み込んだ佐々木猫が導いてあげます!」

 目を白黒していた赤間は、ようやく状況を理解したらしい。まじまじと佐々木を見て、ポロリと言った。

「……情緒大丈夫?」
「それはこっちのセリフです。ちなみに赤間さんはもう落ち着いたんですか?」
「佐々木ちゃんのおかげで落ち着いたけど、でも……! 今まさにまた意味わからない感じになって混乱してきた!」

 まだ何か言おうとする赤間を誤魔化し……きれず、仕方ないので佐々木は無理やり「猫の逃走ルートその1!」と叫んで押さえつける。
 ここまで来れば、二人ともヤケクソだった。
 最後まで突っ走るぜとばかりに、二人で言葉の応酬が始まる。

「飼い主の家に飽きて窓から脱出!」
「ほらやっぱり窓からじゃん!」
「逃走ルートその2!」
「ちょっと待って無視しないで!」
「猫は気まぐれ! 目につくものがあればとりあえず本能に従ってちょっかい出しに行く! 無計画に追いかけた人間は勝手に面倒ごとを起こしまくって苦労しまくって勝手に絶望!」
「うわ最悪っ……じゃあ、つまり何!? 飼い主は猫を追いかけるべきではないとでも!?」
「そしてその3! 追っかけられていることに気づいた猫ちゃんは、魚市場とウェディング会場である教会の分かれ道で、わざと後者へ向かう! つまり絶対行かないはずだと追っ手が確信しているところへ行くのである!」
「今度は何……ああ、なるほど、絶対行かないところね!? タマちゃんなら……あっ、動物病院とか?」
「その4! そこでまさかの昼寝!」
「嘘っ! 寝ちゃうのっ?!」
「そしてラスト! お腹が空いたので、勝手に帰ってくる! ———よし、私たちもデンと構えてのんびりタマちゃんを待ちましょう!」
「バカーっ!」

 まだ本格的な夜ではないとはいえ、幼い子供のいる家ではそろそろ眠りにつく天使が出てくるだろう時間帯である。
 涙目で喉を搾り上げるように全力腹式呼吸の叫び声をあげた赤目は、すぐにハッとしてその口を塞いだ。
 近所迷惑になってしまったかもしれない。
 その気付きが、彼女の頭を少しばかり冷やすことに成功した。

「バカ、ですか?」
「あ……いや、ごめん」
「いえ。そこはいいんです。私も自分の発言、ちょっとふざけすぎたかなぁと思いながら言ってたので……」
「いや、でも」
「いいんですよ! そんなつまらないことは!」

 佐々木が字面だけで見るとかなり語気の荒い発言をあまりにも嬉しそうに言ったので、赤間は面食らったようだった。
 しかし、それどころではない。佐々木は見つけてしまったのだ。喜色満面で、佐々木は華やかな舞台役者の調子を演出しながら言う。

「後ろの正面だーあれ!」
「……っ、まさか!」

「———みゃあん」

 まさかも、まさか。佐々木が指差したところには、猫のタマコンニャクが立っていて。何事もなかったかのように、飼い主に擦り寄っている。お腹すいたァ、とでもアピールするように上目遣いをする薄茶色のふわふわに、飼い主である赤間は一瞬で陥落した。

「うわぁ……無事で良かった、うちのメロメロォ〜」
「あれ。その子の名前、メロメロちゃんでしたっけ」
「タマタマァ〜」
「赤間さんが壊れた……」

 顔を毛玉に埋めて胸いっぱいに息を吸いながら、赤間は飼い猫の匂いを堪能していた。
 佐々木は親バカならぬ飼い主バカとなっている彼女を眺めながら、とりあえず一件落着して良かったな、と思うのだった。




 夕ご飯はほかほかに炊いた白米と、味の染みた玉こんにゃくだった。
 佐々木が追加した野菜と卵のスープもお椀に注がれ、食卓の上に並んでいる。

 いただきます、と手を合わせてから、佐々木は微妙な表情で喋りかけた。

「玉こんにゃく。好きだったんですね」
「ん。飼い猫の名前にするくらいにはね」
「すごく美味しいです」
「私の自慢の料理、これしかないから」
「なるほど」

 佐々木は頷く。そしてころころのプニョプニョなこんにゃくを箸でつまみ、口の中へ放り込んだ。チューインガムより強い弾力。それでもあっさり噛み切れる心地良さ。おいしい。とてもおいしい。熱々のご飯と一緒に食べると、みるみる白米の量が減っていく。

「美味しい」

 佐々木はもう一度言った。
 うん、と赤間が頷く声がして、その膝の上にはまったりとくつろぐタマコンニャクちゃんご本人の姿がまったりしている。空腹の猫へやった餌は、すでに爆速で小さな獣の胃の中へおさまった後である。人間に比べて、ペットの食事の早いこと早いこと。やっぱり人間って変な生き物である。食材を調理するし、やたら時間かけて食べるし。
 それかけた思考を戻し、佐々木はタイミングを見計らって口を開く。

「———それで。さっきのことなんですけど。赤間さん」
「ん?」
「もしかして本当に幽霊が開けたのかもしれないね、ってなったベランダの窓の話です」
「……ああ」

 本当に幽霊が開けたのかもしれない。そんな結論が出るなんて怖いことこの上ないので、佐々木はなんとかそれに対する反論をしなければと、ずっと考えていたのだ。愛する猫が無事だと知った途端、赤間は興味をなくしてしまったらしい。しかしそれは、佐々木が思考を止める理由にはならなかった。むしろどうしたらそんなにあっさり興味をなくせるのか、ぜひ知りたいものである。
 そしてうんうん考え続けた結果、佐々木はどうやら正解に辿り着いたのではないかとは思っている。

 推理とも言えない推理を披露するために、佐々木は赤間へ話しかける。

「アレ開けたの、赤間さんだと思うんです」
「えっ、私?」

 虚をつかれた顔で赤間が固まる。全く心当たりはないようだ。
 佐々木は慎重に赤間へ問いかけた。

「一応最終的な確認なんですけど。私を驚かせようとして一芝居打った、とかではないんですよね?」
「それだけは違う。いくら私でも、さすがにそんな笑えない冗談は仕掛けない」
「じゃあ、たぶん洗濯物です」
「はい?」

 まだ何もわかっていないような顔をする赤間。佐々木はピンと人差し指を伸ばして、とある方向を指差した。
 そこは、部屋と部屋の境目。引き戸のついた部分。天井近くに刻まれた出っぱりをうまく使って、一つの物干しハンガーが引っ掛けられている。そこにはまだひらひらと洗濯物たちがぶら下がっていた。

「洗濯物。取り込んだんじゃないですか。その時に、窓を閉め忘れた」
「いやいや、そんなおっちょこちょいこをこの私がするかな?」
「たとえば、私がピンポーンってしたタイミングと重なったとか。それで慌てて、いつもなら無意識に完了してることを忘れちゃった」
「………」

 心当たりはあるようで、さっと赤間の表情が変わった。さっきまでは「何を適当なこと言ってんだろうコイツ?」という顔をしていたのに、今や「何を適当なことやっちまったんだ私!」という顔である。
 佐々木名探偵大活躍。顔色を青くした犯人へ、ほとんど確認めいたクエスチョンを投げかけた。

「その分だと、心当たりありそうですね?」
「アリアリ」
「ニャァ〜」

 息ぴったりな真顔コンビが返事をした。……タマコンニャクさん、実は人語を理解していませんか? まあたぶん、気まぐれの鳴き声なのだろうけれど。
 赤間はずっと猫ちゃんを撫でている。猫が気持ちよさそうに目を閉じているのに対し、飼い主は釈然としない顔である。気持ちはわかる。佐々木のほうも個人的に、騒動の原因が洗濯物とは解決のしがいがないなぁなんて思っているのだ。

「えーと、整理するよ。つまり窓は最初からずっと開いてたってことだよね? 佐々木ちゃんを家にあげた時から?」
「そうです。赤間さん、防犯意識が終わってますね」
「うぐっ! ……いや、それ意趣返しのつもりなら、過剰報復になってるって! 私のセリフは確か“防犯意識大丈夫?”程度のマイルドな感じで……」
「みゃァん、みゃんにゃァん♪」
「ほら、タマちゃんも言ってますよ。人のフリ見て我がフリなおせって。警告する前にまず我が身を省みましょうねー?」
「絶対言ってない! タマちゃんは私の味方だ!」
「誰が決めたんですかそれ」
「私!」

 たった一日でよくぞここまで仲良くなれるものだ、という程度には愉快な掛け合いが部屋に響く。
 そんな二人を置きっぱなしにした猫は、にゃんにゃんと気まぐれに鳴きながら回転木馬のようにぐるぐる部屋の中を回っていた。
 会話に花が咲いても、遊びで盛り上がっても、いつかはパーティーの終わりがやってくる。
 さてもうそろそろ本当に遅くなっちゃったしお皿を洗って色々なものを片付けて布団を出して寝袋敷いて寝ましょうか、という段階に至って、ふと佐々木は気づいた。

「そういえば、事故物件の取材……」

 当初の目的はそれだった。なんというか、もっとくまなく部屋中を回って、住人に怪奇現象が起こっていないか話を聞いて、それで……それで、どうするんだろうか? しかし少なくとも、今日きちんと取材を行ったという実感はまるでなかった。
 しかし、赤間はわずかな微笑みを浮かべつつ淡々と言った。

「ん。こんなもんで十分じゃない?」
「どこが十分ですか……?」

 今日行ったことといえば、前の住人が思い詰めた現場かもしれなかったお風呂場を覗き、窓が開いていて夜風が吹き込み始めたというだけで大騒ぎし、猫を囲んでご飯を食べ、それから山ほどのくだらない話を積み上げたことぐらいである。
 事故物件というものに何を期待していたのか、そろそろ佐々木本人すらもよくわからなくなってきた頃だった。
 シンク前に立つ赤間は、泡立てたスポンジでお茶碗をぐりぐりとこすりながら口を開いた。

「あのさ。世界のどこかで、今もたくさんの人が苦しんでるでしょ。でも、普通はみんな、自分が幸せだったらもうそれでいい」
「………」

 一体何の話が始まったのか。
 佐々木は赤間の意図が掴みきれないままに、ひとまず耳を傾けることにした。

「歴史も一緒。教科書に載ってる盛りだくさんの悲劇一つ一つに、本気で共感する人なんてまァ見たことがないよね。つまり時間と空間を超越すれば、大体他人事になるってことなんだけど」

 でも、と赤間は言う。

「いいと思わない? それで。私は少なくとも、今自分の手が触れる範囲にいない人間のことなんて気にならない。佐々木ちゃんはどう?」
「……私は」

 しばらく考えてから、佐々木は答えた。

「気になる、と思います」
「そっか。気になるか」
「はい」
「確かに佐々木ちゃんはそんな感じするね。うん、そんな感じだ」
「傲慢、ですかね。救おうと行動することもしていないのに。気になるとか言って」
「ううん。優しいんじゃないのかな」

 それを聞いて佐々木は黙り込む。沈黙が続き、食器を水洗いする音ばかりが響く。
 ふいに足がくすぐったいなと思ったら、スリッパを履いた足と足の間を、タマコンニャクが無理やり押し通って行った。しかもまとわりついて猫パンチのようなものを繰り出してくるので、無視しようにも微妙に無視しづらい。
 佐々木はなんとなくその気になって、ぐっとしゃがんで薄茶色の猫へ目線を合わせてみた。

「私って、優しい?」

 そして、問いかける。
 しかしタマコンニャクは、その問いに何も返事を返さなかった。
 いきなり人間の顔がドアップになって不気味! とでもいうように身を翻し、まるで不審者に遭遇した小学生のように華麗に離れていった。
 あるいは飼い主様が同じことをしたならば、甘い声をあげて身をすり寄せてくれたのかもしれないなぁと思う。意味のない仮定ではあるけれど。

 行ってしまった猫の代わりに、問いへの返事は飼い主がしてくれた。

「優しくなくても、小説は書けるんじゃないかな。それに佐々木ちゃん、ミュージカル劇の猫役でしょ。今から鍛えるべきなのは身体能力と歌唱力と気まぐれ。つまり優しくある必要は全くないし、自分が優しいかどうか考える必要もないし、悩んでる時間は無駄なのでは?」
「……なるほど」
「それはそれとして、佐々木ちゃんは優しいと思う」
「そう、ですかね」
「うん。絶対そう」

 夜空にそろそろ銀化粧をした月が昇っている頃だった。
 電池式時計は、大人も皆ベッドへ入るべき時刻を指し示し、街はたまに鳴る車のエンジン音や排気音をのぞいて概ね静かになっている。

 猫は勝手に自分の布団に入って眠り始め、滅多にないお泊まり会ということで目が冴えて全く寝る気がなくなってしまった大学生二人が、タマちゃん可愛いね、うん可愛いでしょ、などと好き勝手に喋りながらそれを眺めている。

 猫は夢を見るのだろうか。
 わからないが、少なくとも佐々木の脳の中では、タマコンニャクが呆れた顔でこんなことを喋っている。

 人間って考えることが多くて大変だね?
 ユーレイとか。ミュージカルとか。じかんとくうかんとか。ともだちとか。きんじょめいわくとか。ギリシャとか。かわいいとか。やさしいとか。ひつようがあるとか、ないとか。あれとか、それとか、これとかさ。
 ぜーんぶタマにとってはどうでもいいんだよ。
 だってさ、そうじゃない?
 そんなもの考えたって、全然楽しくないし。
 獣は獣らしく、のびのび生きてればいいのにさ。

 人間って、いろんなことを難しく考えるよね?


(———うん。だけどね。それが人間の魅力だよ)

 佐々木は、心の中のタマコンニャクへそっと言ってみた。
 もちろん現実のタマコンニャクにだって聞こえるはずのない言葉。猫はただの猫だし、佐々木だってテレパシーが使える超能力者じゃない。
 でも、佐々木は猫をじっと見つめ続けていた。

 くにゃりと力の抜けた猫の体は、物理的にありえないんじゃないかと思われるフォームをとっている。別々のパーツが触れ合っていると、体と体の境目が消えてしまって、一個の塊のようにしか見えなくなってくる。本当にこんにゃくでできているんじゃないだろうか。お醤油の染みたこんにゃくから創造された生物なんじゃないだろうか。そんなバカなことまで考えてしまう。

 夜が更ける。
 いつの間にやら、人間たちも奇妙な格好に脱力して眠っていた。

 みんなみんな夢の中を泳いでいる。
 好き勝手に。
 気まぐれに。

 朝が来るまで。白くて淡い光がさして、ねぼすけさんたちがくったり伸びをしながら起き上がるまで。
 ひとまずは、みんな。おやすみなさい。