プールサイドにモップを滑らせる音が、ゆっくりと静寂をかき混ぜていた。
夕方の光は窓から斜めに差し込み、濡れたタイルをオレンジ色にきらめかせている。
「……はあ。罰掃除なんて、高校に入って初めてだよ……」
こぼしたため息は自分でも驚くほど情けないものだった。
けれど数メートル先でデッキブラシを振り回している陽斗くんは、まるで遠足の続きをしているような声を返してきた。
「先輩〜、そっち水飛んでますよ! あ、もうちょい右!」
元気すぎる。いや、どう考えても楽しそうだ。
部活中に、陽斗くんに半ば強引に連れ出されたあと、器具室に二人きりでいるところを副部長に発見され……叱られた。
ついでに、“連帯責任” と言われて、罰掃除の巻き添えになったのだ。なのに、その原因を作った当人は、平気な顔。
「だって二人きりで掃除なんて、滅多にないじゃないですか。むしろラッキーですよ」
……怒られた意味、ほんとにわかってるのかな。全然罰になっていない。むしろ、意外なところで“二人きりの時間” ができてしまい、元気になっている。
苦笑しながらモップを進めていると、背中に突然「ぺしっ」と冷たいものが当たった。
「わっ……!?」
振り向くと、陽斗くんがスポンジを持ったまま、子どもみたいに得意げな顔をしていた。
「先輩、集中してないと狙われますよ?」
背中が濡れてしまった。
「……陽斗くん。それ、完全にイタズラだよね?」
「もちろんです」
胸を張って言うな。
でも、その笑顔がひどくうれしそうで……怒る気なんて一瞬で消えた。
僕はモップの柄に手を置いたまま、小さくつぶやいた。
「……陽斗くん、本当に僕なんかのどこがそんなに好きになったんだろ」
独り言のつもりだった。
けれど陽斗くんは大股で近づいてくると、僕の横にしゃがみこんだ。
「全部ですけど?」
迷いのない声だった。
「先輩の真面目なとこ、かわいいとこ、がんばりすぎるとこ……。誰より一生懸命なとこ。見てたら、守りたくなるに決まってるじゃないですか」
僕もしゃがんで、陽斗くんの顔を見つめた。
「陽斗くん……ごめん」
「えっ」
「僕たち……まだ高校生だし。男どうしで、しかも陽斗くんは水泳が大事な時期で……。きっと表立って恋人って言えない。隠れてばかりで、ごめん」
言いながら、自分の声が少し震えているのに気づいた。
すると陽斗くんは、ふわっと、春みたいな笑顔を浮かべた。
「そんなの、障害にもならないですよ。おれにとっては」
「え……?」
「先輩が隣にいてくれるなら、それで十分です。先輩も、そう思ってくれてると、すげーうれしい」
言葉の終わりとほぼ同時に、背中に大きな腕がそっと回された。ぎゅっと抱きしめられ、胸元に顔が引き寄せられる。
僕より背も肩幅も大きいのに、その手はまるで壊れ物に触るみたいにやさしかった。
ああ、この子は……背伸びして、僕のことを守ろうとしてくれているんだ。胸がじんと熱くなった。
あまりまっすぐな目で見ないでほしい。うれしくて、照れくさくて、でも……胸が苦しくて。僕はきっと、今よりももっときみのことを好きになってしまうから。
「……陽斗くん」
「はい」
「僕も……がんばりたい。これからもいろいろあるだろうけど……陽斗くんといっしょに」
陽斗くんの腕をほどくと、彼は不安そうに僕をのぞきこんでいた。
「先輩……?」
「僕からのプレゼント……受け取ってくれる?」
僕は、少しだけ寄りかかって──陽斗くんのほっぺに、ちゅっと軽くキスをした。
「……っ!? せ、先輩っ……!!」
顔を真っ赤にしながら固まった陽斗くん。数秒後。ゆっくりと表情を溶かし、光の粒がこぼれるみたいに笑った。
その笑顔が、プールの水面よりもまぶしくて、胸の奥がじわっとあたたかくなった。
きっとこの先も、隠したい気持ち、伝えられない想い、言葉にできない何かが、二人の間に何度だって生まれるだろう。
だけど今は、笑っていよう。
この一歩が、確かに僕たちの未来へつながっていると思えるから。必死に前へ前へと泳げばいいのだから。
夕方の光は窓から斜めに差し込み、濡れたタイルをオレンジ色にきらめかせている。
「……はあ。罰掃除なんて、高校に入って初めてだよ……」
こぼしたため息は自分でも驚くほど情けないものだった。
けれど数メートル先でデッキブラシを振り回している陽斗くんは、まるで遠足の続きをしているような声を返してきた。
「先輩〜、そっち水飛んでますよ! あ、もうちょい右!」
元気すぎる。いや、どう考えても楽しそうだ。
部活中に、陽斗くんに半ば強引に連れ出されたあと、器具室に二人きりでいるところを副部長に発見され……叱られた。
ついでに、“連帯責任” と言われて、罰掃除の巻き添えになったのだ。なのに、その原因を作った当人は、平気な顔。
「だって二人きりで掃除なんて、滅多にないじゃないですか。むしろラッキーですよ」
……怒られた意味、ほんとにわかってるのかな。全然罰になっていない。むしろ、意外なところで“二人きりの時間” ができてしまい、元気になっている。
苦笑しながらモップを進めていると、背中に突然「ぺしっ」と冷たいものが当たった。
「わっ……!?」
振り向くと、陽斗くんがスポンジを持ったまま、子どもみたいに得意げな顔をしていた。
「先輩、集中してないと狙われますよ?」
背中が濡れてしまった。
「……陽斗くん。それ、完全にイタズラだよね?」
「もちろんです」
胸を張って言うな。
でも、その笑顔がひどくうれしそうで……怒る気なんて一瞬で消えた。
僕はモップの柄に手を置いたまま、小さくつぶやいた。
「……陽斗くん、本当に僕なんかのどこがそんなに好きになったんだろ」
独り言のつもりだった。
けれど陽斗くんは大股で近づいてくると、僕の横にしゃがみこんだ。
「全部ですけど?」
迷いのない声だった。
「先輩の真面目なとこ、かわいいとこ、がんばりすぎるとこ……。誰より一生懸命なとこ。見てたら、守りたくなるに決まってるじゃないですか」
僕もしゃがんで、陽斗くんの顔を見つめた。
「陽斗くん……ごめん」
「えっ」
「僕たち……まだ高校生だし。男どうしで、しかも陽斗くんは水泳が大事な時期で……。きっと表立って恋人って言えない。隠れてばかりで、ごめん」
言いながら、自分の声が少し震えているのに気づいた。
すると陽斗くんは、ふわっと、春みたいな笑顔を浮かべた。
「そんなの、障害にもならないですよ。おれにとっては」
「え……?」
「先輩が隣にいてくれるなら、それで十分です。先輩も、そう思ってくれてると、すげーうれしい」
言葉の終わりとほぼ同時に、背中に大きな腕がそっと回された。ぎゅっと抱きしめられ、胸元に顔が引き寄せられる。
僕より背も肩幅も大きいのに、その手はまるで壊れ物に触るみたいにやさしかった。
ああ、この子は……背伸びして、僕のことを守ろうとしてくれているんだ。胸がじんと熱くなった。
あまりまっすぐな目で見ないでほしい。うれしくて、照れくさくて、でも……胸が苦しくて。僕はきっと、今よりももっときみのことを好きになってしまうから。
「……陽斗くん」
「はい」
「僕も……がんばりたい。これからもいろいろあるだろうけど……陽斗くんといっしょに」
陽斗くんの腕をほどくと、彼は不安そうに僕をのぞきこんでいた。
「先輩……?」
「僕からのプレゼント……受け取ってくれる?」
僕は、少しだけ寄りかかって──陽斗くんのほっぺに、ちゅっと軽くキスをした。
「……っ!? せ、先輩っ……!!」
顔を真っ赤にしながら固まった陽斗くん。数秒後。ゆっくりと表情を溶かし、光の粒がこぼれるみたいに笑った。
その笑顔が、プールの水面よりもまぶしくて、胸の奥がじわっとあたたかくなった。
きっとこの先も、隠したい気持ち、伝えられない想い、言葉にできない何かが、二人の間に何度だって生まれるだろう。
だけど今は、笑っていよう。
この一歩が、確かに僕たちの未来へつながっていると思えるから。必死に前へ前へと泳げばいいのだから。

