先輩は知らなくていい

 大会が終わって数日がたった。
 本来だったら、学校はいつも通りのはずだった。
 ——なのに。
 おれのまわりだけ、まったく普段どおりじゃない。
「一ノ瀬くん、今回の記録更新についてコメントを!」
「次の大会への意気込みをぜひ!」
「写真一枚だけお願いします!」
 登校したら正門前に記者や他校の生徒がつめかけ、休み時間は廊下の曲がり角にスマホを構えたやつらがいるんだ。マジで騒がしい。
 でも嫌なわけじゃない。期待されるのも、注目されるのもうれしい。皆に注目されているってことは、努力が見えている証だと思えるから。
 だけど。
 先輩とゆっくり過ごせないのとは話が違う。今の状況で一番つらいのはそこだった。
せっかく、正式に恋人になったのに! ここ数日、まともに話せていない。すれ違いざまに挨拶して、少しだけ視線を交わして、お互い目と目だけで会話して、夜に甘いメッセージを送りあう……だけじゃ、ダメなんだよー!!
 その“少し”が、余計に会いたさを募らせる。あー、先輩に会いたい。ぎゅっと抱きしめたい。触りたい。できれば◯◯したい。そして―ー以下、自主規制。
 というのも、
「陽斗、サインしてくれよー!」
「今度フォーム教えて!」
 部活でも囲まれて、先輩に近づくタイミングなんて全然ないんだよね。
 それは、おれだけではなかった。
「佐伯先輩、放課後ヒマっすか?」
「字きれいですよね! ノート見せてほしいです!」
「先輩って詳しいっすよね! 今度、泳ぎの相談いいですか!」
 ……誰だおまえら。どっから、わいてきた。◯す!!
 大会でおれが“話題”になったせいで、先輩にアピールしに来る部員が急増したのだ。
“水泳部マネの近くにいれば得をする”
 そんな考えが透けて見える連中もいるんだ。
 くそ、こんなカオス許せるわけないだろ。嫉妬? そんなん生ぬるい。ここ数日、おれは完全に先輩不足だ。心がカラカラに乾いて、干からびたミイラになる寸前だ。
 そして、地獄みたいな一週間が過ぎたある日、事件は起きた。
 ——いや、起こしたのはおれだった。


  *



 先輩は、数人の後輩に囲まれていた。
「佐伯先輩、この計算式教えてください!」
「この動画見てほしいです!」
「ねえ先輩、ここってどう思います?」
(……何でお前らそんなに楽しそうに会話しとんねん)
 そのときのおれは、ターン練習をしていた。けれど、先輩が気になって集中できない。水の中なのに、やたら頭がカッカして熱かった。嫉妬の炎で酸素がぜんぜん足りなかった。それでもガマンしていたら、誰かが言った言葉が耳をかすめた。。
「先輩、芸能人の女の子よりかわいいっすね! おれとつきあってくださいよ〜!」
 何かが、ぷつんと切れた。
 次の瞬間、気づいたら水面を割っていた。先輩の手首をつかんだのは、ほとんど本能だった。
「先輩、ちょっと来てください!」
「え、えっ……!?  ちょ、陽斗く——」
「いいから!」
 驚く声を背に、おれは迷わず先輩を器具室へ連れていき、バタンと扉を閉めた。
 湿った空気。上から落ちる薄い陰影。
 先輩はまん丸い目でこっちを見ていた。
「よ、陽斗くん……どうしたの……?」
 言い訳なんてひとつも出てこなかった。かわりに出てきたのは——。
「……先輩。おれのものですよね?」
「え……」
「おれのものっていう証拠、見せてください!」
 自分でも引くほど、切羽詰まる声だった。
「だって、先輩はおれのものなのに! おれだけなのに、なのにあいつら……!」
 こないだやっと恋人どうしになったばかりだというのに、これはないだろう。頭の隅で思った。こんなのまるで、駄々っ子みたいじゃん。かっこよくない。重すぎる。ぜったい重すぎる。
 やばい、怒られる、引かれる、嫌われる——!

「陽斗くん」
 先輩はすっと手を伸ばし、おれの頭をぽん、ぽん、と叩いた。
「そんな顔しないでよ。怒ってないよ」
 おれを安心させるようにほほ笑んでいる。あまりにもやさしくて力が抜けた。
「突然さらわれてびっくりした……でも、ちょっとうれしかったりして」
「えっ……う、うれしい……?」
「だって……そんなに僕のこと好きでいてくれるんだ、って思ったから。そりゃ、うれしいに決まってる」
 先輩が、おれの手をそっと包んだ。
「ありがとう。ヤキモチ焼いてくれて、僕のこと大事に思ってくれて」
 めちゃくちゃ恥ずかしくなってきた。
「……あ、当たり前ですよ。先輩は、おれの……」
「恋人だからね」
 幸せすぎて息ができない。本気で泣きそう。
「でもね、ちょっとだけ驚いたよ。今日の陽斗くん、“子ども”みたいで」
「だって……先輩が……」
「……かわいかったよ?」
「っ……!!」
 ダメだ。限界。幸せすぎて呼吸が不整脈。
「……先輩、ごめんなさい。部活中なのに連れ出して……ほんとに、迷惑——」
「迷惑じゃなかったよ」
 即答だった。
「陽斗くんの気持ち、ちゃんと伝わったから」
「……ほんとに?」
「ほんと。でも次は……ちゃんとしたデートに連れ出してよ?」
 胸の奥の黒いものも、不安も、全部消えた。やっぱり、おれ、湊先輩じゃないとダメなんだ。
「はい!」
 先輩の言葉ひとつで、コロッと変わっちまうんだから、おれって単純だ。いや、それだけ先輩のことが好きなんだよ。
 先輩への独占欲も、愛情も、嫉妬も、もう制御できないくらい大きなものに育っているんだから。
「陽斗くん。これからどうする? ほとぼり冷めるまで、ここに隠れてる? ちょっとドキドキするよね」
「まずった……!」
 おれはまた頭を抱えた。
 きっと、大騒ぎになってるだろうな。みんなの見てる前で、すごい剣幕で先輩をさらっちまったんだから。今のうちに言い訳を考えておかなければ。
 うれしくて、恥ずかしくて、もうどうしたらいいかわからなかった。
 でもひとつだけ、確かなことがある。
 先輩が笑ってくれるなら、なんでもできる。なんでもしてあげようって思ったんだ。