次の日。
教室の空気は、いつもと少し違っていた。
ざわざわとした噂の気配。
そして、妙に静かな一角。
美羽は恐る恐る教室に入ると、まず真っ先に視線を向けた。
——いつもドアのところで待っていた“あの人”の姿が、ない。
「……え、いない。」
少しだけホッとしたような、でも逆にざわつくような気持ち。
そこへ、明るい声が飛び込んできた。
「美羽〜っ! おはよー!」
高城莉子が、いつも通りのテンションで駆け寄ってくる。
「莉子! お、おはよう!」
にこにこ笑う莉子。やっぱりこの笑顔を見ると落ち着く。
だが次の一言で、美羽の安息は一瞬で消し飛んだ。
「そういえばさ〜、白石くん今日学校休みだって〜!」
「え?」
「もしかして、美羽に振られたショックで休んでるんじゃない?」
莉子は泣き真似をして、オーバーに肩をすくめた。
「可哀想に……白石くん……」
「いやいやいや! 可哀想なのは私だからね!?」
「え〜、美羽、白石を弄んでるでしょ?」
「弄んでない!」
ジロリと睨む美羽に、莉子は「ふふ、冗談だよ。」と舌を出して笑った。
美羽はため息をつきながら机に突っ伏す。
(ほんっと、この子は人の不幸を楽しむタイプね……?)
「そうそう、美羽、もう聞いた?」
「なに?」
「“あの白石爽やか王子をフッた伝説の女子”って、噂広まっちゃってるよ?」
「…………」
「……え?」
「クラスだけじゃなくて、他の学年にも広まってるっぽい〜」
「ええええぇぇぇぇぇぇっ!?!?!?!?」
美羽は思わず立ち上がった。
(終わった……安泰な学園生活……さようなら……)
「さらば、平和な日々……」
悲しい目で遠くを見る美羽。
莉子はケラケラ笑いながら言った。
「いや、“黒薔薇学園”だからね? 平和なんてもともと無理でしょ?」
「ほんとに勘弁して……!」
――その日の放課後。
体育の授業が終わったあと、美羽は髪をまとめようとして気づいた。
「あ、ヘアゴム忘れた……」
(確か、体育館に置きっぱなしだったかも)
夕方の体育館は静かだった。
窓から射し込むオレンジの光が床に反射して、木目がキラキラして見える。
誰もいない。
その静けさが少し怖くもあり、落ち着くようでもあった。
「えっと……どこに置いたっけ……?」
美羽は床を見ながら歩き回る。
すると——
「もしかして、探してるのはこれですか?」
頭の上から声が降ってきた。
「え?」
顔を上げると、そこには童顔のイケメンがにこにこしながら立っていた。
指先でひらひらと、ピンク色のヘアゴムを掲げている。
「それ! 私の!!」
美羽は嬉しそうに近づいた。
「ありがと!」
そう言って受け取ろうとした瞬間——
ひょい、と避けられた。
「……え?」
もう一度手を伸ばす。
また、すっと身体ごとかわされる。
(え、なにこの子……めっちゃ軽やか……!)
「もう、ちょっと! 返してよ!」
「ん〜、もう少し早くしないと渡せないですよ?」
にこにこしながら挑発する彼。
その笑顔の奥に、どこか悪戯な光があった。
「……何の冗談?」
美羽は引きつった笑みを浮かべた。
「冗談じゃないですよ。」
男の子はくるりと回りながら言った。
「だって君、強いんですよね?」
「え?」
「悠真くんが、君に振られて落ち込んでるんですよ。だから僕が意地悪しにきました♪」
美羽は目を瞬かせた。
「……あなた、一体誰なの?」
男の子はニヤッと笑い、
「僕? 僕の名前は成瀬 碧(ナルセ アオ)。黒薔薇のメンバーですよ。覚えて下さいね?」
(え、うそでしょ!? また黒薔薇!?!?)
心の中で頭を抱える美羽。
成瀬は笑ったまま、くるっと身体をひねり、
「……はいっ!」と軽く蹴りを繰り出した。
風が頬をかすめる。
「ちょ、何するのっ!?」
「試してるんですよ。どれくらい強いのか。」
「やめてってば!」
「え〜? 僕の蹴り、避けましたよね? 今のけり、普通の女の子じゃ避けるなんて到底無理ですよ?」
その笑顔が無邪気であるほど、ゾッとする。
(しまった……反射で避けちゃった……!)
「僕、格闘技やってるんです。全国レベルでここらでは結構有名なんですよ?」
(うそでしょ!? なんでそんな奴が高校で髪ゴム盗んで遊んでるのよ!?)
「やっぱり、普通の子じゃないですね。君は。」
「ちょ、ちょっと待って! 私、強くないし! 喧嘩とか怖くてムリ!」
「へぇ? 本当ですか?」
碧がにじり寄る。
(やばい……やばい……このままだと……)
「もう知らないっ!」
美羽は踵を返して走り出した。
「え? 戦いから逃げるんですか?」
その一言で、背中の神経がピキッと反応する。
(……今、"逃げる"って言った?)
くるりと振り返る。
「言ったわね?」
「はい、言いましたよ?」
「調子に乗んな、童顔イケメンが!!」
瞬間、空気が変わった。
美羽の足がスッと動き、碧の足元を狙ってひっかける。
「うわっ!?」
視界が反転し、碧が床に転がる。
「……僕、負けた?」
「当たり前でしょ! もう、バカにして!」
碧は一瞬呆然として、それから笑った。
「それ、褒めてる?」
「褒めてない!!」
彼がふと視線を落とす。
「てか、白なんですね?」
「え?」
一瞬で美羽の顔が真っ赤になった。
「きゃっ! 見ないでよ! 変態!!!」
スカートを押さえようとした瞬間、
バランスを崩して体が傾く。
(あ、やば……倒れる!)
ぎゅっ——。
背中に腕の感触。
柔らかい声が、耳元で響いた。
「危ないな。」
目を開けると、すぐ目の前に北条椿の顔。
無表情なのに、妙に整いすぎた顔立ちが近い。
「……え?」
言葉が出ない。
椿は美羽を抱きとめたまま、視線を碧に向ける。
「碧。勝手なことをするな。」
碧は少し不貞腐れたように笑う。
「だってぇ、悠真くんが学校休むんですよ? どんな子なのか気になるじゃないですかぁ〜」
「で? 負けたのか?」
椿の唇が、わずかに上がった。
その笑みに、美羽の胸がどくん、と跳ねた。
「……っ」
(な、なんで……? 今、心臓、変な音した……?)
碧が頬をかきながら、「はは、完敗です。」と言う。
椿は腕の中の美羽を一瞥する。
「……なるほどな。」
美羽は赤くなった顔で、かすれた声を出した。
「……北条、椿……?」
椿はふっと微笑む。
その笑みが、なぜか世界を静かにした。
「ようやく会えたな。鈴の“恩人”さん。」
美羽の目が大きく見開かれる。
その瞳に映る黒薔薇の王は、
冷たくも、どこか優しい光を宿していた。
教室の空気は、いつもと少し違っていた。
ざわざわとした噂の気配。
そして、妙に静かな一角。
美羽は恐る恐る教室に入ると、まず真っ先に視線を向けた。
——いつもドアのところで待っていた“あの人”の姿が、ない。
「……え、いない。」
少しだけホッとしたような、でも逆にざわつくような気持ち。
そこへ、明るい声が飛び込んできた。
「美羽〜っ! おはよー!」
高城莉子が、いつも通りのテンションで駆け寄ってくる。
「莉子! お、おはよう!」
にこにこ笑う莉子。やっぱりこの笑顔を見ると落ち着く。
だが次の一言で、美羽の安息は一瞬で消し飛んだ。
「そういえばさ〜、白石くん今日学校休みだって〜!」
「え?」
「もしかして、美羽に振られたショックで休んでるんじゃない?」
莉子は泣き真似をして、オーバーに肩をすくめた。
「可哀想に……白石くん……」
「いやいやいや! 可哀想なのは私だからね!?」
「え〜、美羽、白石を弄んでるでしょ?」
「弄んでない!」
ジロリと睨む美羽に、莉子は「ふふ、冗談だよ。」と舌を出して笑った。
美羽はため息をつきながら机に突っ伏す。
(ほんっと、この子は人の不幸を楽しむタイプね……?)
「そうそう、美羽、もう聞いた?」
「なに?」
「“あの白石爽やか王子をフッた伝説の女子”って、噂広まっちゃってるよ?」
「…………」
「……え?」
「クラスだけじゃなくて、他の学年にも広まってるっぽい〜」
「ええええぇぇぇぇぇぇっ!?!?!?!?」
美羽は思わず立ち上がった。
(終わった……安泰な学園生活……さようなら……)
「さらば、平和な日々……」
悲しい目で遠くを見る美羽。
莉子はケラケラ笑いながら言った。
「いや、“黒薔薇学園”だからね? 平和なんてもともと無理でしょ?」
「ほんとに勘弁して……!」
――その日の放課後。
体育の授業が終わったあと、美羽は髪をまとめようとして気づいた。
「あ、ヘアゴム忘れた……」
(確か、体育館に置きっぱなしだったかも)
夕方の体育館は静かだった。
窓から射し込むオレンジの光が床に反射して、木目がキラキラして見える。
誰もいない。
その静けさが少し怖くもあり、落ち着くようでもあった。
「えっと……どこに置いたっけ……?」
美羽は床を見ながら歩き回る。
すると——
「もしかして、探してるのはこれですか?」
頭の上から声が降ってきた。
「え?」
顔を上げると、そこには童顔のイケメンがにこにこしながら立っていた。
指先でひらひらと、ピンク色のヘアゴムを掲げている。
「それ! 私の!!」
美羽は嬉しそうに近づいた。
「ありがと!」
そう言って受け取ろうとした瞬間——
ひょい、と避けられた。
「……え?」
もう一度手を伸ばす。
また、すっと身体ごとかわされる。
(え、なにこの子……めっちゃ軽やか……!)
「もう、ちょっと! 返してよ!」
「ん〜、もう少し早くしないと渡せないですよ?」
にこにこしながら挑発する彼。
その笑顔の奥に、どこか悪戯な光があった。
「……何の冗談?」
美羽は引きつった笑みを浮かべた。
「冗談じゃないですよ。」
男の子はくるりと回りながら言った。
「だって君、強いんですよね?」
「え?」
「悠真くんが、君に振られて落ち込んでるんですよ。だから僕が意地悪しにきました♪」
美羽は目を瞬かせた。
「……あなた、一体誰なの?」
男の子はニヤッと笑い、
「僕? 僕の名前は成瀬 碧(ナルセ アオ)。黒薔薇のメンバーですよ。覚えて下さいね?」
(え、うそでしょ!? また黒薔薇!?!?)
心の中で頭を抱える美羽。
成瀬は笑ったまま、くるっと身体をひねり、
「……はいっ!」と軽く蹴りを繰り出した。
風が頬をかすめる。
「ちょ、何するのっ!?」
「試してるんですよ。どれくらい強いのか。」
「やめてってば!」
「え〜? 僕の蹴り、避けましたよね? 今のけり、普通の女の子じゃ避けるなんて到底無理ですよ?」
その笑顔が無邪気であるほど、ゾッとする。
(しまった……反射で避けちゃった……!)
「僕、格闘技やってるんです。全国レベルでここらでは結構有名なんですよ?」
(うそでしょ!? なんでそんな奴が高校で髪ゴム盗んで遊んでるのよ!?)
「やっぱり、普通の子じゃないですね。君は。」
「ちょ、ちょっと待って! 私、強くないし! 喧嘩とか怖くてムリ!」
「へぇ? 本当ですか?」
碧がにじり寄る。
(やばい……やばい……このままだと……)
「もう知らないっ!」
美羽は踵を返して走り出した。
「え? 戦いから逃げるんですか?」
その一言で、背中の神経がピキッと反応する。
(……今、"逃げる"って言った?)
くるりと振り返る。
「言ったわね?」
「はい、言いましたよ?」
「調子に乗んな、童顔イケメンが!!」
瞬間、空気が変わった。
美羽の足がスッと動き、碧の足元を狙ってひっかける。
「うわっ!?」
視界が反転し、碧が床に転がる。
「……僕、負けた?」
「当たり前でしょ! もう、バカにして!」
碧は一瞬呆然として、それから笑った。
「それ、褒めてる?」
「褒めてない!!」
彼がふと視線を落とす。
「てか、白なんですね?」
「え?」
一瞬で美羽の顔が真っ赤になった。
「きゃっ! 見ないでよ! 変態!!!」
スカートを押さえようとした瞬間、
バランスを崩して体が傾く。
(あ、やば……倒れる!)
ぎゅっ——。
背中に腕の感触。
柔らかい声が、耳元で響いた。
「危ないな。」
目を開けると、すぐ目の前に北条椿の顔。
無表情なのに、妙に整いすぎた顔立ちが近い。
「……え?」
言葉が出ない。
椿は美羽を抱きとめたまま、視線を碧に向ける。
「碧。勝手なことをするな。」
碧は少し不貞腐れたように笑う。
「だってぇ、悠真くんが学校休むんですよ? どんな子なのか気になるじゃないですかぁ〜」
「で? 負けたのか?」
椿の唇が、わずかに上がった。
その笑みに、美羽の胸がどくん、と跳ねた。
「……っ」
(な、なんで……? 今、心臓、変な音した……?)
碧が頬をかきながら、「はは、完敗です。」と言う。
椿は腕の中の美羽を一瞥する。
「……なるほどな。」
美羽は赤くなった顔で、かすれた声を出した。
「……北条、椿……?」
椿はふっと微笑む。
その笑みが、なぜか世界を静かにした。
「ようやく会えたな。鈴の“恩人”さん。」
美羽の目が大きく見開かれる。
その瞳に映る黒薔薇の王は、
冷たくも、どこか優しい光を宿していた。



