あれから、二ヶ月が過ぎた。
莉子も、黒薔薇のメンバーも、全員退院した。
あの血の匂いも、サイレンの音も、今では少しだけ遠い夢みたいに薄れていく。
でも、胸の真ん中に残っているものだけは、まだくっきりとあった。
――あの日、命懸けで守ってくれた人たち。
そして、その中心にいる、北条椿という青年の存在。
今、美羽は黒薔薇学園の道場に立っている。
久しぶりに袖を通した、
白い空手の胴着に身を包む。
きゅっと高い位置で結んだポニーテール。
足元の畳は、汗と、何人もの努力と、悔しさと、勝利を吸い込んできた色をしていた。
目の前には、同じ胴着を着た椿が立っている。
絵になる、という言葉がぴったりだった。
さらっとした黒髪が無造作に跳ね、道着の袖から覗く腕には、しなやかな筋肉。
ふだんは学園の“王”として君臨している彼が、今はただの「強い男」として、そこにいた。
(……てかなんで私、こんなことになったんだっけ…?)
自分で引き受けたことなのに、あらためて思うと顔が熱くなる。
――時間は、一週間前にさかのぼる。
*
一週間前、病院のデイルーム。
窓の外には、柔らかい陽が落ちていた。
白いカーテンが、空調の風でふわりと揺れる。
その空間の端で、椿がひとり、紅茶に珍しく砂糖を入れて飲んでいた。
少し珍しい光景だった。
「……椿くん、紅茶に砂糖とか入れるんだ?」
つい、声をかけてしまう。
彼はカップから視線を上げ、美羽を見た。
「美羽。ちょうどいい。話がある。」
「え、なに?また買い出し?」
「違ぇよ。」
椿は、空いている椅子を顎で示した。
すすめられるまま腰を下ろすと、心臓がむやみにそわそわしはじめる。
「何?…改まって。」
紅茶の香りの中で、椿の声だけやけに鮮明に届いた。
「美羽、勝負しろ。」
「は?」
「空手だ。格闘技で、俺と一回勝負しろ。」
唐突すぎて、思考が一瞬止まる。
「え、なんで……今ここでバトルの予約入ったの?」
「ただし、条件付きでだ。」
椿は、まっすぐに美羽を見据えた。
心のどこかを射抜かれるような、まじめな眼差し。
「俺が勝ったら――美羽、俺の女になれ。」
「っ……!!??」
時間が止まったみたいに、デイルームの音が消えた。
「な、ななななに言って……」
「嫌なら拒否してもいい。
その代わり――お前が勝ったら、付き合わない。
これまで通り、ただの生徒会メンバーで通してやる。」
どっちに転んでも、椿のことを意識しないでいるなんて無理な条件だった。
(ずるいよ……そんなの、……)
喉がカラカラで、紅茶なんて一滴も飲める気がしなかった。
でも――心の奥で、何かが静かに定まっていく感覚があった。
あの夜、自分の命を張って守ってくれた背中。
血だらけになっても立ち上がろうとした姿。
あの肩にすがりつきながら、心のどこかで願ってしまった。
(この人の隣に、ずっといられたら――って)
だから、美羽は顔を真っ赤にしながらも、うなずいてしまった。
「……わかった。
その勝負、受けて立つ。」
椿の口元が、ふっと笑みに変わった。
「ああ。覚悟しとけよ?」
*
そして今、道場。
夕陽が窓から差し込んで、二人の影を長く伸ばしていた。
畳の上には、椿と美羽。
壁際には、黒薔薇の面々と莉子が座って見ている。
「で?結局僕たちは何を見せられてんの?これ公開プロポーズ?」
悠真が二人にじとーっとした視線を送る。
玲央はパソコンのキーボードを叩きながら
冷静にコメントする。
「だから言ったろ。“もしこの勝負に椿が勝ったら、雨宮美羽の恋人権利を得る”という、愚かだが興味深い取引だ。」
悠真はガーンとした表情で、玲央に詰め寄った。
「興味深いって言い方やめて!?僕の心がすでにえぐられてるんだけど!」
そんな、悠真をみて、碧が参戦した。
「落ち着いてください、悠真くん。僕だって参加したいですけど、二回も美羽さんに負けてるんです。因みに僕のプライドはすでに灰です。」
隣に座っている遼は、莉子と楽しそうに話していた。
「へぇ〜、面白いことになってんなぁ。で、莉子ちゃんはどっちが勝つと思う?」
「え?それはもちろん、美羽!!
なんたって、私のお兄ちゃんより強いですから!」
「いやちょっと待って莉子ちゃん!?あのさ、君の“強い”の基準、僕たちとズレてない!?」
悠真は、莉子の天然発言にツッコミをいれている。
そんな賑やかな空気の中で、美羽はひとり、椿を正面から見つめていた。
胴着姿の椿は、どこまでも様になっていた。
帯で締められた腰のライン、わずかに見える鎖骨、締まった首筋。
道場の空気より、こっちのほうがよっぽど息苦しい。
(かっこよすぎ……集中できないんだけど……)
そんな混乱をよそに、椿はいつもの調子で口を開いた。
「美羽、いいか?」
「……な、なに?」
「俺は手加減しない。
勝負は一回きりだ。
俺から一本取ったら――そのまま、俺をまっすぐに振れ。」
ドクン、と胸が鳴る。
(“まっすぐに振れ”って……なに、その言い方……)
「だが、俺が勝ったら――」
一拍おいて、椿が続ける。
「お前は今日から、俺の女だ。いいな?」
「……っ!!」
視界が一瞬、霞んだ。
嬉しい。
けど、怖い。
でも、やっぱり嬉しい。
こみあげてくる感情を押し込めて、美羽は意を決して笑ってみせた。
「……いいよ。
私も、自分より“弱い男”は、彼氏にしたくないから!」
椿の口角が、少し上がった。
「はっ、望むところだ。」
その色っぽい笑みに、思わず視線を逸らす。
(ダメダメ、今ときめいてる場合じゃないってば……!)
碧が手を上げる。
「では――両者、構えて。
……始めっ!」
畳を蹴る音が重なり、勝負が始まった。
*
空気が一瞬で変わる。
さっきまでの茶化し合いは消えて、椿の目が戦いのそれになる。
美羽も息を整え、構えをとった。
(負けたら椿の彼女。
勝ったら――この気持ちを、胸にしまったまま生きてく。
どっちの未来も、きっと簡単じゃない)
でも、どちらにしても――
「本当の自分」で勝負したい。
もう、嘘の“か弱い女子”で、選ばれたくなんかない。
美羽は先に動いた。
すばやい前蹴り。低く、鋭く、膝下から一気に蹴り上げる。
椿「――っ」
だが、椿は半歩だけ体をずらして避ける。
胴着の裾がふわりと揺れた。
(速……やっぱり、ただの不良の喧嘩じゃない)
拳を切り替え、今度は中段突き。
椿の胸元を狙うが、腕で弾かれる。
畳の上で、足さばきが小さく、素早く交差した。
悠真は二人の様子をハラハラドキドキしてみている。
「ねぇ、これ、普通に全国大会レベルじゃない?」
「うん、これもはや高校生のデートの域越えてるよね~」
遼はどこまでも楽観的だった。
「椿くんも、美羽もすごい!!……どっちも、本気だね……!」
莉子は二人の様子をキラキラした目で見ている。
美羽は、内心焦っていた。
(……椿くん、やっぱり動き慣れてる。
これって、まさか――)
その不安は、観客席の碧の一言で即座に言語化される。
「そういえば玲央くん。椿くんって空手有段者ですよね?階級いくつでしたっけ?」
玲央はパソコンのデータを広げて、メガネの縁を触った。
「たしか今年の4月までのデータでは空手は三段。柔道も三段。
あと、ジークンドー二段、テコンドー初段て所だ。」
それを聞いた悠真が慌てて、中間に入る。
「ちょっと待ったぁぁぁあ!!
それ、完全に美羽ちゃん負け確定コースじゃん!?止めよう!?ねぇ!?」
「でもね悠真くん、お兄ちゃん、空手四段だったから、まだわかんないよ!」
莉子はニコニコしながら天然発言を発揮している。
「なるほど!って、フォローになってないからそれぇ!!」
「それに今回は空手のみ。他の格闘技の技は禁止だ。
純粋に空手の勝負なら――まだわからない。」
玲央は、冷静に答える。
悠真が手すりを掴み、必死に声を張る。
「美羽ちゃーーん!!椿なんかに負けるなーー!!」
「“なんか”ってつけると普通に喧嘩売ってるよね、それ。」
隣に座っている遼は苦笑いしてみていた。
*
一方その頃、真正面からぶつかり続ける二人。
美羽の呼吸が少しずつ荒くなる。
額に汗がにじみ、汗が頬をつたう。
「やるな。
……でも、息が上がってるぞ?もう終わりか?」
「うるさい……まだ……!」
煽られて、意地でも崩れられない。
椿の余裕そうな視線が、妙に腹立たしくて、でも同時に眩しかった。
(椿くんに負けたら、好きって言える。
でも、勝ったら――この想いはまだ、秘密のままだなんて。)
胸がきゅっと締め付けられる。
(なら……正々堂々、本気でぶつかって。
それでも負けたら――ちゃんと、椿くんの隣に行く)
美羽は踏み込んだ。
フェイントを混ぜた連撃。
最初に見せた蹴りとは異なる角度で、素早く足を振るう。
「はあっ!」
だが、椿はそれを腕で受け流し、美羽の動きの流れごと撫でるようにいなす。
(え!そんな……今のもかわされた……!?)
わずかな体勢の乱れ。
それは武道において、致命傷になりうる隙だった。
椿の瞳が細くなった。
「――悪いな」
「えっ――」
その瞬間、美羽の手首が掴まれる。
床と身体の距離が急激に縮んでいく。
ドサッ。
「きゃっ……!」
畳の冷たさと、椿の体温が同時に押し寄せる。
視界のほとんどを、椿の顔が占めていた。
彼の腕が頭の横に伸び、畳に手をついて体を支えている。
至近距離。
息が触れる距離。
椿の額にも、汗が光っていた。
でも、その目は静かに、美羽だけを見ていた。
「……一本」
低く落ちた声が、鼓膜にやさしく、でもはっきりと刻まれる。
「椿くん、一本です!」と碧が旗を挙げた。
その一言で、勝敗は決した。
(……負け、た?)
ここまで一度も折れなかった“強さ”が、初めて誰かの前で止まった気がした。
悔しい。
でも、その何倍も――安心してしまった自分がいた。
椿は、美羽の頬を指先でそっとなぞる。
「俺の勝ち。
約束通り――」
目をそらさず、囁くように続けた。
「今日からお前は、"俺の女"だ。」
「っ……!」
耳まで真っ赤になって、目をぎゅっと閉じたくなる。
(そんなストレートに言わないでよ……!
心臓もたないってば……)
胸の中で暴れる鼓動が、椿に聞こえてしまいそうで怖かった。
「なぁ、美羽。」
「……なに?」
「ずっと、見てた。
嘘つきながら、強がって、でも誰よりも誰かを守ろうとするお前を。」
椿の声は、静かなのに熱を含んでいた。
「俺に負けた美羽は、たとえ強くても、
俺からすれば誰よりも守りたい、"か弱くて一番可愛い女"だ。
本気で戦って、本気で笑って、本気で泣く……
そういうお前が、俺は一番好きだ。」
視界が滲みそうになって、慌てて瞬きをする。
「……ずるい。
私だって、もう、とっくに椿くんを……好きになってるのに。」
「はは、知ってる。」
椿は、少しだけ笑って言った。
遠くから、悠真の嘆きが聞こえる。
「ちょ、ちょっと待って!?これ完全に公開告白&公開撃沈回なんだけど!?僕の心の救済はどこ!?」
「わーーー!!ついにカップル誕生!!おめでとー!!」
莉子が、目をハートにしてはしゃぐ。
「青春に乾杯〜。マジで映画化していいレベルだわ~」
「僕もいつかこんなロマンチックな告白してみたいですね……相手いませんけど。」
遼と、碧は和んでいた。
「……ふむ。心拍数、表情筋の動き、音声の揺れ。
貴重なデータが取れたな。」
そして玲央は、メガネを光らせ微笑んでいた。
賑やかな声が、道場の空気をあたたかく包み込む。
美羽は、椿の制服でも、特攻服でもない、
“空手胴着姿の椿”を、真正面から見つめた。
あの日、嘘で塗り固めた自分を捨てた。
今ここにいるのは、空手三段で、喧嘩も強くて、でも本当は誰よりも傷つきやすい、自分。
そんな自分を、真正面から受け止めてくれる人がいる。
「……椿くん。」
「ん?」
「負けちゃったけど……後悔はしてない。
ちゃんと、本気でぶつかって負けたから。
だから、その……よろしくお願いします。」
「……ああ。
美羽、覚悟しとけよ?」
椿は、いたずらっぽく笑った。
「生徒会でも、黒薔薇でも、これからは“俺の彼女”として扱われるわけだけど――」
「ちょっとまってその肩書き重すぎない!?
ていうか、黒薔薇王の彼女って何そのラスボスみたいなポジション!」
「安心しろ。
どんな奴が来ても、俺が全部まとめてぶっ潰す。」
「そういう物騒なとこ、ほんと好きなんだけどなんか嫌!」
「どっちだよ。」
二人の声に、また笑いが起きる。
窓の外では、雲の切れ間から陽射しが差し込み、畳の上に光の模様を描いていた。
こうして、美羽の恋は――
“か弱い女の子”という仮面を捨てた、その先で。
ちゃんと、椿の心に届いたのだった。
莉子も、黒薔薇のメンバーも、全員退院した。
あの血の匂いも、サイレンの音も、今では少しだけ遠い夢みたいに薄れていく。
でも、胸の真ん中に残っているものだけは、まだくっきりとあった。
――あの日、命懸けで守ってくれた人たち。
そして、その中心にいる、北条椿という青年の存在。
今、美羽は黒薔薇学園の道場に立っている。
久しぶりに袖を通した、
白い空手の胴着に身を包む。
きゅっと高い位置で結んだポニーテール。
足元の畳は、汗と、何人もの努力と、悔しさと、勝利を吸い込んできた色をしていた。
目の前には、同じ胴着を着た椿が立っている。
絵になる、という言葉がぴったりだった。
さらっとした黒髪が無造作に跳ね、道着の袖から覗く腕には、しなやかな筋肉。
ふだんは学園の“王”として君臨している彼が、今はただの「強い男」として、そこにいた。
(……てかなんで私、こんなことになったんだっけ…?)
自分で引き受けたことなのに、あらためて思うと顔が熱くなる。
――時間は、一週間前にさかのぼる。
*
一週間前、病院のデイルーム。
窓の外には、柔らかい陽が落ちていた。
白いカーテンが、空調の風でふわりと揺れる。
その空間の端で、椿がひとり、紅茶に珍しく砂糖を入れて飲んでいた。
少し珍しい光景だった。
「……椿くん、紅茶に砂糖とか入れるんだ?」
つい、声をかけてしまう。
彼はカップから視線を上げ、美羽を見た。
「美羽。ちょうどいい。話がある。」
「え、なに?また買い出し?」
「違ぇよ。」
椿は、空いている椅子を顎で示した。
すすめられるまま腰を下ろすと、心臓がむやみにそわそわしはじめる。
「何?…改まって。」
紅茶の香りの中で、椿の声だけやけに鮮明に届いた。
「美羽、勝負しろ。」
「は?」
「空手だ。格闘技で、俺と一回勝負しろ。」
唐突すぎて、思考が一瞬止まる。
「え、なんで……今ここでバトルの予約入ったの?」
「ただし、条件付きでだ。」
椿は、まっすぐに美羽を見据えた。
心のどこかを射抜かれるような、まじめな眼差し。
「俺が勝ったら――美羽、俺の女になれ。」
「っ……!!??」
時間が止まったみたいに、デイルームの音が消えた。
「な、ななななに言って……」
「嫌なら拒否してもいい。
その代わり――お前が勝ったら、付き合わない。
これまで通り、ただの生徒会メンバーで通してやる。」
どっちに転んでも、椿のことを意識しないでいるなんて無理な条件だった。
(ずるいよ……そんなの、……)
喉がカラカラで、紅茶なんて一滴も飲める気がしなかった。
でも――心の奥で、何かが静かに定まっていく感覚があった。
あの夜、自分の命を張って守ってくれた背中。
血だらけになっても立ち上がろうとした姿。
あの肩にすがりつきながら、心のどこかで願ってしまった。
(この人の隣に、ずっといられたら――って)
だから、美羽は顔を真っ赤にしながらも、うなずいてしまった。
「……わかった。
その勝負、受けて立つ。」
椿の口元が、ふっと笑みに変わった。
「ああ。覚悟しとけよ?」
*
そして今、道場。
夕陽が窓から差し込んで、二人の影を長く伸ばしていた。
畳の上には、椿と美羽。
壁際には、黒薔薇の面々と莉子が座って見ている。
「で?結局僕たちは何を見せられてんの?これ公開プロポーズ?」
悠真が二人にじとーっとした視線を送る。
玲央はパソコンのキーボードを叩きながら
冷静にコメントする。
「だから言ったろ。“もしこの勝負に椿が勝ったら、雨宮美羽の恋人権利を得る”という、愚かだが興味深い取引だ。」
悠真はガーンとした表情で、玲央に詰め寄った。
「興味深いって言い方やめて!?僕の心がすでにえぐられてるんだけど!」
そんな、悠真をみて、碧が参戦した。
「落ち着いてください、悠真くん。僕だって参加したいですけど、二回も美羽さんに負けてるんです。因みに僕のプライドはすでに灰です。」
隣に座っている遼は、莉子と楽しそうに話していた。
「へぇ〜、面白いことになってんなぁ。で、莉子ちゃんはどっちが勝つと思う?」
「え?それはもちろん、美羽!!
なんたって、私のお兄ちゃんより強いですから!」
「いやちょっと待って莉子ちゃん!?あのさ、君の“強い”の基準、僕たちとズレてない!?」
悠真は、莉子の天然発言にツッコミをいれている。
そんな賑やかな空気の中で、美羽はひとり、椿を正面から見つめていた。
胴着姿の椿は、どこまでも様になっていた。
帯で締められた腰のライン、わずかに見える鎖骨、締まった首筋。
道場の空気より、こっちのほうがよっぽど息苦しい。
(かっこよすぎ……集中できないんだけど……)
そんな混乱をよそに、椿はいつもの調子で口を開いた。
「美羽、いいか?」
「……な、なに?」
「俺は手加減しない。
勝負は一回きりだ。
俺から一本取ったら――そのまま、俺をまっすぐに振れ。」
ドクン、と胸が鳴る。
(“まっすぐに振れ”って……なに、その言い方……)
「だが、俺が勝ったら――」
一拍おいて、椿が続ける。
「お前は今日から、俺の女だ。いいな?」
「……っ!!」
視界が一瞬、霞んだ。
嬉しい。
けど、怖い。
でも、やっぱり嬉しい。
こみあげてくる感情を押し込めて、美羽は意を決して笑ってみせた。
「……いいよ。
私も、自分より“弱い男”は、彼氏にしたくないから!」
椿の口角が、少し上がった。
「はっ、望むところだ。」
その色っぽい笑みに、思わず視線を逸らす。
(ダメダメ、今ときめいてる場合じゃないってば……!)
碧が手を上げる。
「では――両者、構えて。
……始めっ!」
畳を蹴る音が重なり、勝負が始まった。
*
空気が一瞬で変わる。
さっきまでの茶化し合いは消えて、椿の目が戦いのそれになる。
美羽も息を整え、構えをとった。
(負けたら椿の彼女。
勝ったら――この気持ちを、胸にしまったまま生きてく。
どっちの未来も、きっと簡単じゃない)
でも、どちらにしても――
「本当の自分」で勝負したい。
もう、嘘の“か弱い女子”で、選ばれたくなんかない。
美羽は先に動いた。
すばやい前蹴り。低く、鋭く、膝下から一気に蹴り上げる。
椿「――っ」
だが、椿は半歩だけ体をずらして避ける。
胴着の裾がふわりと揺れた。
(速……やっぱり、ただの不良の喧嘩じゃない)
拳を切り替え、今度は中段突き。
椿の胸元を狙うが、腕で弾かれる。
畳の上で、足さばきが小さく、素早く交差した。
悠真は二人の様子をハラハラドキドキしてみている。
「ねぇ、これ、普通に全国大会レベルじゃない?」
「うん、これもはや高校生のデートの域越えてるよね~」
遼はどこまでも楽観的だった。
「椿くんも、美羽もすごい!!……どっちも、本気だね……!」
莉子は二人の様子をキラキラした目で見ている。
美羽は、内心焦っていた。
(……椿くん、やっぱり動き慣れてる。
これって、まさか――)
その不安は、観客席の碧の一言で即座に言語化される。
「そういえば玲央くん。椿くんって空手有段者ですよね?階級いくつでしたっけ?」
玲央はパソコンのデータを広げて、メガネの縁を触った。
「たしか今年の4月までのデータでは空手は三段。柔道も三段。
あと、ジークンドー二段、テコンドー初段て所だ。」
それを聞いた悠真が慌てて、中間に入る。
「ちょっと待ったぁぁぁあ!!
それ、完全に美羽ちゃん負け確定コースじゃん!?止めよう!?ねぇ!?」
「でもね悠真くん、お兄ちゃん、空手四段だったから、まだわかんないよ!」
莉子はニコニコしながら天然発言を発揮している。
「なるほど!って、フォローになってないからそれぇ!!」
「それに今回は空手のみ。他の格闘技の技は禁止だ。
純粋に空手の勝負なら――まだわからない。」
玲央は、冷静に答える。
悠真が手すりを掴み、必死に声を張る。
「美羽ちゃーーん!!椿なんかに負けるなーー!!」
「“なんか”ってつけると普通に喧嘩売ってるよね、それ。」
隣に座っている遼は苦笑いしてみていた。
*
一方その頃、真正面からぶつかり続ける二人。
美羽の呼吸が少しずつ荒くなる。
額に汗がにじみ、汗が頬をつたう。
「やるな。
……でも、息が上がってるぞ?もう終わりか?」
「うるさい……まだ……!」
煽られて、意地でも崩れられない。
椿の余裕そうな視線が、妙に腹立たしくて、でも同時に眩しかった。
(椿くんに負けたら、好きって言える。
でも、勝ったら――この想いはまだ、秘密のままだなんて。)
胸がきゅっと締め付けられる。
(なら……正々堂々、本気でぶつかって。
それでも負けたら――ちゃんと、椿くんの隣に行く)
美羽は踏み込んだ。
フェイントを混ぜた連撃。
最初に見せた蹴りとは異なる角度で、素早く足を振るう。
「はあっ!」
だが、椿はそれを腕で受け流し、美羽の動きの流れごと撫でるようにいなす。
(え!そんな……今のもかわされた……!?)
わずかな体勢の乱れ。
それは武道において、致命傷になりうる隙だった。
椿の瞳が細くなった。
「――悪いな」
「えっ――」
その瞬間、美羽の手首が掴まれる。
床と身体の距離が急激に縮んでいく。
ドサッ。
「きゃっ……!」
畳の冷たさと、椿の体温が同時に押し寄せる。
視界のほとんどを、椿の顔が占めていた。
彼の腕が頭の横に伸び、畳に手をついて体を支えている。
至近距離。
息が触れる距離。
椿の額にも、汗が光っていた。
でも、その目は静かに、美羽だけを見ていた。
「……一本」
低く落ちた声が、鼓膜にやさしく、でもはっきりと刻まれる。
「椿くん、一本です!」と碧が旗を挙げた。
その一言で、勝敗は決した。
(……負け、た?)
ここまで一度も折れなかった“強さ”が、初めて誰かの前で止まった気がした。
悔しい。
でも、その何倍も――安心してしまった自分がいた。
椿は、美羽の頬を指先でそっとなぞる。
「俺の勝ち。
約束通り――」
目をそらさず、囁くように続けた。
「今日からお前は、"俺の女"だ。」
「っ……!」
耳まで真っ赤になって、目をぎゅっと閉じたくなる。
(そんなストレートに言わないでよ……!
心臓もたないってば……)
胸の中で暴れる鼓動が、椿に聞こえてしまいそうで怖かった。
「なぁ、美羽。」
「……なに?」
「ずっと、見てた。
嘘つきながら、強がって、でも誰よりも誰かを守ろうとするお前を。」
椿の声は、静かなのに熱を含んでいた。
「俺に負けた美羽は、たとえ強くても、
俺からすれば誰よりも守りたい、"か弱くて一番可愛い女"だ。
本気で戦って、本気で笑って、本気で泣く……
そういうお前が、俺は一番好きだ。」
視界が滲みそうになって、慌てて瞬きをする。
「……ずるい。
私だって、もう、とっくに椿くんを……好きになってるのに。」
「はは、知ってる。」
椿は、少しだけ笑って言った。
遠くから、悠真の嘆きが聞こえる。
「ちょ、ちょっと待って!?これ完全に公開告白&公開撃沈回なんだけど!?僕の心の救済はどこ!?」
「わーーー!!ついにカップル誕生!!おめでとー!!」
莉子が、目をハートにしてはしゃぐ。
「青春に乾杯〜。マジで映画化していいレベルだわ~」
「僕もいつかこんなロマンチックな告白してみたいですね……相手いませんけど。」
遼と、碧は和んでいた。
「……ふむ。心拍数、表情筋の動き、音声の揺れ。
貴重なデータが取れたな。」
そして玲央は、メガネを光らせ微笑んでいた。
賑やかな声が、道場の空気をあたたかく包み込む。
美羽は、椿の制服でも、特攻服でもない、
“空手胴着姿の椿”を、真正面から見つめた。
あの日、嘘で塗り固めた自分を捨てた。
今ここにいるのは、空手三段で、喧嘩も強くて、でも本当は誰よりも傷つきやすい、自分。
そんな自分を、真正面から受け止めてくれる人がいる。
「……椿くん。」
「ん?」
「負けちゃったけど……後悔はしてない。
ちゃんと、本気でぶつかって負けたから。
だから、その……よろしくお願いします。」
「……ああ。
美羽、覚悟しとけよ?」
椿は、いたずらっぽく笑った。
「生徒会でも、黒薔薇でも、これからは“俺の彼女”として扱われるわけだけど――」
「ちょっとまってその肩書き重すぎない!?
ていうか、黒薔薇王の彼女って何そのラスボスみたいなポジション!」
「安心しろ。
どんな奴が来ても、俺が全部まとめてぶっ潰す。」
「そういう物騒なとこ、ほんと好きなんだけどなんか嫌!」
「どっちだよ。」
二人の声に、また笑いが起きる。
窓の外では、雲の切れ間から陽射しが差し込み、畳の上に光の模様を描いていた。
こうして、美羽の恋は――
“か弱い女の子”という仮面を捨てた、その先で。
ちゃんと、椿の心に届いたのだった。



