あれから、二ヶ月が過ぎた。

 莉子も、黒薔薇のメンバーも、全員退院した。
 あの血の匂いも、サイレンの音も、今では少しだけ遠い夢みたいに薄れていく。

 でも、胸の真ん中に残っているものだけは、まだくっきりとあった。
 ――あの日、命懸けで守ってくれた人たち。
 そして、その中心にいる、北条椿という青年の存在。

 今、美羽は黒薔薇学園の道場に立っている。

 久しぶりに袖を通した、
白い空手の胴着に身を包む。
 きゅっと高い位置で結んだポニーテール。
 足元の畳は、汗と、何人もの努力と、悔しさと、勝利を吸い込んできた色をしていた。

 目の前には、同じ胴着を着た椿が立っている。

 絵になる、という言葉がぴったりだった。
 さらっとした黒髪が無造作に跳ね、道着の袖から覗く腕には、しなやかな筋肉。
 ふだんは学園の“王”として君臨している彼が、今はただの「強い男」として、そこにいた。

(……てかなんで私、こんなことになったんだっけ…?)

 自分で引き受けたことなのに、あらためて思うと顔が熱くなる。

 ――時間は、一週間前にさかのぼる。







 一週間前、病院のデイルーム。

 窓の外には、柔らかい陽が落ちていた。
 白いカーテンが、空調の風でふわりと揺れる。
 その空間の端で、椿がひとり、紅茶に珍しく砂糖を入れて飲んでいた。

 少し珍しい光景だった。

「……椿くん、紅茶に砂糖とか入れるんだ?」

 つい、声をかけてしまう。
 彼はカップから視線を上げ、美羽を見た。

「美羽。ちょうどいい。話がある。」

「え、なに?また買い出し?」

「違ぇよ。」

 椿は、空いている椅子を顎で示した。
 すすめられるまま腰を下ろすと、心臓がむやみにそわそわしはじめる。

「何?…改まって。」

 紅茶の香りの中で、椿の声だけやけに鮮明に届いた。

「美羽、勝負しろ。」

「は?」

「空手だ。格闘技で、俺と一回勝負しろ。」

 唐突すぎて、思考が一瞬止まる。

「え、なんで……今ここでバトルの予約入ったの?」

「ただし、条件付きでだ。」

 椿は、まっすぐに美羽を見据えた。
 心のどこかを射抜かれるような、まじめな眼差し。

「俺が勝ったら――美羽、俺の女になれ。」

「っ……!!??」

 時間が止まったみたいに、デイルームの音が消えた。

「な、ななななに言って……」

「嫌なら拒否してもいい。
 その代わり――お前が勝ったら、付き合わない。
 これまで通り、ただの生徒会メンバーで通してやる。」

 どっちに転んでも、椿のことを意識しないでいるなんて無理な条件だった。

(ずるいよ……そんなの、……)

 喉がカラカラで、紅茶なんて一滴も飲める気がしなかった。
 でも――心の奥で、何かが静かに定まっていく感覚があった。

 あの夜、自分の命を張って守ってくれた背中。
 血だらけになっても立ち上がろうとした姿。
 あの肩にすがりつきながら、心のどこかで願ってしまった。

(この人の隣に、ずっといられたら――って)

 だから、美羽は顔を真っ赤にしながらも、うなずいてしまった。

「……わかった。
 その勝負、受けて立つ。」

 椿の口元が、ふっと笑みに変わった。

「ああ。覚悟しとけよ?」








 そして今、道場。

 夕陽が窓から差し込んで、二人の影を長く伸ばしていた。
 畳の上には、椿と美羽。
 壁際には、黒薔薇の面々と莉子が座って見ている。

「で?結局僕たちは何を見せられてんの?これ公開プロポーズ?」

 悠真が二人にじとーっとした視線を送る。

玲央はパソコンのキーボードを叩きながら
冷静にコメントする。

「だから言ったろ。“もしこの勝負に椿が勝ったら、雨宮美羽の恋人権利を得る”という、愚かだが興味深い取引だ。」


悠真はガーンとした表情で、玲央に詰め寄った。

「興味深いって言い方やめて!?僕の心がすでにえぐられてるんだけど!」

そんな、悠真をみて、碧が参戦した。

「落ち着いてください、悠真くん。僕だって参加したいですけど、二回も美羽さんに負けてるんです。因みに僕のプライドはすでに灰です。」

隣に座っている遼は、莉子と楽しそうに話していた。
「へぇ〜、面白いことになってんなぁ。で、莉子ちゃんはどっちが勝つと思う?」

「え?それはもちろん、美羽!!
 なんたって、私のお兄ちゃんより強いですから!」

「いやちょっと待って莉子ちゃん!?あのさ、君の“強い”の基準、僕たちとズレてない!?」

悠真は、莉子の天然発言にツッコミをいれている。




 そんな賑やかな空気の中で、美羽はひとり、椿を正面から見つめていた。

 胴着姿の椿は、どこまでも様になっていた。
 帯で締められた腰のライン、わずかに見える鎖骨、締まった首筋。
 道場の空気より、こっちのほうがよっぽど息苦しい。

(かっこよすぎ……集中できないんだけど……)

 そんな混乱をよそに、椿はいつもの調子で口を開いた。

「美羽、いいか?」

「……な、なに?」

「俺は手加減しない。
 勝負は一回きりだ。
 俺から一本取ったら――そのまま、俺をまっすぐに振れ。」

 ドクン、と胸が鳴る。

(“まっすぐに振れ”って……なに、その言い方……)

「だが、俺が勝ったら――」

 一拍おいて、椿が続ける。

「お前は今日から、俺の女だ。いいな?」

「……っ!!」

 視界が一瞬、霞んだ。

 嬉しい。
 けど、怖い。
 でも、やっぱり嬉しい。

 こみあげてくる感情を押し込めて、美羽は意を決して笑ってみせた。

「……いいよ。
 私も、自分より“弱い男”は、彼氏にしたくないから!」

 椿の口角が、少し上がった。

「はっ、望むところだ。」

 その色っぽい笑みに、思わず視線を逸らす。

(ダメダメ、今ときめいてる場合じゃないってば……!)

 碧が手を上げる。

「では――両者、構えて。
 ……始めっ!」

 畳を蹴る音が重なり、勝負が始まった。








 空気が一瞬で変わる。

 さっきまでの茶化し合いは消えて、椿の目が戦いのそれになる。
 美羽も息を整え、構えをとった。

(負けたら椿の彼女。
 勝ったら――この気持ちを、胸にしまったまま生きてく。
 どっちの未来も、きっと簡単じゃない)

 でも、どちらにしても――
 「本当の自分」で勝負したい。
 もう、嘘の“か弱い女子”で、選ばれたくなんかない。

 美羽は先に動いた。
 すばやい前蹴り。低く、鋭く、膝下から一気に蹴り上げる。

椿「――っ」

 だが、椿は半歩だけ体をずらして避ける。
 胴着の裾がふわりと揺れた。

(速……やっぱり、ただの不良の喧嘩じゃない)

 拳を切り替え、今度は中段突き。
 椿の胸元を狙うが、腕で弾かれる。
 畳の上で、足さばきが小さく、素早く交差した。


悠真は二人の様子をハラハラドキドキしてみている。


「ねぇ、これ、普通に全国大会レベルじゃない?」

「うん、これもはや高校生のデートの域越えてるよね~」

遼はどこまでも楽観的だった。


「椿くんも、美羽もすごい!!……どっちも、本気だね……!」


莉子は二人の様子をキラキラした目で見ている。





 美羽は、内心焦っていた。

(……椿くん、やっぱり動き慣れてる。
 これって、まさか――)

 その不安は、観客席の碧の一言で即座に言語化される。

「そういえば玲央くん。椿くんって空手有段者ですよね?階級いくつでしたっけ?」

玲央はパソコンのデータを広げて、メガネの縁を触った。

「たしか今年の4月までのデータでは空手は三段。柔道も三段。
 あと、ジークンドー二段、テコンドー初段て所だ。」

それを聞いた悠真が慌てて、中間に入る。

「ちょっと待ったぁぁぁあ!!
 それ、完全に美羽ちゃん負け確定コースじゃん!?止めよう!?ねぇ!?」

「でもね悠真くん、お兄ちゃん、空手四段だったから、まだわかんないよ!」

莉子はニコニコしながら天然発言を発揮している。


「なるほど!って、フォローになってないからそれぇ!!」


「それに今回は空手のみ。他の格闘技の技は禁止だ。
 純粋に空手の勝負なら――まだわからない。」
玲央は、冷静に答える。

 悠真が手すりを掴み、必死に声を張る。

「美羽ちゃーーん!!椿なんかに負けるなーー!!」

「“なんか”ってつけると普通に喧嘩売ってるよね、それ。」

隣に座っている遼は苦笑いしてみていた。








 一方その頃、真正面からぶつかり続ける二人。

 美羽の呼吸が少しずつ荒くなる。
 額に汗がにじみ、汗が頬をつたう。

「やるな。
 ……でも、息が上がってるぞ?もう終わりか?」

「うるさい……まだ……!」

 煽られて、意地でも崩れられない。
 椿の余裕そうな視線が、妙に腹立たしくて、でも同時に眩しかった。


(椿くんに負けたら、好きって言える。
 でも、勝ったら――この想いはまだ、秘密のままだなんて。)


 胸がきゅっと締め付けられる。


(なら……正々堂々、本気でぶつかって。
 それでも負けたら――ちゃんと、椿くんの隣に行く)

 美羽は踏み込んだ。
 フェイントを混ぜた連撃。
 最初に見せた蹴りとは異なる角度で、素早く足を振るう。

「はあっ!」

 だが、椿はそれを腕で受け流し、美羽の動きの流れごと撫でるようにいなす。

(え!そんな……今のもかわされた……!?)

 わずかな体勢の乱れ。
 それは武道において、致命傷になりうる隙だった。

椿の瞳が細くなった。

「――悪いな」

「えっ――」

 その瞬間、美羽の手首が掴まれる。
 床と身体の距離が急激に縮んでいく。

ドサッ。

「きゃっ……!」

 畳の冷たさと、椿の体温が同時に押し寄せる。
 視界のほとんどを、椿の顔が占めていた。

 彼の腕が頭の横に伸び、畳に手をついて体を支えている。
 至近距離。
 息が触れる距離。

 椿の額にも、汗が光っていた。
 でも、その目は静かに、美羽だけを見ていた。

「……一本」

 低く落ちた声が、鼓膜にやさしく、でもはっきりと刻まれる。


「椿くん、一本です!」と碧が旗を挙げた。


 その一言で、勝敗は決した。

(……負け、た?)

 ここまで一度も折れなかった“強さ”が、初めて誰かの前で止まった気がした。
 悔しい。
 でも、その何倍も――安心してしまった自分がいた。

 椿は、美羽の頬を指先でそっとなぞる。

「俺の勝ち。
 約束通り――」

 目をそらさず、囁くように続けた。

「今日からお前は、"俺の女"だ。」

「っ……!」

 耳まで真っ赤になって、目をぎゅっと閉じたくなる。

(そんなストレートに言わないでよ……!
 心臓もたないってば……)

 胸の中で暴れる鼓動が、椿に聞こえてしまいそうで怖かった。

「なぁ、美羽。」

「……なに?」

「ずっと、見てた。
 嘘つきながら、強がって、でも誰よりも誰かを守ろうとするお前を。」

 椿の声は、静かなのに熱を含んでいた。

「俺に負けた美羽は、たとえ強くても、
俺からすれば誰よりも守りたい、"か弱くて一番可愛い女"だ。
 本気で戦って、本気で笑って、本気で泣く……
 そういうお前が、俺は一番好きだ。」

 視界が滲みそうになって、慌てて瞬きをする。

「……ずるい。
 私だって、もう、とっくに椿くんを……好きになってるのに。」

「はは、知ってる。」

 椿は、少しだけ笑って言った。

 遠くから、悠真の嘆きが聞こえる。

「ちょ、ちょっと待って!?これ完全に公開告白&公開撃沈回なんだけど!?僕の心の救済はどこ!?」

「わーーー!!ついにカップル誕生!!おめでとー!!」

莉子が、目をハートにしてはしゃぐ。


「青春に乾杯〜。マジで映画化していいレベルだわ~」

「僕もいつかこんなロマンチックな告白してみたいですね……相手いませんけど。」

遼と、碧は和んでいた。


「……ふむ。心拍数、表情筋の動き、音声の揺れ。
 貴重なデータが取れたな。」

そして玲央は、メガネを光らせ微笑んでいた。




 賑やかな声が、道場の空気をあたたかく包み込む。

 美羽は、椿の制服でも、特攻服でもない、
 “空手胴着姿の椿”を、真正面から見つめた。

 あの日、嘘で塗り固めた自分を捨てた。
 今ここにいるのは、空手三段で、喧嘩も強くて、でも本当は誰よりも傷つきやすい、自分。

 そんな自分を、真正面から受け止めてくれる人がいる。

「……椿くん。」

「ん?」

「負けちゃったけど……後悔はしてない。
 ちゃんと、本気でぶつかって負けたから。
 だから、その……よろしくお願いします。」

「……ああ。
 美羽、覚悟しとけよ?」

 椿は、いたずらっぽく笑った。

「生徒会でも、黒薔薇でも、これからは“俺の彼女”として扱われるわけだけど――」

「ちょっとまってその肩書き重すぎない!?
 ていうか、黒薔薇王の彼女って何そのラスボスみたいなポジション!」

「安心しろ。
 どんな奴が来ても、俺が全部まとめてぶっ潰す。」

「そういう物騒なとこ、ほんと好きなんだけどなんか嫌!」

「どっちだよ。」

 二人の声に、また笑いが起きる。

 窓の外では、雲の切れ間から陽射しが差し込み、畳の上に光の模様を描いていた。

 こうして、美羽の恋は――
 “か弱い女の子”という仮面を捨てた、その先で。

 ちゃんと、椿の心に届いたのだった。