危険すぎる恋に、落ちてしまいました。1



秋人の手に握られたナイフが、光を受けて鈍くきらめく。
刃先が頬に触れるほど近づいたその瞬間、空気が細く震えた。

 ――怖い。
 でも、もう逃げたくない。

 胸の奥で、長い間沈めていた何かが静かに“目を覚まし”始めていた。

(……私は、もう嘘の“か弱い女の子”じゃない)

 耳の奥で、父の優しい声が蘇る。

――守りたいものができたとき、お前の拳はきっと誰かを救う。

 守りたいものが、今ここにある。

椿の笑顔。
悠真の優しさ。
碧の真っすぐさ。
遼の明るさ。
玲央の静かな友情。
倒れて震えている莉子。

 胸の中に灯った火が、ゆっくりと広がっていく。

秋人が唇に笑みを浮かべる。

「どうしたの?黒薔薇のお姫様。震えてるよ?
いいねぇいいねぇ~その泣き顔、もっと見せてよ!!」

 冷たい声が肌に触れた。
その声を聞いた瞬間、美羽の心を覆っていたガラスが――ぱきん、と音を立てて割れた。

(……もう黙っていられない)

「ん?今、なんか音が――」

 秋人が言い終わる前に。

「っ……!」

 美羽の頭が、迷いなく前に突き出された。

――ドゴォォォンッ!!!

 凄まじい衝撃音が、倉庫全体を震わせた。

「……は?」

 秋人の体が宙を舞い、数メートル後ろの壁に叩きつけられた。

椿が目を限界まで見開く。

「美羽……!!」

悠真はぽかんと口を開けたまま。

「え、吹っ飛んだ……?」

遼はニヤリと笑う。

「美羽ちゃん覚醒……ってか?やっべぇ。」

碧は冷静に事実だけを述べた。

「頭蓋骨、いきましたよね?」

玲央は眼鏡を押し上げながら、小さく呟く。

「データを超えたな……」

 ミシ……ミシミシ。

 美羽の手首に食い込んでいたロープが、腕の力だけで引き裂かれていく。
足首に巻かれた縄も、一息でちぎれた。

 灰色の埃の中で、秋人がふらつきながら立ち上がる。

「あは……美羽ちゃん、痛いんだけど。ひどいなぁ……?」

美羽は静かに立ち上がり、ゆっくりと息を吸った。

「私は……ずっと……皆の前では“か弱い女の子”でいたかった……」

 その瞳からは一筋の綺麗な涙が頬を伝った。


椿は目を見開き、そして何も言わず黙ったまま視線を反らさずに美羽を見つめている。


「空手で強くなったせいで…初めて好きになった男の子に振られて、……
生まれ変わって、誰かに守られる、か弱い愛される女の子でいたかったのに……」

 頬をつたう一筋の涙は、それは弱さではなく今の彼女を形づくった“真実”の涙。

秋人がシュルッとナイフを右手で回転させ、顔の前に構えてゆっくりと歩き出し、勢いよく飛び出す。

「でも、そんなの幻想にしかすぎない。美羽ちゃんは結局っ――」

「……違う」

美羽の足が、風を裂いた。
ひゅ、と空気が細く鳴る。
 次の瞬間。

 パキィィンッ!!!

硬質な破裂音が、倉庫に響き渡る。


秋人の手から弾き飛ばされたナイフが、くるりと光を反射しながら宙に舞う。
刃先は無残に折れ、鈍い金属音を立てて地面へと回るように転がった。

 カラン、……シュルシュルシュルッと。
 その音だけが、やけに長く響いた。
 秋人の喉が、ひくりと震える。

「何っ、俺のナイフが……嘘だろ……?」

 美羽は涙を拭う。
夕焼けの光が、彼女の頬を淡く染める。
 濡れた睫毛の先に、橙色の光がきらめいた。
 その瞳は――もう揺れていなかった。

美羽は決意を固めた表情で、秋人を真正面から見据えた。

「私はっ!!椿くんの前では……
“か弱い女の子”でいたかったのに!!」

 地面を蹴り、汚れたアスファルトが微かに軋む。
 一歩踏み込むと、風が彼女の髪をさらう。

 次の瞬間――。

ドゴオオォォンッ!!!

 美羽の拳が秋人の頬をえぐった。
秋人の体が、音を置き去りにして吹っ飛ぶ。

「あなたのせいで!!」
「もう“か弱い女の子”でいられないんだから!!
てか一生彼氏できないかもしれないじゃないっ!!!」
「どうしてくれんのよ!!バカァァァ!!!」

 美羽は涙混じりの怒鳴り声とともに、秋人の胸元を掴んで殴り倒した。

掌底が胸を打ち抜き、衝撃が波紋のように空気を震わせる。
肘が、流れる水のような軌道を描く。
膝が、迷いなく腹部を射抜き、
拳が周りの空気を呼び込むように振り下ろされる。

どれも迷いなく、美しく、しなやかに。

そして、ドサッと鈍い音と共に、決着がついた。
美羽の呼吸が荒く、肩が上下する。




けれど、振り返ったその立ち姿は――
凛として、真っ直ぐだった。
風が吹く。
彼女の髪がふわりと舞い、涙の跡を乾かしていく。


悠真は引き気味に呟く。

「え、あれ……美羽ちゃーん……?」

遼は笑いながらも震えていた。

「つえぇ……ガチでつえぇ……」

碧は完全に興奮していた。

「僕、見惚れました……!」



白百合の手下たちが、無意識に息を呑む。

美羽は、ゆっくりと顔を上げた。
ふわりと運んできた風が、彼女の髪を撫でた。
光が、その輪郭を縁取る。
まるで――
戦うために咲いた、一輪の薔薇のように。


美羽は前を見据え、凛とした声で言い放った。


「"かかってきなよ、私が相手してあげる。"」


白百合の手下達にそう告げた。



手下たちが一斉に襲いかかる。

美羽は、くるりと一回転しながら低く構える。

「もう、誰にも邪魔させないー!!」

「私は――、」

ドガッッ!!!

 1人の腹を打ち抜く。

「大切な皆を――、」

バキッッ!!!

 顎に拳が入り、2人目が沈む。

「守りたいだけなの!!!!!」

 砂ぼこりの中で、彼女の動きは羽が舞うようだった。
蹴り、拳、回転、着地。
舞う髪に光が反射し、薄暗い倉庫に煌めきを散らす。

最後、金属バットを構えた男が叫びながら突っ込んできた。

「うおぉぉおお!!」

美羽は冷たく言う。

「そんな玩具、通用しないけど?」

 回し蹴りがバットを吹き飛ばし、次の瞬間、男の鳩尾に拳がめり込んだ。


「ぐぁふぁああ!!」

 男が崩れ落ちた瞬間、倉庫の空気が静止した。

 美羽は汗を拭い、頬をつたう血を舌なめずりし不適に笑った。

「……不味っ」

 その姿は――
もう誰も“か弱い女の子”だとは思わなかった。
血に染まり、逞しく、そして一際美しく立つ
ひとりの女子高生だった。

 椿は血まみれで座り込んで、ぽつりと笑う。

「……はは、やるじゃん。」

 その目には、恐怖じゃなく――
“惚れた女への誇り”が宿っていた。

 倒れ伏した手下たちと、ぐったりと気絶した秋人。
それを見下ろす美羽の姿は、夕陽の粉塵に照らされて――
まるで“戦う天使”のように見えた。