危険すぎる恋に、落ちてしまいました。1

その日の昼休み、春の風は少しだけ優しかった。
校舎の屋上に吹く風は、甘いパンの匂いとチョークの粉を一緒に運んでくる。

「……風、きもちい〜。」

美羽は、フェンスにもたれながらお弁当を広げた。
今日はおにぎりと卵焼き、そして母が作ってくれたミニトマト。
いつもなら隣で高城莉子が騒ぎながら食べているはずだけど、今日は風邪を引いてお休みだ。

「一人で食べるお弁当、久しぶりだなぁ。」

そう呟いて空を見上げた。
都会の空は、田舎よりも少し狭く見える。
けれど、その狭さが逆に美しい。
ビルの隙間から見える青が、まるで絵の具のように深い。
美羽は少しだけ、胸の奥が温かくなるのを感じた。







——ふと、昔のことを思い出した。

小さいころから、夢中になれるものといえば「空手」だった。
遊びもおしゃれもそっちのけで、ただひたすら強くなることが楽しかった。

「喧嘩が強すぎて、“番長”とかあだ名つけられてたなぁ……」

美羽は笑ってしまう。
男子に混ざって道場で汗を流して、勝つたびに嬉しくて、負けると悔しくて泣いた。

中学生の時、空手の階級で三段を取った。
みんなに「すごい!」と褒められて、少しだけ誇らしかった。

——でも。

「……そういえば、あの時、告白して玉砕したんだっけ。」

ぽつりと呟く。

好きだった同級生。
勇気を出して伝えた“初恋”の告白。

"――ごめん、雨宮さん。"

"僕は、か弱くて、守ってあげたくなるような子が好きなんだ。"

あっけなくフラれた。
その瞬間、空手着の袖がやけに重く感じて、
「もういいや」って、練習をやめた。

髪も伸ばして、メイクも覚えて。
鏡の前で笑う練習をして。
「か弱い女の子」を演じるのが、次第に自然になっていった。

結果――今の自分が出来上がった。
見た目だけなら“守ってあげたくなる系女子高生”だ。

だけど、心のどこかで思う。
(……私、まだちゃんと、"恋"してないんだよね)

空の青が、少しだけ遠く見えた。






急に、ドアの開く音がして美羽は振り向いた。

そこに立っていたのは、他クラスの男子二人。
どちらも少しそわそわして、視線が泳いでいる。

「あ、雨宮さん……だよね?」
「うん、そうだけど……?」

「話、いいかな?」
「……なに?」

(あー……また来た。いつものあれか)
心の中でため息をつく。
最近こういうのが多い。
正直、もう慣れっこだった。

「俺……雨音さんのこと、ずっと前から好きでした!」
「えっ」

隣の友達が「がんばれよ!」と小声で背中を押している。

美羽はぽかんとしたあと、思わず笑ってしまった。
「ねぇ、二人で来る時点でさ、ちょっと違くない?」
「え……」
「一人で面と向かって来る度胸もないの?」

言葉は可愛く、でもちょっと棘を込めて言った。

「なっ!!……調子にのんなよ!」
「え?」

空気が一気に変わる。
次の瞬間、美羽は男子生徒達に腕をぐいっと掴まれた。

「きゃっ!」
痛みに顔をしかめる。
もう一人が後ろから腕を押さえてきた。

「ちょっと、やめて!」
「ちょっと人より可愛いからって!ふざけやがって!」

パチンッ。
頬に衝撃。

(え…私、叩かれた?)

熱くて、じん、とした。

「いった……何すんのよ!」

(だめ、ここでやり返したら……)
学園での平穏が消える。
黒薔薇の連中にも目をつけられるかもしれない。
それだけは避けたい。

どうしよう——そう思った瞬間。







「あれ?何の遊びしてるの?——僕も混ぜてよ?」

穏やかな声。
でも、その声音には妙な圧があった。

振り返ると、そこに立っていたのは涼しげな笑顔の一人の男子生徒。
茶髪が夕陽を受けて柔らかく輝いている。
少し眠たげな目元に、綺麗に整った顔立ち。
制服の白いシャツは皺ひとつなく、ネクタイも完璧で
上から細いチェーンのネックレスを下げている。

まるで少女漫画から抜け出してきたみたいな、王子様のようなキラキラとした清潔感があった。

でも——
その目の奥底は鋭く、冷たい。


「し、白石……悠真……!」
「え? 君たち、まさか"黒薔薇"のいるこの学園で、女の子に手出しする遊びしてるの?」

とにこりと微笑む。
でも、その笑みがなぜか背筋を凍らせた。

「信じられないなぁ?」

声は柔らかい。
なのに、圧がある。
まるで見えない刃が喉元に当てられているみたいな、静かな威圧が感じられた。

「ち、違うって……ちょっと話してただけだし……」
男の一人が後ずさる。

「ひっ……」

悠真は、ゆっくりと一歩踏み出した。

コツ。
革靴の音が、やけに響く。

「へぇ? でも叩いてたよね?」


一瞬、目が細くなる。
その瞬間——
空気が、変わった。


それからの動きは、ほとんど見えなかった。
悠真の足が、地面を蹴る。
一人目の男子の腹部に、鋭い膝蹴り。

「ぐっ……!」

息が潰れる音。
そのまま体をひねり、腕を掴んで背後に回る。
関節が極まる。

「痛っ、いだだだだ!!」

冷静な声。
「大声出さないでよ。うるさいから。」

ドン、と地面に叩きつける。
二人目が殴りかかる。
悠真は、わずかに首を傾けるだけで拳をかわす。
風が頬をかすめる。

(速い……!)

体勢を低く落とし、相手の足を払う。
バランスを崩した瞬間、肩を掴んで回転させる。
地面に激突。
「がっ……!」
男子生徒の一人が逃げようとする。
悠真は、ため息をひとつ。

「だめだよ?最後まで付き合わないと。」

一歩で距離を詰める。
背後から襟首を掴み、軽く引くだけ。
それだけで、相手はおもいきり尻もちをついた。

男子生徒達は、完全に戦意喪失し
目にも止まらぬ速さで、床に沈んでいた。

「うそ……」

呆然と立ち尽くす美羽。

(なにこの人……めっちゃ強い……!)

悠真は、スーツの襟を整えるみたいに制服の袖を直し、
いつもの爽やかスマイルで振り向いた。

「大丈夫?」
「……あ、はい。ありがとうございます!」

その笑顔が、さっきまで戦っていた人と同一人物とは思えない。

差し出された手。
その指先はすらりとしていて、どこか優雅で。
つい反射的に、その手を取ってしまった。

触れた瞬間、心臓が一回跳ねた。

「顔、赤いよ?」

少し眠たげな目が、じっと美羽を見つめてくる。

「え!? い、いや、そんな……」

優しく言いながら、指先で美羽の頬に触れそうになる。

「冷やした方がいいね。保健室行こ?」
「だ、大丈夫です!」
「いいから、いいから。」

まるで優雅な王子様にエスコートされるみたいに、自然に手を引かれる。

笑顔のまま、絶対に逆らえないオーラを放っていた。
(……この人、腹黒だ)
そう思った時には、すでに保健室へ向かっていた。








ーーー保健室にて。

保健室に入ると、消毒液の匂いが鼻をくすぐった。
白いカーテンがゆらゆらと揺れ、午後の光が柔らかく差し込む。

「座って。」
「……はい。」

悠真はタオルを冷たい水で濡らし、優しく絞ってから美羽の頬に当てた。

「冷たいよ?」
「っ……ひゃ、冷たっ……」

少し笑いながら、彼はタオルを押さえる。
距離が近い。
近すぎる。
顔を上げるたびに、彼の瞳に自分が映ってしまう。

「痛む?」
「いえ……もう平気です。」
「そう、我慢強いんだね。」

その一言に、なぜかドキッとした。
どうしてそんな言葉を、そんな優しい声で言うの。

悠真がタオルを外し、微笑む。
「君、名前は?」
「え?あ、雨宮 美羽です。」

「みはね?」

「"美しい羽"と書いて、美羽です。」

「へえ!そうなんだ、……綺麗な名前だね。」

(……っ)
耳の奥が一瞬で熱くなる。
なんで、そんなこと言うの。

「あなたの名前は……?」

そう尋ねた瞬間、悠真は「え!?」ときょとんとした顔をした。
そして——笑い出した。

「まさか、僕の名前知らないの?そんな子いたんだね…?」
「ごめんなさい。……私、田舎から来たばかりで……この学園のこと全く知らなくて。」
「へぇ、…なるほどね。そっかそっか!」

悠真は頷きながら、にやりと笑った。
「僕は白石 悠真(しらいし ゆうま)。黒薔薇のメンバーで、生徒会副会長してるんだ。よろしくね、可愛い美羽ちゃん?」

(く、黒薔薇ぁ~っ!?)
全身から血の気が引いた。

(やばい! よりによって黒薔薇の人! 関わる気なんて更々なかったのに!!)

美羽は頭の中が真っ白になり、もうすでに泣きたい気分だ。
やっと平穏な学校生活が馴染んできたと思っていたのに。

悠真は立ち上がり、
「ごめんね、美羽ちゃん。このこと、椿に報告しないとだから。」
と軽く言った。

「つばき……?」
言い終える前に、保健室のドアが開いた。

「ここにいたのか、悠真。何かあったのか?」

入ってきたのは、まるで空気を変えるような存在感。
黒髪を整え、鋭い目つき。
国宝級に整った端正な顔。
"北条 椿"——一番関わってはいけない、黒薔薇の王、そして生徒会長だった。

一瞬、時が止まる。
美羽は思わず息を飲んだ。
(な、なにこの威圧感……でも、間近で見たらちょっと……かっこいいかも……?)

「(っていうか今、“椿”って言った!?)」
「(よりによって黒薔薇のトップと副会長!? どうしよう……!!)」

悠真が真面目な顔で報告を始める。
「屋上でちょっとしたトラブルがあってね。怪我は軽いけど、一応報告を。」
「…そうか。」
椿の低い声が響く。

二人の間に流れる空気がピリッと張り詰める。
居たたまれなくなった美羽は、ひっそりと立ち上がった。

「あ、あのっ! 今日はほんとにありがとうございました!!」

「では!私はこれで、失礼しますっ!」

思いきり深く頭を下げて、そのまま逃げるように保健室を出た。

後ろから、悠真の声が聞こえてくる。
「え?ちょっと美羽ちゃーん!?また会おうねー!?」

「もう会わないですーっ!!!」

顔を真っ赤にしたまま、美羽は廊下を駆け抜けていった。
高まる胸の鼓動が、止まらない。

(……なんなの、あの人たち……!絶対、関わらないって決めてたのに!)

頬に残る冷たい感触と、悠真の"綺麗な名前だね"という言葉が、なぜか頭から離れなかった。