世界が、ゆっくりと歪む。
秋人のナイフが近づくその瞬間、
美羽の意識は薄い水膜に包まれたみたいに遠のき、
時間がスローモーションになっていった。
――パキ、パキ、と
胸の奥で何かが割れる音だけが鮮明に響く。
そこに、父の笑い声がよみがえった。
*
風がよく通る田舎町だった。
夏は蝉の声がうるさくて、冬は星が手に届きそうなくらい近かった。
「美羽は、僕達の宝物だぁ!」
大きな手でぐしゃぐしゃに頭を撫でながら父は笑っていた。
母はそんな父を呆れたように見ながらも、同じように笑っていた。
あの頃の私は、
世界は全部味方で、
自分は誰からも愛されてるって、当たり前みたいに信じてた。
「美羽、可愛いから誘拐されたら困るなあ!そうだ!!空手なんてどうだ?」
父が冗談半分に、でも本気で焦りながら言う。
その目が優しくて、あたたかくて――今も忘れられない。
「いいか、美羽。空手は人を傷つけるためのものじゃない。
でも……自分の大切なものを守るためなら、拳をふるっていい。
それはきっと、いつかお前の役に立つから。」
夕焼け色の道場で、
父はいつもとびきりの笑顔でそう言っていた。
私は笑って頷いた。
「うんっ!わかった!お父さん!」
あの頃の私は――
強くあることが誇りだった。
*
空手を続けていく中で、
私はクラスのいじめっ子から友達を守ることもできるようになった。
「番長」なんて呼ばれてからかわれても、全然嫌じゃなかった。
だって私は、
大切な人を守れる自分が、好きだったから。
でも、中学生になって。
好きな人ができた。
林くん。
優しくて、賢くて、柔らかい笑顔が似合う男の子。
空手道場の隅の窓から見える彼の横顔に、
毎日、胸がきゅっと痛んだ。
――…一生懸命な子が好きなんだ。
その何気ない言葉に勇気をもらった私は、
夏休み前の大会で優勝した勢いのまま、
林くんを屋上に呼び出した。
風が強い日だった。
夕日が世界を金色に染めていて、
すべてがうまくいくような気がしていた。
「あの…林くん!好きです。付き合ってください。」
震える声で言った私に、
林くんは優しい顔で……でも残酷なほどはっきりと言った。
「ごめん。僕……か弱くて、守ってあげたくなる女の子が好きなんだ。
雨宮さんって空手、やってるんだよね?すごいと思うよ?
でも……自分より強すぎる女の子は……ちょっと、好きになれないかな。」
その瞬間から、美羽の世界は色をなくした。
あの瞬間、
私の“強さ”は価値でも誇りでもなくなった。
「か弱い、女の子……。」
その言葉が美羽の頭の中を何度も復唱した。
美羽が培ってきた"強さ"は、恋を叶えるための“邪魔なもの”だと告げられた気がした。
胸の奥の、頑丈だと思っていたガラスのハートが、
粉々に砕け落ちた。
*
その次の日、空手を辞めた。
「どうしたんだ、雨宮……?」
空手の先生が驚いた顔をしていた。
でも私は何も言えなかった。
次の朝、
道場の白い胴着をゴミ袋に詰めた。
燃えるゴミの日、ひどい雨だったのを覚えている。
冷たくじわじわと湿っていく胴着がまるで、涙が滲んでいるように見えた。
夏休みの間、
私は布団をかぶって泣き続けた。
両親が何度も部屋の前で心配して声をかけてくれたけれど、
“生理がしんどくて空手をやめた”なんて、くだらない嘘をついてごまかした。
髪を伸ばし始めたのはその頃だった。
ショートをやめ、必死に伸ばしてケアして、
雑誌を買い漁り、可愛いメイクを研究して、
“弱そうな女の子”を作り上げた。
――守ってもらえるような可愛い女の子、
――嫌われないような可愛い女の子、
――恋で傷つかないような可愛い女の子。
本当の私は、
どんどん奥へ奥へと押し込められた。
冬、
雪が降り始めて、
中学卒業が近づいた頃、父の転勤が決まった。
都会へ行ける。
「女子高生デビュー」だ。
新しい私になれる。
そう思った。
空手なんて忘れたかった。
強い自分なんて二度と見たくなかった。
弱いふりをして、
か弱いふりをして、
“守ってあげたくなる女子”になりたかった。
傷つかないために。
誰かに嫌われないために。
――本当は全部、嘘だったとしても。
*
(……なのに)
今、喉を締めつけられ、刃物を当てられ
目の前で愛する人たちが傷つけられている。
(私……こんなこと、望んでなんかいない…
私は、ずっと大切な皆を守りたかっただけなの……なのに、どうして…?)
秋人の手が首を締める感覚が戻ってきた瞬間、
美羽は涙を流しながら思った。
(お父さん……私……拳を使っていい?
大切な人を守るために。
私……もう、隠れていたくないよ……)
その願いは、“覚醒”へ繋がる。
秋人のナイフが近づくその瞬間、
美羽の意識は薄い水膜に包まれたみたいに遠のき、
時間がスローモーションになっていった。
――パキ、パキ、と
胸の奥で何かが割れる音だけが鮮明に響く。
そこに、父の笑い声がよみがえった。
*
風がよく通る田舎町だった。
夏は蝉の声がうるさくて、冬は星が手に届きそうなくらい近かった。
「美羽は、僕達の宝物だぁ!」
大きな手でぐしゃぐしゃに頭を撫でながら父は笑っていた。
母はそんな父を呆れたように見ながらも、同じように笑っていた。
あの頃の私は、
世界は全部味方で、
自分は誰からも愛されてるって、当たり前みたいに信じてた。
「美羽、可愛いから誘拐されたら困るなあ!そうだ!!空手なんてどうだ?」
父が冗談半分に、でも本気で焦りながら言う。
その目が優しくて、あたたかくて――今も忘れられない。
「いいか、美羽。空手は人を傷つけるためのものじゃない。
でも……自分の大切なものを守るためなら、拳をふるっていい。
それはきっと、いつかお前の役に立つから。」
夕焼け色の道場で、
父はいつもとびきりの笑顔でそう言っていた。
私は笑って頷いた。
「うんっ!わかった!お父さん!」
あの頃の私は――
強くあることが誇りだった。
*
空手を続けていく中で、
私はクラスのいじめっ子から友達を守ることもできるようになった。
「番長」なんて呼ばれてからかわれても、全然嫌じゃなかった。
だって私は、
大切な人を守れる自分が、好きだったから。
でも、中学生になって。
好きな人ができた。
林くん。
優しくて、賢くて、柔らかい笑顔が似合う男の子。
空手道場の隅の窓から見える彼の横顔に、
毎日、胸がきゅっと痛んだ。
――…一生懸命な子が好きなんだ。
その何気ない言葉に勇気をもらった私は、
夏休み前の大会で優勝した勢いのまま、
林くんを屋上に呼び出した。
風が強い日だった。
夕日が世界を金色に染めていて、
すべてがうまくいくような気がしていた。
「あの…林くん!好きです。付き合ってください。」
震える声で言った私に、
林くんは優しい顔で……でも残酷なほどはっきりと言った。
「ごめん。僕……か弱くて、守ってあげたくなる女の子が好きなんだ。
雨宮さんって空手、やってるんだよね?すごいと思うよ?
でも……自分より強すぎる女の子は……ちょっと、好きになれないかな。」
その瞬間から、美羽の世界は色をなくした。
あの瞬間、
私の“強さ”は価値でも誇りでもなくなった。
「か弱い、女の子……。」
その言葉が美羽の頭の中を何度も復唱した。
美羽が培ってきた"強さ"は、恋を叶えるための“邪魔なもの”だと告げられた気がした。
胸の奥の、頑丈だと思っていたガラスのハートが、
粉々に砕け落ちた。
*
その次の日、空手を辞めた。
「どうしたんだ、雨宮……?」
空手の先生が驚いた顔をしていた。
でも私は何も言えなかった。
次の朝、
道場の白い胴着をゴミ袋に詰めた。
燃えるゴミの日、ひどい雨だったのを覚えている。
冷たくじわじわと湿っていく胴着がまるで、涙が滲んでいるように見えた。
夏休みの間、
私は布団をかぶって泣き続けた。
両親が何度も部屋の前で心配して声をかけてくれたけれど、
“生理がしんどくて空手をやめた”なんて、くだらない嘘をついてごまかした。
髪を伸ばし始めたのはその頃だった。
ショートをやめ、必死に伸ばしてケアして、
雑誌を買い漁り、可愛いメイクを研究して、
“弱そうな女の子”を作り上げた。
――守ってもらえるような可愛い女の子、
――嫌われないような可愛い女の子、
――恋で傷つかないような可愛い女の子。
本当の私は、
どんどん奥へ奥へと押し込められた。
冬、
雪が降り始めて、
中学卒業が近づいた頃、父の転勤が決まった。
都会へ行ける。
「女子高生デビュー」だ。
新しい私になれる。
そう思った。
空手なんて忘れたかった。
強い自分なんて二度と見たくなかった。
弱いふりをして、
か弱いふりをして、
“守ってあげたくなる女子”になりたかった。
傷つかないために。
誰かに嫌われないために。
――本当は全部、嘘だったとしても。
*
(……なのに)
今、喉を締めつけられ、刃物を当てられ
目の前で愛する人たちが傷つけられている。
(私……こんなこと、望んでなんかいない…
私は、ずっと大切な皆を守りたかっただけなの……なのに、どうして…?)
秋人の手が首を締める感覚が戻ってきた瞬間、
美羽は涙を流しながら思った。
(お父さん……私……拳を使っていい?
大切な人を守るために。
私……もう、隠れていたくないよ……)
その願いは、“覚醒”へ繋がる。



