サイレンが赤い光を引き裂くように夜の街を走っていく。
 美羽は座席に固定された椿の手を握っていた。

「椿くん……大丈夫だよね……?」

 返事はない。
 椿の瞼は閉じられ、額には血が乾いて黒くなり、頬はわずかに青い。

 心電図の電子音だけが淡々と響く。

 美羽の胸はずっとぎゅっと強く握りしめられたままだった。

(私……また誰も守れなかった……
 莉子も……椿くんも……
 どうすればよかったの……?)

 視界が滲む。
 救急隊員が冷静に処置する音が、逆に恐ろしかった。



*

 病院に着くと、椿はすぐに処置室へ運ばれた。

「ご家族の方は……?」

「い、いません!代わりに生徒会の者が来ます!」

 そう答えるのが精一杯だった。

 廊下にぽつんと取り残される。

 時間の流れが歪んでいく。
 一秒一秒が重たく、呼吸するだけで胸が痛くなる。

 そのとき――

「美羽ちゃんっ!!」

 駆け込んできた足音。
 振り向くと、息を切らし、すこし乱れたネクタイの悠真が立っていた。

「美羽ちゃん、大丈夫!?ケガは!?どこも痛くない!?」

 肩を掴んでくる勢いが強すぎて、美羽は戸惑った。

「あ、あの…私より椿くんが……!!」

「椿の容態は!?」

「まだ……処置中で……」

 悠真は拳を握りしめ、震えていた。

「クソ……っ、秋人……!!
 あいつだけは、あいつだけは許さない……!」

 普段おっとりしている悠真の怒気に、美羽は息を呑んだ。

 その横顔は、いつもより少し幼くて、でも誰よりも真剣だった。

「美羽ちゃん……怖かったでしょ……?」

 その優しい声に――涙が堰を切ったように溢れた。

「ひっ……うっ……
 私……莉子も守れなくて……
 椿くんも……
 椿くんが、私をかばって……!」

 言葉にならない。

 悠真はぎゅっと美羽の肩を抱き寄せた。

「大丈夫、大丈夫だから。
 美羽ちゃんは悪くない。全部、悪いのは白百合の秋人だよ。」

「でも……!」

「椿が倒れたのは、美羽ちゃんを守りたかったからだよ。
 それは……椿が選んだことだ。」

 その一言に、胸の奥がきゅうっと痛んだ。

*

 どれくらい待っただろう。
 ようやく医師が出てきた。

「ご友人の方ですね。
 命に別状はありません。ただ――」

 美羽と悠真は息を飲む。

「頭部を少し強く打っていますので
 しばらく安静が必要です。
 意識は、もうすぐ戻ると思います。」

「ほ、ほんとうですか……!!」

 安堵のあまり、美羽の足から力が抜けた。

 悠真が慌てて支える。

「よかった……!美羽ちゃん、よかったね……!」

「……うん……!!」

*

 椿のベッドの横に座る。

 医師の「家族以外は一人だけ」の指示で、美羽だけが残った。

 椿の顔はいつものように強くて鋭いわけじゃなくて、
 静かで、弱くて……
 胸の奥が締めつけられるようだった。

「椿くん……」

 そっと手を握る。
 指先がひんやりしていて、思わず強く握りしめてしまう。

 静かな病室に、美羽の少し乱れた呼吸だけが響いていた。

(どうしてこんなことに……)

 ふと、椿の指がわずかに動いた。

「……っ!」

 顔を上げる。

「椿くん……!椿くん……!!」

 ゆっくりと、椿の瞼が震え――
 薄く開いた。

「……っ……み、美羽……?」

 かすれた声。

 美羽の胸がきゅうっとなった。

「椿くん!よかった……ほんとによかった……!」

「……お前、また……泣いてんのかよ……」

 椿は顔をしかめながら、美羽の頬に手を伸ばした。
 指先でそっと涙を拭う。

「……泣くと、変な顔だぞ……」

「変でいいもん!
 椿くんが……生きてるなら……!!」

 椿はうっすらと笑った。

「……バカ……」

 その笑顔があまりに弱くて、優しくて、
 胸がぎゅうっと締めつけられた。

「……美羽。
 お前のダチ……は……?」

 美羽は顔を伏せ、震える声で言った。

「連れ去られた……ごめん……
 私、何もできなくて……!」

 椿はゆっくりと息を吸い、天井を見つめた。

「…くそっ、…秋人め……」

 その声には、怒りでも憎しみでもなく――
 “覚悟”のようなものが宿っていた。

*

 沈黙のあと、椿が美羽を見た。

「美羽。」

「……なに……?」

「お前は、俺が守る。
 だから……絶対にひとりで動くな。」

 弱っているはずなのに、
 その言葉はしっかりと美羽の胸に突き刺さる。

「でも……」

「約束だ。」

 その声は確かだった。

 美羽は、涙で滲んだ視界の中で、椿の手をきゅっと握り返した。

「……うん。
 約束……する……」

 その瞬間、椿はほっとしたように目を細めた。

 病室の薄明かりの中、
 椿のまつげが長く影を落とし、
 その横顔に、美羽の胸はまた跳ねた。

(……好きだよ、椿くん……)

 でも、その想いはまだ口にはできなかった。

*

 その夜。
 美羽の胸の奥では、何かが音を立てて変わり始めていた。

 そして、
 莉子を救い、秋人に立ち向かうための、
 新しい戦いの幕が――
 静かに上がろうとしていた。