椿に手を繋がれたまま、道場を出たときから――
 美羽の心臓は、ずっと落ち着いてくれなかった。

 廊下を歩くたびに、繋いだ手がほんの少し揺れる。
 そのたびに、胸の奥がきゅっと鳴る。

(なにこれ……。
 さっきまで、碧くんに押し倒されてパニックだったはずなのに……
 全部上書きされてるん気がするんですけど……)

 校門の前にたどり着いたところで、
 椿はふっと立ち止まり、ゆっくりと手を離した。

 指先が離れていく瞬間、
 そこに残ったぬくもりだけが、妙にくっきりと残る。

 少しだけ、沈黙。

 風が、二人の間を通り抜けていった。

「……足は、大丈夫か?」

 不意に投げられた言葉に、美羽はびくっと肩を揺らした。

「え、あっ……う、うん! 快調だよ! 全然ヘーキ!!」

 しどろもどろ。声が裏返る。

(落ち着け私!! なにテンパってんの!?)

 椿はじっとこちらを見つめ、
 それから「そうか」と小さく息を吐いて歩き出した。

 二人で並んで歩くのは、これが初めてだった。

 夕焼けに染まる通学路。
 アスファルトに伸びる影が、少しずつ長く、細くなっていく。

(……なんだか、現実味がないなぁ)

 隣には、黒薔薇の王で、生徒会長で、
 顔面国宝の北条椿。

 けど、今はただ、
 少し早足で歩く、同じ一年の男の子。

 そんなふうに見えてしまう自分が、
 ちょっとだけ不思議だった。

 沈黙を破ったのは、やっぱり椿の方だった。

「……碧と勝負してたんじゃなかったのか?」

 その一言に、美羽は全身をビクッと震わせる。

「い、いや、最初はそうだったんだけどね!?
 ちゃんと勝負してて! それで、たまたま私が勝っちゃって!
 そしたらなんか碧くんが急におかしくなっちゃって……?
 私にもよくわかんなくて……? てかなんでああなったのか、私が聞きたいよ!? おかしいよね! あははは!」

 笑いながら、自分でも苦しい言い訳だと思った。

(うわぁぁ、我ながら説明が下手すぎる……!)

 椿は、そんな美羽を見ながら、ふうっと深くため息をついた。

「あのな。お前は“狙われてる”んだぞ?
 碧は後で注意するとしてだ、もう少し危機感を持て。」

「えぇっ!? 椿くんは、私が悪いって言いたいの!?
 ひどくない!?」

「そうは言ってねぇ。
 じゃなくてだな、危機感の話を――」

 さらに説明しようとした椿の言葉を、美羽は思わず遮っていた。

「てか、別に私、碧くんのことなんとも思ってないし!?
 なんか流れで押し倒されて、ちょっとびっくりしたけど、ちゃんと断ってたんだけど!
 むしろ私は……!」

 口が、勝手に動いた。

 “むしろ”の先にある言葉が、喉の奥までせり上がってきて――
 そこで、ぴたりと動かなくなる。

「……っ」

 自分で自分の言葉に、ブレーキをかけた。

(やだ、私……。
 今、何言おうとしたの……?
 “むしろ私は、椿くんが”って……!?)

 顔が一気に熱くなる。

 言いかけた言葉に、自分で驚いて、怖くなった。

 椿が横目でこちらを見る。

「むしろ、なんだよ?」

「い、いや、その……私は……椿くんが……ええと……」

 うまく言えない。

 夕焼けが、椿の横顔を染めていた。
 黒髪に金色のラインが差し込んで、
 睫毛の影が頬に落ちる。

(……綺麗だな)

 思った瞬間、息が止まりそうになった。

(もし、私がここで“好き”って言ったら――
 椿くん、困る、よね?)

 きっと、冷静に、
「そういうのは迷惑だ」とか
「なんの冗談だ」とか言われてしまうかもしれない。

(バカだな、私。
 何を言おうとしてたの。
 こんな私を、椿くんが“そういう意味で”相手にするわけないのに……)

 胸の奥が、きゅっと痛んだ。

 答えが出せずに黙り込む美羽を、
 椿はじっと見つめている。

「……美羽?」

 その時だった。

「きゃあああああっ!!」

 近くで、悲鳴が上がった。

「っ!!」

「っ!?」

 ほぼ同時に、二人とも音のした方へ振り向いていた。

「ちっ、公園の方だな。」

 椿が低く言う。
 もう迷いなく走り出していた。

「ま、待って――!」

 美羽もすぐに後を追う。

 風を切る音と、心臓の音が重なっていく。
 夕焼けに染まる街の色が、どんどん赤く濃くなっていくように見えた。





 公園に着いた瞬間――息を呑んだ。

 砂場の前。遊具のそば。
 黒薔薇学園の制服を着た男子生徒が三人、
 地面に倒れ込んでいた。

 その周りを取り囲むように立っているのは、
 白い制服に百合と銀の竜の刺繍をあしらった不良たち。

 白い布地に、背中を覆う銀の登り竜の刺繍。
 どこか宗教画みたいな派手さと、不穏さを漂わせている。

 そして、その奥――

「莉子!?」

 ブランコの支柱に押さえつけられるようにして、
 莉子が不良たちに腕を掴まれていた。

 顔面蒼白で、それでもこっちを見つけて叫ぶ。

「椿くん!? 美羽!? 助けてぇっ!!」

「っ……!」

 美羽の足が凍りつく。

 椿はちらりと美羽を見て、状況を確認するように一言。

「あれは……お前のダチか」

「うん……! どうして莉子が……!!」

 絶望と焦りで、喉がひきつる。

 白い制服の男が、口の端を歪めて近づいてきた。

「おぉ? これはこれは、黒薔薇の“王”じゃねぇか。
 こんなところでお目にかかれるとはなぁ?」

 嘲るような声。

 椿の眉間の皺が、さらに深くなる。

 そして、美羽の前に一歩出て、押し戻すように後ろへ隠した。

「下がってろ、美羽。」

 その背中は大きくて、
 夕陽に照らされて黒いシルエットになっていた。

 椿は白い制服の不良を冷たく睨みつける。

「久しぶりだな、“白百合”。
 まだこんなくだらねぇことしてんのか?」

「白百合――?」

 美羽は聞き慣れない名前に、思わず呟いた。

 不良たちは、にやりと笑った。

「俺らは“白百合の王"の命令に従ってるだけだ。
 悪く思うなよ?」

 「白百合」という単語のあと。
 別の名前が、続いた。

「秋人さんの、な?」

 その名を聞いた瞬間、
 椿の瞳が大きく見開かれた。

「……秋人、だと?」

 握りしめた拳が震える。
 歯を食いしばる音が、僅かに聞こえた。

「何を言ってやがる。あいつは――」

「はははっ! なんも知らねぇんだなぁ? 黒薔薇はお気楽なもんだ!!」
 不良の一人が、わざとらしく肩をすくめてみせる。
「大層に女まで連れて歩いてよぉ。
 秋人さんは一年前に“復活”したぜ? ぴんぴんしてらぁ!」

「っ……」

 椿の肩がぴくりと揺れた。

 怒りなのか、驚きなのか、
 美羽にはわからない。

 ただ、その横顔から、
 今まで見たことのないほどの緊張が伝わってきた。

(秋人……? 白百合……なんの話?)

 名前だけが頭の中をぐるぐる回る。

 美羽は知らなかった。
 椿と“高城秋人”という男の過去も、
 黒薔薇と白百合が中学時代からやり合っていたことも。

 ただ、今、目の前にあるのは――
 倒れている黒薔薇学園の生徒三人と、
 泣きそうな顔でこっちを見ている親友ひとり。

「つ、椿くん……」

 弱々しく名前を呼ぶと、
 椿はほんの一瞬だけ、美羽に視線を向けた。

 それは、“大丈夫だ”と告げるような目。そして――
 “絶対に近づくな”と警告する目だった。

 白い制服の不良たちは、楽しげに笑う。

「まぁ、ここで会ったのも何かの縁だ。
 楽しくやり合おうやぁ!」

 ひとりが、勢いよく椿に殴りかかってきた。

 椿は一歩だけ体をずらし、その拳をかわす。
 相手の腕を掴み、体重を乗せて投げ飛ばす。

 ドスッ。

 地面に叩きつけられ、不良が呻き声をあげた。

「ぐっ……!」

 そのわずかな隙を狙って、別の不良が動いた。

「お嬢さんは眠っといてもらおうかぁ!」

 莉子を押さえつけていた男が、鳩尾に思い切り拳を打ち込む。

「うっ……!」

 莉子の身体が小さく跳ね、そのまま崩れ落ちた。

「莉子!!」

 美羽の叫びが、夕暮れの公園に響く。

 椿は舌打ちした。

「クソが……!」

 そして、鋭い声で美羽を制した。

「美羽! お前は手を出すな!!」

「で、でも!!」

 頭より先に、身体が前に出そうになる。

 しかし椿の声は、それ以上に強く、美羽を絡め取った。

「こいつらは全員、“過激武闘派”で有名な暴走族だ。
 少しでも気を抜いたら殺られる。
 お前は絶対に手を出すな!!」

 いつもより低く、鋭い声。

 その声に含まれた焦りと苛立ちが、
 逆にこの場の危険さをはっきりと示していた。

 白百合の一人が、ニヤリと笑って美羽の方を見た。

「そうだぜぇ、お嬢ちゃん。
 俺たちをナメちゃ困るよなぁ?
 黒薔薇のお高くとまってる奴らとは、喧嘩の“王道”が違うんだよ。」

 その目は、獲物を値踏みする獣の目だった。

 背筋に、ゾクリと冷たいものが走る。

(――怖い)

 心のどこかで、素直にそう思った。

 でも――

(早く……早く、莉子を助けないと……!!)

 恐怖と、焦りと、
 自分の中に眠る“もうひとつの顔”が、
 胸の奥で混ざり合っていく。

 握りしめた拳に、じわりと汗が滲んだ。

 椿の背中の向こうで、
 白い刺繍が、夕暮れに不気味な影を落としていた。